そのひたいは神のごとく、そのあごは悪魔のごとき男…。
千夜一夜物語の翻訳でいちばん普及しているのは、バートン版と呼ばれるもの。この、バートンという男。
職業は、冒険家。
ナイルをさかのぼり、タンガニーカ湖を発見し、
三人がかりでしか使えないといわれた象撃ち銃を、肩越しに平然と撃ち放ち、
原住民と戦って、槍でほおに巨大な傷をつけられ、
食人族と宴をともにして人肉を喰らったと吹聴し、
異教徒の分際でイスラームの聖なるカーバ神殿の聖石に接吻した男(バレればむろん死罪)。
インディ・ジョーンズなのか、君は。。
生涯に100冊の本を出版。その内容も、剣術指南、植物調査、宗教学、戦記、詩、色事指南と多種多様、支離滅裂。
三十五ヶ国語をマスターしていると豪語し、十七ヶ国語で夢を見た男。
ユダヤ人、民主主義、外務省、キリスト教を憎悪し、
世界のすべてを敵に回し、
残った友は、砂と馬と夜、異邦の客と剣、紙とペンのみ。
もはや、それは本の外にいる翻訳者ではなく、千夜一夜物語の中の人。
この男が、千夜一夜の翻訳に着手した理由は、いたって単純です…金のため。
彼が翻訳を始める前、レインという学者が千夜一夜の英訳を、500部限定で出版。
しかし、予約には、2000人が殺到したことを聞きつけ、バートンはこれは一儲けできると考えます。
リチャード・バートンは、そのとき、すでに50代半ば。
千夜一夜物語は、「ローマ帝国衰亡史」や「失われた時を求めて」よりも長大にして冗長な書物。その全訳は超人的な労力を要求されます。
常軌を逸した決断なのです。
バートンのとった戦略。
それは、先行者レインの訳業をパクリつつ、自分の翻訳のほうがレインのものよりも正確で、味わいも深い、と人々に信じさせること。
彼は、その異様な言語力を駆使し、誰も使わないようなめずらしい単語をちりばめる。そして、ゆがんだ構文で、原典からはるかに誇張したセックス場面を描きました。
こうして、この男は、レインの正確無比な翻訳の抹殺に成功します。とんでもない山師なのです。
ガラン、レイン、ペイン、バートン、マルドリュス…というのが、千夜一夜の代表的翻訳者。
ガランは子供部屋に、と評されます。猥雑極まりないバートン。
レインは図書館に、ペインは書斎に、
そして、バートンはドブに
バートン訳の特徴は、語彙のむやみな豊富さと、訳注の膨大さ。
注釈は、本文とまったく関係のない内容に言い及びます。ところが、本文から離れれば離れるほど、面白さがまします。それは、バートンという60近い男の独白の面白さ。
英国外務省と闘争状態にあり、文人たちからはまったく無視され、貧困のさなかにあり、憤懣やるかたない初老の男。
みずからを精力絶倫と信じ、翻訳しながら自分とシャハリヤール王の区別がつかなくなっていく男。
空想の黒人奴隷に、性的ライバル心を燃やす狂人。
オリエントで小耳に挟んだ異様な噂話の数々を、千夜一夜の注釈で披露していきます。
誰かに話したくてしょうがないのです。誰も聞いてくれないのです。
それは、アラビアンナイトの登場人物たちと同じ病気。かたりの病。そこではフィクションと事実の区別が消失しています。口承の世界。受け渡された途端、自分の著作となる言語。オリエンタリズムを超出するもの。
ボルヘスですら、その東方への知識の大半は、バートンの脚注に由来しているのです。
アリババ・アラジンを捏造したガラン。
そして、もはや本の外ではなく、書物の内部に生きるがごとき、冒険家バートン。
役者(訳者)に事欠かぬ、とは、まさにこのこと。。
何が彼らを「かたりの悪魔」に変貌させるのか。
その秘密は…。
…おや、もう、空の端が明るくなってきたようです。
これからのお話は、もっと面白いのですが、まことに残念。
王様のお許しがいただけるなら、この続きは次の夜、お話しすることとしましょう。
…シェヘラザードは、そう、シャハリヤール王に語るのであった。。
■探検家リチャード・バートン…バートンさんの評伝。まだ、未入手。読みたい。。
■失われし書庫…古書ブームの火付け役のひとり、ジョン・ダニングが、バートンについても書いています。南北戦争の影の重要人物になってます。さすがだ。。
◆The Thousand Nights and a Night…バートン、レインなどの英語テキスト。
[アラビアンナイトの翻訳書]
□バートン版 千夜一夜物語(ちくま文庫)…バートン版の全訳。日本でいちばん読まれたアラビアンアイト。以前は河出書房で出てました。全11巻。エロいイラストつき( ・∀・)v 表紙もエロい。買いにくい(藁
□アラビアン・ナイト (東洋文庫)…全18巻。アラビア語原典からの日本語訳。翻訳者の前島信次さんは、代々続く本草学者の家系。満州にも行ってます。この経歴が、なんだか千夜一夜によく出てくる「ユダヤ人の医者」を思わせて、想像力を刺激されるのです。。
□完訳 千一夜物語〈岩波文庫〉…全13巻。マルドリュスの仏訳からの日本語訳。いやあ、じつは、悪評高いマルドリュス。この人も山師。アラビア語もろくすっぽ知らないのに、「アラビア語原典からの、もっとも新しく、もっとも正しい逐語訳!」と銘打って20世紀初頭に登場。ヴァレリーとかジイドとか当時の知識人をことごとく蠱惑し、語学力ではなく政治力で、本を売った男。その翻訳は、剽窃捏造改変の宝庫。岩波文庫版の翻訳者たちもまんまとだまされて絶賛しています(涙 とはいえ、アラビアンナイト的には、きわめて正しい方向w
□千夜一夜物語―ガラン版(バベルの図書館 24)…ボルヘス編集のバベルの図書館シリーズには、ガラン版(24)とバートン版(15)の、二冊の千夜一夜が入っています。抄訳で、分量は少ないです。まえがきがすばらしいです。
□The Arabian Nights…英語です。90年代に出た、いちばん新しく、いちばん正しいアラビアンナイト…らしいです。今度こそ、ほんとだろうな。。学会では、MM本のHH訳というそうです。写本を整理した人と、翻訳者のイニシャルをとって。なんか、うさんくさい。。
■葡萄姫―千夜一夜物語…松本 隆・文, 天野 喜孝・絵のアラビアンナイト。未読…だけど、面白そう。
こんばんは
千夜一夜物語、面白いですね。
バートンって人は「台湾語」を捏造したジョルジュ・サルマナザールみたいな「トンでもない」人だったんですね。他の「翻訳」者たちも「トンでも」ぶりがそれぞれ違っていてすごいなぁ。
今はもう古典になっている昔の荒唐無稽な物語は改めて読み直してみると面白いですね。昨年は「西遊記」を一応百話まとめて読み直してみてそのぶっ飛び加減が楽しかったですが、overQさんの記事を読んで千夜一夜物語も読み直してみたくなりました。
素敵なアラビアンナイト入門、有難うございます。
rokuさん、こんばんは。
バートンには、すっかり魅了されてしまいました。
アラビアンナイトをとりまく人々は、どういうわけか、
ヘンな人ばっかりで、調べながら、たいへん驚愕しています。
「台湾誌」や、こないだのマンデヴィルなんかも、同じ伝統(?)に属してるんでしょうね。
フィクションの大きな流れが、アジアを起源して存在していて、
それがイスラムに保存されてたギリシャ・ローマの知識と共にヨーロッパに伝わって、
ヨーロッパの市民革命のなかで、「小説」になっていく、
という文学史が存在するようです。
ユーラシアをつないだ、大きい世界史の流れが見えてきます。