
映画版のキャシャーンやデビルマンの予告編を見て、予想通りとはいえ、ダークな映像じゃのうと思いました。
そもそもは子供向きに作られたヒーロー物やロボット物を、大人も見れるようなものとしてリメイクする…この傾向は、べつに目新しいものではなくって、もうだいぶ前から、「バットマン」とかありました。
日本では、70年代に特撮やアニメを見た世代が大人になって、観客として中心ターゲットになってきたんで、この手のものがいま作られてるってわけでしょうか。CMなんかでは、もうだいぶ前から、アニメ特撮物のキャラクターが引っ張り凧でしたし。
観客も作り手も大人になってる分、作品も大人の視点、現在の視点が入ってくるのも当然で、「バットマン」等の前例がなくっても、同じように作られてた可能性が高いですね。
もともとは子供向けに作られていた…というのは事実だけど、大人になってから思い直すと、当時の製作者はそれなりに、いろんなこと考えて作ってたんだなぁと思えます。
たとえば。
キャシャーンの舞台は、ロボットが支配する世界で、人間の町は廃墟と化し、人々はその中をロボットに見つからないよう逃げ回りながら、抵抗を続けています。
当時はてんでガキだったので、何にも思わず、そういう世界をそのまんま受け入れてましたが、この世界観は、第二次大戦のときのフランスのレジスタンスなんかをイメージしてるのは明らかですよね。当時は外国映画で、レジスタンス物はさんざんやられてたので、これを使ってみようと、キャシャーンの世界ができたんでしょうね。
ゴジラは、水爆実験で生まれた怪獣でした。これはあからさまに、核の恐怖を象徴するもの。また、巨大な怪獣に踏みにじられ燃えさかる東京の街は、空襲のイメージが色濃く反映してます。空襲を体験してビジュアルにイメージできる日本人と、そうでない外国人では、ゴジラを見ても、恐怖に対する印象が違うような気がします。 *1
ウルトラマン、ウルトラセブンではどうでしょう。冷戦時代真っ只中です。これらの作品は、怪獣物というより、宇宙人物で、××星人が「侵略者」としてやってきます。アポロが月に飛ぶ時代でした。
セブンには、メトロン星人が出てくる、実相寺監督の傑作があります。ちゃぶ台をはさんで、畳の上で正座して、諸星ダンとメトロン星人が向かい合い、直談判する有名なシーンもあります。あの場所は、道路も舗装されてない、場末の古いアパートなんですが、いかにも過激派が爆弾とか作ってそうなところです。
仮面ライダーになると、もう巨大な怪獣は出てきません。何か巨大なものが町を踏み潰すという、空襲や戦争につながるイメージはなくなってます。
その代わり、ショッカーという秘密結社が登場。人間と同じ大きさの「悪」が現れ、しばしば「アジト」という言葉が使われてました。
ハイジャック事件があったり、過激派が世界的な問題になっていた時代。子供の頃はまったく自覚してませんでしたが、かなりあからさまに時代を映しています。
一方で永井豪先生の巨大ロボットものもありました。これは戦争のイメージというより、復興して、巨大なビルがニョキニョキ生えてきた大都市東京を感じます。スチール・アンド・グラスのイメージ。巨大ロボットは、それ自体はでかくて怪獣物的だけど、人が操縦してやらないと自分では動けない点、あくまで機械で、善も悪もない。また、操縦者はロボットなしではふつうの人間なので、折衷的です。たいぶ、こじつけめいてきました。
でも永井豪には、もうひとつ傑作デビルマンがあるわけです。アニメ版と漫画版は大きく違うものなんだけど、ここでは漫画版を考えて見ます。話の流れ的には、テレビ放映されたアニメ版のほうを取るべきなんですが、あとでエヴァも考えてみたいので。
デビルマン。人間の少女に恋した悪魔族のデビルマンが、仲間を裏切り、愛するものを守ろうとする。
物が悪魔なんで、もう巨大さや、人間の組織とかが強調されてるんじゃなく、むしろ人間の心の中に巣食います。グロテスクな絵で描かれ、現実ではなく、心の世界での戦いみたいになります。
ここから、悪や恐怖の問題は、どんどん深みに侵食して行き、結局、それはどこか外からやってくるのではなく、人間の内側からやってくることになります。
永井豪さんは当時、ハレンチ学園なんかで、PTAから激しい抗議を受けていて、そうとうつらい思いをしてらしたらしいですね。デビルマンの劇的な結末は、この状況を反映してると思います。
デビルマンは最後に大逆転が生じ、本当に悪魔的なのは、じつは人間のほうだ、というところに達してしまいます。
かなり追い詰められてたと思われる永井氏は、PTAのことを「正義の仮面をつけて、平然と悪魔そのものの所業を行う、下道」と無意識に思ってしまうこともあったに違いなく、被害妄想といえばそうなのですが、なかなかつらいものがあったのでしょう。
デビルマンの驚くべき結末の展開は、永井豪の置かれていた精神的に切迫した状況が、そのまま反映したものと思います。作品としては、もっと普遍的な深読みができるものですが。
*2
最近のものではどうでしょう。エヴェンゲリオンですね。
敵は使徒と呼ばれ、もう怪獣の形をしてません。
立方体だったり、紐みたいだったり、カビみたいだったり、美少年だったり、なんか非常に抽象的です。
*3
もはや、戦争でも、過激派でも、自分を批判する人でもない。敵や恐怖は、外からはやってこない。自分の心自体が、悪であり恐怖となる。
ロボットも操縦してるんじゃなく、母の胎内がイメージされてて、現実を避け、引きこもりそのものでした。でも、敵が外からではなく、内から来る以上、逃げ延びることは不可能。
時代の展開を見ると、まさにジャストフィットですね。
ただ、庵野秀明監督のお父さまは、戦争で片足をなくしておられるそうで、この時代に来てなお、戦争の影は完全には払拭されてないかもしれません。エヴァの戦闘シーンは、市街や田舎町で行われ、「巨大なものが破壊する」という点ははっきりと視覚化されてますから。そういや主人公の友だちは戦闘に巻き込まれ、片足なくしてました。自分の内部から流れ出た悪が、戦争を起こすというなら、そんな未来、いったい、どうやって食い止めたらよいのでしょう。
こう見てくると、怪獣物の系譜も、完全に日本の戦後史になってるって気がします。こういうことも、大人になった当時の子供によって、もうきっとずいぶんいろんな研究があるんでしょうか。
必ずしも深く考えを凝らして作った作品ばかりではないんでしょうが、かえってそれぞれ時代の色に深く染まってます。子供の頃にはまったく気づいていませんでしたが、でもきっと無意識に何かを感じ取っていたに違いないと思えます。
…と今日はなぜか難しげなこと考えてみたのであった。 *4