ジェットコースターに乗った子供が、作文を書きます。
きょうはジェットコースターにのりました。こわかったです。でも、たのしかったです。親はこれはあまりに素っ気ないのではと思い、書き直すよう言いますが、子供はじゃあお手本を見せてよと言います。
今日はジェットコースターに乗った。怖かった。でも、楽しかったのである。「のである」とかいっちゃって、だめじゃん、親Orz
とはいえ、大人であれ子供であれ、言葉ではあらわしにくい体験というものがあるのである。
高安のラーメン食べておいしかったのも書きにくいし、冷凍サンマを食べておいしくなかったのも書きにくい。
ジェットコースターやラーメンが、つまらないから、くだらないからではないです。実際、こわくて、たのしくて、おいしくて、まずかった。ただ、言葉で言い表しにくいというだけ。
また、どうしても言葉で表現する必要があるわけでもない。乗れば、食べれば、それはわかるから。
それに、言葉で言い表せないほど深遠だ、ということもないのです。ありふれた日常の一こま。冷凍サンマは一尾68円なのです。
最近、「ヴァン・ヘルシング」って映画を見たとき、ふと気づいたこと。
映画もジェットコースター系の体験ではないか。言葉であらわしにくい体験。
「ヴァン・ヘルシング」には、見終わった後、語りたくなるようなものは、あまりないのです。でも、見てる最中は、手に汗握って、わくわくドキドキ。
ジェットコースターのように、終わってしまえば、語りたいものはとくに残らないのだけれど、だからといって、つまらないというわけじゃない。フツーの映画なのです。
映画って、もともとは見せ物だったそうです。
20世紀初頭、都市では、パノラマや覗きカラクリのような映像系の見せ物がにぎわっていた。
映画はその王様として登場した。ジェットコースターと同じく、遊園地のレパートリーだった。
汽車がプラットフォームに入ってくる映像だけで、百年前の人々はわくわくドキドキした。
人間は視覚の動物。見たものをいちばんリアルに感じる。UFOを実際見た人は、その実在を疑いにくいほど。
+
見せ物として始まった映画ですが、すぐにグリフィスやエイゼンシュタインが出て、語りの手法が開発される。映画が本来持つはらはらドキドキを活かしつつ、お話を語る方法。今も同じ方法で映画は語られる。映画は、「読む」ことができるものになった。
でも、映画を読んで、言葉であらわそうとすると、抜け落ちるものがある。ジェットコースターやラーメンの部分は言葉であらわせないから。
見ればわかる。でも、言葉ではあらわせない。
賞をとったり評論で誉められたりする映画と、お客さんがいっぱい入る映画は、なぜか少しずれています。
上映のときは大入りだけど、後の時代に語り継がれない映画もたくさんある。
見られるけど、読まれない映画。そもそも「読む」部分はない映画。
でも、それでいいのじゃないか、映画。ある種の「エンターテイメント映画」を見直してみたい気持ちがあります。大好きなブルース・リーの言葉で言えば、Don't think, feeeeel. 脳の使い方がちがうのです。
映画は、書物よりも、ジェットコースターに似ているはず。
乱歩とかベンヤミンとか、20世紀初頭に青春をむかえた人たち。
映画のこと、よく書いてます。やっぱりすごくびっくりしたのです。映画本来のインパクトを感じた。最初期の映画は、「読む」ものじゃなかった。隠されず露わな謎。「見る」もの。見せ物。
カフカも同時代の人です(1883年生まれ)。映画大好き。カフカの小説の秘密も、ここにあるのではないか。解釈しようとしてもダメ。また不可能。謎は隠されてないから。見ること。Don't think, feeeeel. だって、人間、
現実は書物ではない。それは読むことができない。モンタージュによって意味を形成してもいない。でも、生きることはできる。それは映画を見ることに近い。映画は本ではなく、人生に近い、と言い換えてもよさそうです。読むのじゃなくて、生きるもの。
フロイトやユングもこの時代の人。でも、フロイトは大人で(1856年生まれ)、ユングは名前どおり若かった(1875年生まれ)。フロイトは「夢を読め」と言い、ユングは「夢を生きろ」と言いました。夢も、映画と同じく、見るものなのです。
小難しいと思われがちな映画。フェリーニとかゴダールとか。2001年とか。一生懸命、読んでしまいがちです。でも、読んでも読んでも、よくわからん(涙
それは、じつは、「読む」という態度がまちがっているからではないか。だって、映画は見るものなんだから。もともと見せ物なんだから。
ゴダールの断片を、10分ほど見たあと、散歩に出て、世界を眺める。すると、世界は少しちがって見えることがある。世界はちがってないはずだから、見る目が変わった。それは、生き方が少し変わった、ということなのかもしれません。
映画は見るもの。この点にこだわるのが、映画の入口であり出口である気がします。メディアはメッセージ。
こんにちは。
「映画は見るもの」なんですね。いわれてみると「そうかもしれない」と納得出来ることがいろいろありそうです。僕も見たあとで「面白かった」としかいえないことが多くて、語彙の少なさを恥ずかしく思うことが結構ありますが、これを読んで少し救われました...「見るもの」だからそれでいいんだ。
この論理でいいのかわからないけど、「ハウル」や「イノセンス」のような映画で観客動員と批評家の受けの違いを考えるのにいいヒントになるような気もします。
いろいろと考えさせられて面白い記事でした。有難うございます。
P.S.高安のラーメン、食べてみたいですね。僕は関東に住んでいるので機会があればいずれ行ってみたい。
それから勝手ながらリンクさせて頂いてよろしいでしょうか。いつも刺激的で面白い記事で楽しみにしてますので。
rokuさん、いつもありがとうございます。
お返事、なかなかできなくてすみませぬ。
話題の性質上、短いコメントを書くのが難しくて(←いい訳くさい( ;´Д`)
映画が見る物なのは、すごく当たり前なことなんだけど、
映画について言葉で書いたり考えたりすると、
とたんに忘れがち。
言葉で語れる部分はその映画の本質じゃないことも多いのですが、
わかってても、言葉を使いだすと取り逃がしてしまう。
…なかなか難しいものですね。
トリュフォーやゴダールら、ヌーヴェルヴァーグの人たちは、もともとは映画の評論家。映画を語ることから始めました。
でも、彼らの主張って、つまるところ「映画は語れない」という自己矛盾に満ちたものだった(笑)
そして、見る映画として、ヒッチコックなんかを発見したのでした。
結局、自分たちも映画を語ることをあきらめ、映画を撮る側に回るのですが。
リンク、ありがとうございます。ご自由にリンクしてくださいませ。
Posted by:TBありがとうございます。
映像に身を委ねたい映画といえば、
テオ・アンゲロプロス「永遠と一日」。
これは、もう、すごいとしか言いようがない、
すばらしく「退屈な」映画です。
いい意味で。
ne_sanさま、ちょっと意味不明なトラックバックになりました(汗
私もアンゲロプロス、大好きです(゚ー゚*)
むかしはよく眠れたのですが、
最近は余分な知識がついたせいか、
「わかる」ところも少なくなく、
以前ほどまったりしにくいのが悩み。
本とかふだんまったく読まない高校生といっしょに
「こうのとり」を見たことがありますが、
その人は見て、感動して泣いていました。
下手に「わかる」人より、ずっと映画を見れてました。
映画の本とか読んで、よけいな知識がついて、
自分は映画をちゃんと見れなくなってるのかと、
わりと真剣に反省してみたりしてます。。
アンゲロプロスやタルコフスキーを見て眠る人のほうが、かえって映画をよく見れている
…これは、比喩ではない気がします。
わたし、実はタルコフスキーと小津は老後のためにとってあるんですよ(笑)
ある種の監督の撮る映画は、明らかに映画の時間とは別の時間を垣間見せてくれるような気がします。
うまくいえませんが。
OverQさんのおっしゃること、よくわかります。