またバトンが回ってきました。今度は本のやつらしい。
mort_a_creditさんからいただきました。ありがとうございます。
映画・マンガ・ゲームといろいろバトンが出回ってるらしいです。
…そうか、こういうのがブームになる世界なのか、ブログ界。
ならば、ツハラもバトンにすべきだったか。渡されたら困るバトン。誰に回すのよ、ツハラバトン。若から貴へ、貴から若へ(謎
なお、バトンのTはひとつです。
・何冊もっていますか。
わかりません。持ってるはずなのに、探しても見つからない本も多いです。探さないときにはそこらに出現して邪魔になっているのに。
同じ本を二冊買ったり、持ってる本を図書館で借りると、そこはかとなく老いを感じます。
自分で買った本はおぼえてるけど、何度か人からまとめて本をもらったことがあり、これがわけわかんなくなる原因物質。大学の先生からいただいた本は、有名な方のサインとかありますが。それを高額で売れないかと考えてる私を、草葉の陰でお許しください。。
コレクター魂はないほうなので、便利な図書館があれば、そのほうがいいなと思います。探すと見つかるし。
・いま読んでる本。
「大唐西域記」。
「世界を動かす石油戦略」。
いま読んでる本というのは、いま聞いてる音楽とはちがって、今この瞬間読んでるわけではない。
いや、今この瞬間も、脳のどこかでは、本の記憶を影のように読んでるのでしょうか。
映画や音楽だと、見たり聴いたりしてる瞬間にだけ、メディアは存在。
一方、本を読むというときは、むしろ自分の頭の中で読むことに重点が置かれています。映画や音楽でも、「見る・聴く」じゃなくて「読む」という場合は、感覚器官ではなく、意識によって読む。
教育で、「本を読んで、考える習慣をつけましょう」とかいうのは、このことなんでしょうね…と何の話だか。
・最後に買った本。
上の二冊と
「村山槐多耽美怪奇全集」。
これはツハラが長大なエッセイを書いているので。
・五人の好きな作家。五冊の好きな本。
この問いへの適切な答えではないのですが。
ここ数年はボルヘスの文学エッセイに基づいて、本のあいだを旅してきました。
名をなし、老いて、少しゆるくなったボルヘス老が、講演・講義として残したテキスト。
伝奇集や続審問の頃のように鋭くはないけれど、師のイメージを投影しやすい盲目の老人。
盲ると、真っ先に失われる色は、赤。
赤、という色の面影をたずねて、心の闇と光の中、さまよい続け、じょじょに外界への興味を失っていく老師。
しかし、この旅は終わりつつあり、そこはかとない連続として、オリエント世界のフィクションへ。サイードが激怒するような読書の流れです(;・∀・)
書かれたものより書かれなかったものが、ずっと大きな世界。
口承だけだと、「見たり聴いたり」してる瞬間以外は、すべて主観。「本当のこと」を保存している(はずの)本は、外部に存在しない。読み返して、本当のことを確認できない。
「読む」ことは、主観とフィクションにおいて、真理になるしかないのでした。読み返しは、せいぜい自分の中の残像でしか許されない。作者もフィクションになってしまう。ほんとの作者はいつも自分自身。客観は物理的には存在していない。
読むことは、読み育てること。これは科学的には、危険なやり方です(´ヘ`;)
宗教は、だいたい同じ時代、だいたい同じ場所で生まれてる。イエスもブッダも、またソクラテスや孔子でも、当人の残したテキストはほとんどなくて、人から人へ口承した言葉の中で、その「真理」を探り当てなきゃならない、弟子信徒。ほんとに、弟子信徒を名乗れるかさえ、危うい。立場を明確にするため、聖書でも編まなきゃおれない心境です。
科学的な事実がないので、フィクションにおけるリアリティだけが問題。みんなが、それぞれの心の中で、ブッダやイエスの「ことば」を探さなきゃならない。「真理」は本にした途端、嘘になってしまうかもしれない。ことばは、いつまでも、あふれ続ける…とめどない雨のように。
でも、これは特殊な状況じゃなくて、私たちの身近な日常でも、同じことだけれど…と何の話だか。
本とか作者という、今では当たり前なものも、当たり前じゃなかった時代…そんなことを思ったみたりしています。
・五人に回す。
どのバトンもそうだけど、皆さんけっこう律儀に回されてて、ちょっと意外。ちょっと…怖い(笑)
JRの運転手の人も、そんな律儀さで生きてたのかなぁ。。
先生は今、何の本が読みたいのかなぁ。私が持ってる本ならあげますよ
…いや、買ってください(ゴクアク
大丈夫、神曲によれば、高利貸しは地獄には落ちないのです…よね、先生。。