その町のことばかり書いてるわけじゃないのに、町度が高いブログ。
というと、たとえば、エックス橋さん。
うるとらまりんさん+tokyoxさんの記事は、東京のことを直接書いておられぬときでも、トウキョウな感じがします。
エックス橋さんの東京は、私の知っている東京とはだいぶちがっていて、
本当の東京は、別にあるのだという前々からの思いに、確信をあえたてくれます。
ちょっと昭和な東京、感じてるかもしれません。
ホリエモンは東京が生き馬の目を抜く大都会といってました。
でも、東京って、いつからかノスタルジアがある。
日本人みんなのふるさとなのかもしれない。昭和がそうであるように。
これからの東京は、「最先端」だけじゃなくて、「あのころ」もだんだんとその顔の陰影になっていくのかな。ビジネス的にもそうかもしれません。
そうやって都市はしたたかに歳をとる。京都がずっとそうやってきたように。
今夜は、「東京」。
東京
卒業と同時に友だちは
みんな東京に行ってしまった。
親しい仲間うちで
故郷の町に残ったのははぼくだけ。
仲間は年に数回帰ってくる。
そのたびちょっとよそよそしくなる。
なつかしいって何か知るようになる。ぼくは東京に行ったことがない。
東京ってどんな町なんだろう?いろいろな噂を聞いた。
町の外にも町があり
その外にもその外にもどこまでも
町が広がっているという。中心がどこかなんて
もうわかりやしない。
時代時代の隆盛もある。
人それぞれの興味や
利害のありかによっても
中心とされる場所はちがってくるらしい。
「じゃあ、何のため東京に行くの?
中心に行きたいんじゃなかったの?」
ぼくが訊ねると
みんな静かな眼で笑う。中心って何だろう。
以前は誰もおそれおおくて
それに答えることができなかったそうだ。
やがて人によって
異なった見解を述べるようになった。
今では
中心には何もないというのが
流行だという。
がっかりして
そう言う者もあれば
目を輝かして言う者もある。「中心は無数にあり
人によってその場所はさまざま。
あるいは逆説的に
中心とは
いちばん辺境にある
という者さえいる始末」
二番目に仲の良かった友だちは
十二回目に帰郷したとき
退屈そうにそう告げた。隠されている
とも言う。
中心に隠された無。
またいたるところにあり
自覚するかどうかの問題とも。
中心に行ったことがあるかと訊ねると
「ううん」とあいまいな答え。
以来、彼は帰郷していない。「東京は中心が空であり
その外周つまり境界は
ためし書きされた線みたいに
複雑、怪奇」
と別な友人は言った。
故郷にいた頃はあまり
話したことがなかったけれど
東京の話を聞くたび
親しくなった人。「町の外は町。
その外にも。その外にも」
どこまでも途切れることなく
うち続くのだろうか?
もしそうだとすると
ここも東京のはずれなのかもしれない。新しい友人は
人さし指と中指をひろげ
コンパスのように
ぐるっとまわして見せた。
ぼくは指が短いので
彼の長くて形のいい指を
うっとり見つめるのだった。
「中心がどこだか定まらない円だもの。
その外周もどこに引かれるものやら」
彼は四十八回帰郷した後
東京の人となった。ぼくもいつか東京に行くのだろうか?
ぼくは東京に行きたいのかな?
ぼくも東京の人になれるだろうか?東京はどんどん
拡大しているとも言う。
「今じゃもうあっちも
こっちもあまり変わらない」
という人もいる。
ここはもう東京なのだろうか。
東京に何があるというのか。
東京にあるのは中心ではないのか。
「何もない」と誰もが言い
「何でもある」と誰もが言う。東京の友だちによく手紙を出す。
返事はめったに返ってこない。
帰郷した折
手紙のことを訊ねると
みんな「ああ読んだよ」と言う。
東京には紙もペンも便箋もないのかな?
そんなことないだろう。
だって東京には何でもあるから。
たぶん書くことがないのだ。
だって東京には何もないから。ぼくの手紙は東京についての質問ばかり。
それで返事にうんざりするにちがいない。
東京にいれば
東京のことは当たり前。
鏡がなければ自分が見えないように
東京の人には東京のことがわからない。
「君も東京に来ればいいのに」
ぼくも東京にいければいいのだけれど。「東京なんてないんだよ」
と恋人だった人は言った。
何度目の帰郷の時だったか。
ぼくが東京のことをしつこく
訊ねたのがいけなかったのだろう。
ぼくはその時まだ
その人が自分の恋人だと思っていた。
「東京なんてないから。
だから話すことなんて
もうないから」みんなどこへ行ってしまったのだろう。
もう帰ってくる人も
すっかり稀になってしまった。
ひとり故郷に残っていると
東京なんて存在しないように思える。
東京tokioはもとは外国の言葉で
シルクロードの商人たちが
伝えた語と言う。
商売の都合で
故郷のことをうその話にして
あれこれでっち上げ
売り歩いた人たち。
東京は無や空
あるいは死と同義語であって
消滅やニルヴァーナと
同語源なのだそうだ。
存在を無と同値とする
量子論的な哲学の萌芽だと
物の本にはいかめしく解説されている。ときどき東京で誰かと
すれちがう夢を見る。
「あ」とぼくは呼びかける。
「あの…」
「誰だったっけ」
「思い出せないんだ」
「人違い…だったかな」
「ごめん、誰でもなかったみたい」
どちらがどちらの言葉かさえ
はっきりしない会話。友だったものたちも
恋人だったあの人も
名前も顔もうしなって
ぼくときみ
わたしとあなたの区別もなく
東京をさまよっている。
交換可能なほど
まぎらわしい商品である魂たちは
交わす言葉ひとつ
見つけられない。
どこまでも広がる町だもの。
行けども行けども
出ることなんてできるはずがない。
帰ってきても
もうそこが故郷だと
気づくこともない。そんな東京が
ゆっくりと
自分のこと
振り返る。
ワォ、ありがとうございます!
なんか気恥ずかしいです。私たちはどこ行ってもこの調子で、「何でこんなもんばっかり、目につくかなぁ。。」と落ち込んだりするんですよ。でもどうしても、しゃれたカフェより、純喫茶に見え隠れする物悲しさに、引かれちゃうのですね。困ったものです(w
>ときどき東京で誰かと すれちがう夢を見る。
スクランブル交差点や原宿辺りの人ごみの中で、すまし顔なのにおどおどした自分にすれ違うことがあります。そんな時は、すかさず路地に迷い込むことに…
実は京都も東京も大差ないんじゃないかと思います。ただ目に映っているとこが、ひとりひとり違っているだけなのかも。
それでは、今後ともヨロシクです!エックス橋二名より
とても感慨無量です。
全部好きですが、これが一番いいです。
ぐわっ!!っと私の心を鷲掴みしました。
思わずトリビュートブログを書いてしまいました。
良かったら読んでください。
いやーステキ。猫の瞳が淋しそうで
実家の母や犬を思い出しました。
そして疎遠になった友達も・・・
何か胸がいっぱいです。
うるとらまりんさんの朝靄の中の
ゴールデン街もとても感慨深いです。
いい写真ですねぇ・・・
根津などの下町とは違う不思議な魅力
というか、俗っぽさというか
華やかさの裏側を見てしまったような
そんな気持ちにさせられました。
>うるとらまりんさん。
東京といえば、エックス橋さん☆
「東京」というお話は、かならずしも東京っぽくないんですが(汗、
東京と言う題名で考えてると、エックス橋さんのいろんな記事が浮かんできました。
京都は、歴史が長いせいで、一箇所でもいくつもの顔がある。奈良とは、この点が、似て非なる由縁です。
東京もいまや、江戸から明治、大正と昭和初期、戦時中、高度成長期、バブルと、
いろんな顔が重層してて、表情は複雑怪奇。
いちばん「生きてる顔」はどれだろう?
うるとらまりんさん、tokyoxさんの記事は、自身の「生きてる」感覚で、生きてる東京の表情が垣間見えて、大好きです☆
てなわけで、こちらこそ、これからもよろしくお願いします!
Posted by:>Bryumさん。
私は東京に、修学旅行と仕事と買い物でしか行ったことがなくて、
帰ってくると、自分は本当に東京に行ったのだろうか…などと思うのです。
東京は、ヒトとヒトが出会う場所。
でも、すれちがう場所でもあって、一度出会ったヒトが、じつはいちばん遠いヒトになってしまう場所でもある。
東京は、東京という場所じゃなくて、
ほんとは、いろんな場所が境を接している、広大な境界領域なのかもしれません。。
うにゃぁあ〜ん。
この子は、ぎんちゃんですか?(嬉々)
いい顔だぁあああああ。
アラキメンタリの中で、アラーキーは、
東京には、生と死が介在している。
だから、東京を撮り続けるんだよ。
とおっしゃってました。
その感覚と同じものが、こちらの物語にもあって、
シンクロしているので、びっくりしました。
>picoさん。
東京には、仕事と買い物と修学旅行でしか行ったことがないのです。
私は東京を知らないのですが、じつは、東京を歩く多くの人も、
同じように東京を知らないんじゃないかと思って、これ書きました。
あんなに多くの人がいて、誰もそれを知らないのが、東京かもしれません。。