アラビアンナイトを、まだまだだらだら読んでいるのです。
終わる気がしないです。終りがないのかもしれないです。
それは帰る場所のない旅のような読書。
あまりのめり込んだり入れあげたりせず、見知らぬ市場を徘徊する旅人のように、胡散臭いものを見る目つきで、斜にかまえて読もうと努力しています。
努力していますが、ながながと読んでいるので、だんだんえもゆわれぬ愛着がわいてくるのも、事実なのですが。
ザイトン。
中国の泉州は、西方からの旅人に、
ザイトン
と呼ばれていました。
マルコ・ポーロが訪れた頃、その都市には何もかもがあり、世界よりも大きかったといいます。
ザイトンのちまたには、千夜一夜の語り部とそっくりな講釈師たちがいて、怪力乱神をかたりまくっていました。
講釈師たちが使ったテキストは、白話小説と呼ばれています。たとえば、西遊記。たとえば、三国志演義。
通俗のきわみであって、おおやけの論じる大説にくらべて、劣ったものと認知されていました。絶大な人気がありました。
アラビアンナイトとして読む、西遊記。
私は、マンデヴィルから出発して、いま、ザイトンまで、来ています。
胡散臭いこの街で、自分の探しているものを、探しているのかもしれません。いや、それも、商人の売り口上のひとつだったか。
あらゆる商人が手を差し伸べ、「あなたが求めてるのは、これでしょう」と言うのです。
妖しくも危険な
左手と右手では、別なことを考えるようにしています。
そんなように、旅しなければ、ならない場所。
境界線だけで出来ている場所。オリエント。
というわけで、今夜の九十九夜は、「母胎」。
いっけん、上の前置きと関係がないような、なくもないような、なくもなくもないような。
三蔵法師とすれちがいまいた。彼の物語をこれから書くかもしれません。
母胎
夜の母がやって来て
「みんな私の子供たち」
といって僕らを包んだ。
世界はその暖かい闇の中で
ひとつに溶け合った。
息苦しいので
這い出してみると
何人かはやっぱり
同じように母の懐を離れ
闇の中で焚火などして
暖を取っている。
「アレは何なのでしょう」
「本当に母なんでしょうか」
この寒い外の闇からでは
何ともいえなかった。
何ひとつ光源などないはずなのに
母の巨大な姿は
ぼうっと白く
闇の中に浮かんでいたが。
ああこれが世界の大きさだ。
僕らはもうその外にいる。
こんな闇しかない場所で
砂のように恥のように生きていくのだ。
なぜ出てきてしまったんだろう。
理由なんてなかった。
ただあそこにいられなかった。
うー。うー。
地響きのような声で
母が泣いていた。
子守唄なのか、いびきなのか。
誘っているのか、悩ませているのか。
「ここは寒いな」
と誰かが言ったら
誰もが返事もせず
心の中でうなずいていた。
しかしこのような静かで
思慮深い瞑想者たちも
朝の光をひとたび浴びれば
獰猛な捕食者となって
夜の母であったものの巨体を切り裂き
陽光で腐り始めたその肉を
さもうまそうに喰らうのだ。
平和は夜闇のもとでしか続かない。
うー。うー。
地鳴りがしていた。
闇の中でその音に耳を済ませていた。
われわれはどこから来たのか。
われわれは何ものなのか。
われわれはどこへ行くのか。
まもなく夜が明ける。