★又三郎の到来
「風の又三郎」もの。
と呼ばれるべきジャンルが存在する。
と思うのです。転校生モノ、と言ってもいい。
ふらりとやって来る、異人。異界の人。
それはやって来る。それは去る。出会い、別れ。その間の物語。
到来する異人は、少年であり、少女である。性という重力に縛られず、無性の無重力を自在に飛ぶ。風のように。六番目の小夜子。
学校という特殊な制度が生み出す幻。
日本の子供はみんな学校に行っています。そういう建前になっているので、何かの理由で学校に行けないと、すごくアウトサイダーな気持ちになったりもする。
そこには自由があり、そこには荒野がある。極端な二分化。過剰な思い込み。
学校という制度は、あまりにも完備し強固。侵食され、すき間だらけになっても、まだ平然と立っている塔。
毎日同じ教室。毎日同じ顔。日常は永遠のように続く。ドラえもんやサザエさんの世界。
その反動でか、転校生は、逆に神話めいた存在にまで、心理的に高められる。
*1
転校生は学校の外なる存在が、内側に侵入したもの。
子供はファンタジーが好き。エログロ大好き。異界のしるしがあるものなら何でも。だって、窒息しそうだもの。窓をあけてよ。風穴をあけて。それで世界が滅びるとしても、かまわないから。やってやって。
トイレは排泄物を闇に葬る場所であり、下水道を通じて異界につながっている。花子さんが生息する場所。
花子さんは、転校生とは逆に、移動を禁じられた存在で、時間も停止したまま。子供たちだけが、入学し卒業して、入れ替わっていく。
プール。用務員のオジサン。人体模型。死んだ子供。夏休み。セックス。
子供を大切にしようと光の中に囲い込めば、その内側で闇が発生する逆説。裏声でよいこのふりをしてもムダ(80年代)。引きこもったって、ダメだよ(90年代)。闇は自分の内側から生まれてくるから。
闇と光のバランスは、ひどく激しい形でしか達成されないから。それは物語とか神話とか呼ばれる。本や伝説の中のことじゃない。切ったら血が流れるもの。気づこうと気づくまいと、われわれが生きているもの。
★逆説
異界が侵入し、去っていく。
しかし、それでよいのか。世界はつかの間の危機を経験し、教訓を得て成長し、新生する。つまらない。
世界そのものを破壊すべし。再生はいらない。あるのは、死のみ。
物語を体ではなく頭で考えると、そういう結論に達しやすいです。
さらに逆説的なことに、破壊衝動に身を任せたものが、結局は本当に「からだで」死と再生を体験することになる。アナキン。
人生そのものが巨大な学校となった、現代日本人の生活。ふっ…と破壊の衝動がよりつく。アキラ。健康優良不良少年。
しかし、ぼくらの力はそんなに大きくないんだよ。こざかしい。闇はもっと大きい。
ぐるっと裏返る。光の世界が闇。子どもたちは気づく。世界を囲むものこそ、闇じゃないか。オトナだって、囲われた豚にすぎない。いつでも、好きなとき、殺せる家畜だ。
闇の力を手にしたものが、世界を囲い込んでいる。破壊せよ。破壊せよ。
神話学でいう、トリックスターです。トリックスターはなんか使い古されたアイテムと思いがちだけど、ほんとに現われるとやっぱりエグい。酒と鬼と薔薇の日々。
やって来て、去っていって、空虚と退廃しか残さないもの。笛吹き男。再生はない。死、だけ。
閉塞した世界が生む動機なき殺人(乱歩)。閉じ込められたものが、幻想によって取り戻そうとする偽の外部。災害と戦争を、じっくりと時間をかけて、紆余曲折を経て心のすき間にしっくりとくる形に改造して、呼び寄せる。
★表紙は顔
というわけで、長すぎる前説(;・∀・)
本題は、津原泰水「少年トレチア」。
この作品、面白いかといえば、面白くないかもしれない。
面白くないのが、面白いかもしれないけど、それは数少ないツハラマニアのためのたわ言かもしれない。
この作品、あらすじだけ話せば、じつは猛烈に面白くて、もっと広範な読者を得られる都市型ホラーの傑作になりえたはず。アニメ化なんかされたりもして。 *2 でも、ツハラは、何か別なものを追求している。ホラーの面白みを犠牲にしても、何か別なものを。「ペニス」の作家は、もう「妖都」の作家ではなくなっていた。
この作品の魅力は、その「失敗」の様子にあると思えてならないのです。失敗作が鑑賞に堪えるのは、大作家の証拠だそうですが。
つかめそうでつかめない、主題の揺らぎ。
それは、安易な主題につかまらないでいることで生じたもの。
やすみん☆は、少女小説家だったから、安易な主題がどんなものか、骨の隋まで知っている。また、安易な主題にこそ、時に深刻な表情を宿ることがあるという逆説も。
この本には、三つの表紙があります。諸事情あるらしい、三つの表紙(´ヘ`;)



表紙は、題名とともに、作品の顔。三つもべつべつな顔。トレチアは無数の顔を持つ少年。謎。
この作品は、トレチアという異界の少年の幻がよぎるけど、もうひとつ、マカラというものも出てくる。マカラ。漢字で書けば、摩迦羅、摩羯魚。
トレチアじゃなくて、こっちを題名にし、表紙にすればよかったのに、と思わなくもないのです。津原も考えたかもしれません。装丁にはそうとう凝る人らしい。彼は少年を選んだ。文庫の表紙は、萩尾望都。
塔は崩壊しなければならず、都市は滅びて砂に埋もれなければならない。なぜって、それがぼくらの生きる場所だから。
…この文章は、まだ作成中です(´ヘ`;)
もう今日は、これで力尽きた。。
★都筑
つづきです。
いったん書くのを止めると、流れがないので、書きにくいです(笑)
もう、こうなっては、だらだらいきます。読んでもらおうなんて、思ってもないのです(;・∀・)
「トレチア」のお話の骨子は、マンガやアニメ、あるいはドラマや映画にしてみることもできる。
むしろ、そのほうが、「面白い」かもしれません。エンターテイメントとしては。
しかし、津原は小説家だった。しかも、根っからの小説家だったのだと今では思えます。
2004年には、トレチアとちょっと似てるアニメ「妄想代理人」がある。
また、あのマンガ「GANTZ」も、2000年から連載が開始されている。GANTZは、トレチアと同じ根をもつといってもいい作品。GANTZのほうが、はるかに巨大な波だけど。
悪意が世界に蔓延している、という類の作品は、映画でもマンガでも、もうずっとバブルの終わり頃から、基本的な潮流。
「羊たちの沈黙」「セブン」「ベルセルク」「エヴァ」などいくつもの傑作を生み出したし、娯楽産業的にも狙い目の柳の下のどじょうウジャウジャでした。無数の作品がメディアを超えて作られた。
現実に起きたさまざまな事件も、その潮流の一部を形成しています。
ちょうど昭和初期、アベサダや津山三十人殺しが、江戸川乱歩の「動機なき殺人」やエログロ怪奇と、同じ潮流にあったように。それは、動機のある殺人=戦争(いや、たんに「より大きな動機なき殺人」なのかも)によって、「そんなことしてる場合じゃない」ことになるのですが。
+
マンガでは、よく典型的人物や典型的事件を、ものすごく誇張して描きます。誇張が極限に達し、神話的な荘厳さにいたることもしばしば。
マンガの面白さの大きな柱の一つと思います。
小説でこれをやると、悪い意味での「類型的」になることが多い。
小説はマンガや、あるいは現実そのもののように、顔とか物体とかの、実物のインパクトがないから、冷静にアタマで判断されてしまう。
その代わり、小説は、大きな声が鳴っているところでは聞き取りにくい、小さな声に耳を澄ます。
大波はほっておいて、さざ波を見つめる。
小さいけれど美しいさざ波を集めて、その結果を遠目に見たとき、大きな波の形をしている…ということは、まれな奇跡としてあるかもしれません。
しかし、広範な読者を得ようとする、商業的な娯楽作品では、大波にも配慮する必要が大いにある。
さざ波ばっかり描くいて、大波がさっぱりでは、話にならない。
さざ波は、どっちの方向に向かっているのかさえ、あいまいだから。
けれど、言葉の特性を追いかけると、どうしてもさざ波の美しさに心とらわれるもの。
奇想の都市ホラーを書き進めながら、津原は、大波に乗りたい読者を裏切り、言葉の真についていこうとする。
人物は歩く影となり、その光源もさだかでない。。
今日はこれぐらいにしといたるわ。
(なお、つづく…のか)
やっと私も祭に参加しました♪
祭だワーイヾ(^▽^*ヽ))。。((ノ*^▽^)ノワーイ
しかし津原さん、つかみ所のない人ですねぇ・・・。
じみな祭りで申し訳ないです
まつりという名前にしたことをビミョーに後悔していますが、
責任の一端はツハラにもあるような気がしないでもないです(転嫁)
あれですよ、そうでしょう、なんとうか、それはもう、そうでしょう。
これで、通じるでしょう、おそるべきことに。
ツハラを読んだ人の間では(;・∀・)
ツハラはすごい作家ですが、そのすごさが通じるようになるのは、そうとうミライなことのように思えます。
ああ、私はそのときまで、生きているであろうか。。