AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: カフカと死後の世界

カフカと死後の世界

written by overQ
September 18, 2005

来世とか、魂の不死を信じないなら、死は、体験できないもの、ということになる。
死の直前までは体験できる。そこまでは生の領分。
しかし、その先、崖のむこうは、闇が広がるのみ。夢のない眠りの部分のように、それは無だ…。

と、いうようなことを、人は人生のふとした折、思ったりするかもしれません。寒々とした思いに駆られるかもしれない。けっして長々と思い続けるわけではないにしても。

  +

でも、カフカの小説に現われる死後の世界は、もっと端的。
自分の魂が行くあちらの世界ではなくて、自分がいなくなった後も連綿として続くこちらの世界。それこそ、まさしく死後の世界。
終るのは自分だけ。世界は、終わらない

「変身」で、ザムザ=虫の死は、物語の終りではなく、そのあとのザムザがいなくなった家族の、かろやかな春が語られる。
「断食芸人」で、断食芸人がいなくなったあとの檻には、一匹の精悍な豹が入れられる。自由さえもその身に備えた、完全な生命体。

「自分と世界の戦いでは、世界のほうを応援せよ」
カフカはそう書いた。

  ++

奇妙なことに、ザムザや断食芸人(作者自身がシンクロできたであろう登場人物)の消滅は、世界に欠落をもたらすどころか、むしろ完成と充実をもたらす。彼が死に、はじめて本当の世界がやって来る。

カフカにおいて、不死なのは、魂ではなく、この世界。この世界が不死であることは、魂が永遠であることよりも、ずっと意味がある、とでもいうように。
「判決」でゲオルグが飛び降りたあと、橋の上ではとめどない無限の雑踏が始まる。

カフカの作品のいくつかは、主要な登場人物の死で終わりとはならず、死のあとの数十行続くことがしばしば。
その反歌のような部分は、登場人物が消去され忘却されたあとの世界。すなわち、死後の世界
終わりによって終るのは自分だけ。世界は続いていく。
欠落はなく、逆に本来のまったき姿に回帰した世界となって、まるでそれまでの物語が余分なものだったと証言するかのように。

それは、カフカが自分の書いたものに対して持っていた不安の反映かもしれません。あるいは、自分の生そのものについて。いや、不安ではなく、期待かもしれない。
「私」は世界にとって余分なもの。なくなったとしても、むしろそのほうが世界はうまく回っていく…。

「流刑地にて」もまた、将校の死のあとが、語られる。
処刑機械を発明したとされる伝説のごとき「先の老司令官」の墓。それはにぎわう喫茶店のテーブルの下にあって、無惨に忘却されている。その存在に気づくものはなく、気ままにカフェを愉しむ客たちの足の下に、墓。

ムダに長い時間をかけて、罪人の体にその罪状を刻んでいく拷問の機械。
それは、カフカと作品の比喩、カフカの創作の実態。…そう彼が感じていたもの。
小説を書くなど、父の言うとおり、まったく馬鹿げた、ムダな行為の積み重ねであり、実際死後には忘れ去られ、世界は忘れたことで祝福され、打ち続いていくだろう。

  +++

ヨゼフィーヌは消えてゆく。最後のチュウがひと声で、それっきり。いずれヨゼフィーネは、わが民の永遠の歴史のなかの小さな逸話として収まるだろう。民は喪失を克服する。いかにしてであろうか。集会は粛々として音なしで進行するものか? むろん、進行する。ヨゼフィーネがいたときも粛々としていたではないか。あのチュウチュウは記憶にある以上に高らかで、いきいきとしていたであろうか? 彼女がいたときですら、単なる記憶にとどまっていたのではあるまいか。わが一族はその生来の知恵により、ヨゼフィーネの歌を、現にそれがあるかぎりは高く評価していた。それだけのことではなかったか?
きっとたいして不自由は来たすまい。ヨゼフィーネは地上の拘束から解放された。当人は選ばれた者のつもりであったにせよ、わが民の数知れぬ英雄たちのなかに、はればれとして消えてゆく。われわれはとりたてて歴史を尊ばないので、いずれ、すべて彼女の兄弟たちと同じように、よりきよらかな姿をとって、すみやかに忘れられていくだろう。
−−「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」
作品は、カフカの死後、忘却されなかった。
カフカ自身のあずかり知らぬところで、作品はうち続いた。

カフカの作品が世に広く知られるようになった理由のひとつは、ここにユダヤ人のその後の運命を重ねて読むことができたから。
カフカ自身がそう意図したわけではないけれど。

ユダヤ人がこの世界から消去され忘却されても、この世界は連綿として続いていく。あたかも、その消滅が、欠落ではなく、完成をもたらすかのように…。
カフカが自分自身や自分の作品に抱いていた不安(と期待)は、こうして世界一般の不安(と期待)にまで拡大された。

  ++++

長編をどれひとつ、終わらせられなかったカフカ。
終わりによっては終わらない。それは、カフカにおいて、もっとも根強い主題。カフカ自身もこえて、その主題を全うするため、カフカの作品は読まれ続ける。

この先、いったい、どうなることやら。かいのないことながら、ついつい思案にふけるのだ。あやつは、はたして、死ぬことができるのだろうか? 死ぬものはみな、生きているあいだに、目的をもち、だからこそあくせくとして、いのちをすりへらす。オドラデクはそうではない。いつの日か私の孫子の代に、糸くずをひきずりながら階段をころげたりしているのではないだろうか? 誰の害になるわけでもなさそうだが、しかし、自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする。
−−「父の気がかり」
かくして、カフカは死のきわ、友人に原稿の焼却をたくしたが、友人は遺言を無視して、これを出版する。終わりは終りではなかった。オドラデクは不死。
この友人マックス・ブロートは、何かの呪いに触れたのか、流行作家としては忘却され、カフカの原稿管理人として、まず歴史に記憶されることとなった。



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コメント

TOPページの色調(濃淡)と図形の配置が素敵です◇

Posted by: 139021 : October 17, 2005 9:00 PM
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