AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: 動画とケレン−Winsor McCay の新しさ

動画とケレン−Winsor McCay の新しさ

written by overQ
January 22, 2006

そういえば、20世紀って、もう終わってしまったんですよね。
けっこう忘れがちで、ぼんやりしてると今も20世紀みたいに思ってることもよくある、寝ぼけた私です。
まあ、はじまって数年の21世紀、まだまだ前の続きみたいなもんだけど。

さて、20世紀は、映像の文化が特徴的(ということにしておく)。
それまでの時代なら、絵とか彫刻でしか残ってないけど、20世紀からは写真や映画で振り返ることができます。

20世紀の映像文化で特徴的なのは、「動き」が画面の中にとらえられたことではないかと思います。
映画は動くのが何よりの特徴ですが、
写真も、止まった絵とはいえ、動いている中の一瞬、時間の流れの中の一こまを切り取ったもの、ということが強く意識されています。

それまでの絵画や彫刻だと、描かれたものがすべて。
その外側、動きや時間をできるだけ含みこみ、出来事の一切合財を一枚に収めようする。出来事を総合的にとらえ、代表的なもので象徴しようとする。
半端なものを描かない。

写真や、映画の一こまは、非常に半端なものが写ることが多いです。
変な顔に写ってたり、変な格好に写ってたり、よくします。
だから、かえって、絵の外側にあるもの、一瞬前の場面や時間の流れを、思わせます。
写ってるものは「一瞬」にすぎなくて、大きな流れから切り取られた一部だということを意識させる。

  +

20世紀の何が、人の目に「動き」を意識させるようになったのか。

…ふつうに考えると、写真の発明、そして映画の発明が原因のように思える。
でも、19世紀をよく見てみると、写真・映画は、じつは原因じゃなくて結果じゃないかとも思えるふしがある。

浮世絵とか、読本の挿絵とかって、すごく動的。写真よりちょっとだけ、時代が早いはず。
浮世絵では、人々は変な顔・表情をしてるし、姿は動作途中の変な形をしてます。

ケレンですね。ミエともいう。
あれって、「一こま」の形。「動き」の中の一瞬の姿。
歌舞伎などでは、舞台という制約された空間で、動的な感じを出すため、このような「瞬間」の様式が発達したのではと思います。
浮世絵は動物なども、好きですよね、動いてるもの大好き。

さらに、江戸の映像文化では、ケレンは人のみならず、風景にも応用されます。
いちばん端的なのは、北斎の大波。まさに、動作の中の一瞬の形。波がミエを切ってる。

浮世絵は印象派に影響を与えますが、それは「一瞬」の形を描くことで、「動き」をとらえていたからではないか…とも思えます。
色彩すら、一瞬をとらえた。移ろいゆく夕暮れや朝もやの色。
写真があったから、というよりも、写真と同時代のパラレルな現象のようにも見える。

何が、19世紀の後半、人の目を同時代的に、「動き」のほうへ、かりたてるのか。
よくわかりません。

カトゥーンというか、風刺漫画も、市民社会の発達の中で強くたくさん出てくる時期。
これも、ちょっとだけ、写真の普及より早いのではないか。
変な顔、変な姿で、人を揶揄するジャンル。「動き」の一瞬を切り取る、瞬間的な写生の技法が、ここでも使われている。

  ++

「動く」ことへの映像的興味は、やがて映画を生みます。コマ割りでストーリーを展開するようなマンガも、この流れで出てきたもの。 *1

のぞきカラクリとかパノラマとか、写真を応用した見せ物が流行し、そのうち映画になる。
乱歩の小説には、この手の新奇な視覚エンターテイメントがよく出てきます。乱歩の作品は小説だけど、「動的なビジュアル」の描写が、基本的な文体をなしています。

何かが、人の目に、「動き」への好奇心を駆り立てている。

ひとつ考えられるのは、乗り物の普及。リュミエール兄弟の最初の被写体は、駅に侵入する汽車でした。
速度の速い乗り物が、一般市民にも普及して、誰もがめくるめく視界の変化を体験した…せいなんでしょうか。よくわからない。
それまでだと、戦争とか狩猟とかの専門的な道具でしかなかった、速度。

きっと、人々の見る夢も、すごく変化したにちがいない。
夢の表現は映像重視だから。

  +++

前の記事でご紹介した、マンガ・アニメーションの先駆的天才マッケイ。

彼こそが、20世紀映像文化の特徴をいちばんとらえている存在じゃないか、と思ったりします。

子供の頃から、動いてる動物や乗り物を見て、たちまち写生して、大人たちを驚かせていたマッケイ。
止まってるものを写生するのはわりとカンタンですが、動いてるものの一瞬を見出すのはすごく難しい。

マッケイは青年になると、即興で絵を描いてみせるボードビル芸人になった。
動作の中の一瞬をとらえるのが、非常にうまい。
マッケイの描く人物、動物、乗り物はどれも、動きの中の一こまを切り取られ、変なかっこうをしています。
そのポージングの妙が、マッケイのあからさまな天才。

今の作家で言うと、大友克洋とか鳥山明とかって、動きの中の一瞬の、変なポーズの瞬間をたくみに取り出してきて、変な形をしてるからこそ、動的な感じを出すことができる。
あれが、マッケイから流れてる、20世紀映像の特徴的な表現だ。

日本のアニメでは、めまぐるしい動作(宇宙で戦闘機が空中戦をするとか)になると、
意図的に「変な絵」を途中に仕込むことで、動的な感じを出します。
動きのつながりでいくと飛躍があるのような形・ポーズ・表情を、一コマ二コマ、挿入しておく。
すると、動かした時、すごく動的な感じに仕上がるといいます。
アニメの空中戦では、目には留まらない速さだけど、一瞬だけ、戦闘機はケレンをやってるわけです。

  ++++

マッケイのこの絵を見てください。

夢の中で、男の子の縮尺が変になって、ビルをよじ登るシーン。

まず、男の子の登り方のポーズのヘンテコさ。
ヘンテコだけど、たしかにビデオカメラで撮って、一こまずつ見ていけば、こんな妙なポーズをしてる瞬間はありそうです。ヘンテコだけど、デッサンはまったく狂ってない。

これって、ちょっと描けない絵です。
この手の絵を描く場合、連続写真を撮って、それを元にするのがふつうでしょうが、
マッケイは果たして写真を必要としたかどうか。
頭の中の想像をスケッチして描けたのではないか。

もうひとつ動くのは、ビルの側面の遠近法。
コマを進むごとに、どんどん窮屈になっていきます。夢の緊迫感、エスカレーションを表現しています。
動かないものが動く。視点が動いているのですが、どちらかといえば、動かないはずのビルのほうが動いているように思えます。夢の中の感じがよく出てる。

くしゃみをする子どもの絵だと、もっと端的に、動作の中の一瞬の変な顔をとらえています。

この絵だと、まさに映画のコマのよう。視点(カメラ)が自在に動くのもポイント。すごく20世紀的、また夢の特徴。

マッケイの作品は、夢の中を舞台にしているせいもあり、ふつうは動かないものも動きます。
ベッドとか楽器とか

ベッドのほうの絵は、カメラが動いて、背景もどんどん三次元的に変化するのが、「動き」を見せるのに、大きな効果になってます。
これも、描くのがたいへん難しい絵です。頭の中にCGがあって、マウス操作でぐりぐり動かせるかのようです。
でも、たしかに夢の中では、視点(カメラ)である自分は、好き勝手な位置に配置できたりします。たいへん不思議です。

…こうしたマッケイの絵、ほんとうに20世紀的、また21世紀的(CG的)と言えるのではないでしょうか。
100年も前の人だけど、マッケイの天才は、まだまだこれから発見されていくことになりそうです。
この話は精密に書いていくと、二次元で三次元を描くとか、時間の流れを瞬間で表現する(省略する)とか、数学的なものになりそう。
マッケイって、きっとピカソよりも、ずっと革新的なのです。


*1 : 映画のモンタージュと、手塚マンガの展開法は、ある程度パラレルな現象。マンガはもっとややこしい展開法をはじめから持っていますが。


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コメント

 こんにちは、ご無沙汰しています。
 去年、「北斎展」を観にいったときに、まさにこの人の物を観る目は、現代日本の漫画、アニメ表現にダイレクトにつながってるなと、思いました。
 で、浅はかにも、そうした一瞬を捉えて動きを表現するものの見方というのは伝統的かつ特質的に日本人特有のセンスなのかしらんと、思ったりしてました。
 海外にもこうした天才はいたわけですね、当然ながら。
 昔、初めてディズニーの長編アニメを見たとき、あんまり画面が自由に動きすぎるので観ていて気持ち悪くなってしまった覚えがあります。
 日本のTVアニメの極端にコマを落とした画面に慣れているとそんなことにもなってしまうのですが、そうした経済事情からやむなく生まれた技法から、逆に今の独特の日本的アニメーション表現が生まれ、またその表現が必然動画というものが存在しなかった時代に画に何とか動きを持ち込もうとした天才たちの表現とつながってしまうというのはじつにおもしろいなぁと思います。
 

Posted by: 夏庵 : January 23, 2006 5:07 PM

乱歩の「押絵と旅する男」は、傑作だと思うんですが、
押絵という二次元の世界の娘に恋するきっかけが、
望遠鏡で覗いたときのリアルさっていうあたり、
なんていうか、
目眩がするほど刺激的です。
絵の中に閉じ込められ、一瞬を永遠に生きることを余儀なくされた娘。
その娘に恋する男。

それを走る列車の中で聞く男。
列車は、蜃気楼で有名な富山県魚津あたりを走っていく…。
光の屈折。反射。
乱歩らしい、本当に読み応えのある作品です。

ところで、リュミエール兄弟の映画は、
「工場の出口」しか観たことがないのですが、
たくさんの労働者たちが一挙に出てくるって、
時代性をすごく感じるし、
なによりも、リュミエールって「光」って意味だから、
偶然とはいえ、非常に美しい偶然ですよね。


Posted by: Site icon ne_san : January 24, 2006 12:46 AM

★夏庵さん。

こんにちは。こちらこそご無沙汰しております。

北斎は「動く」ということを、どう止まった絵の中に持ち込むか、工夫し続けた人と言えそうです。
人の動作だけじゃなくて、風景までそうなのが面白いですね。
富士山が赤いというのは、うつろいゆく朝の景色の中の一瞬を捉えたから面白味がある。
いつでも富士山が赤いものだったら意味をなさない表現です(笑)

こうした「1コマ」を見出す目というのは、どこから生じてきたのか、不思議です。
欧米でも同時代的な現象として出てきてるように見えて、謎が深まります。

部分を組み合わせると全体になる…はずですが、
「1コマ」主義では、むしろ「ある部分」は全体よりも大きいらしい。
「動き」は、まるで微分の接点のように、ある一点の中に全体の力を封じ込めるかのようです。

市民社会の成立とか、一人一人の平等や価値の発見とかとも、つながってるんでしょうか。
とても不思議です。

Posted by: Site icon overQ : January 27, 2006 9:24 AM

★ne_sanさん。

一目ぼれ。
これこそ、まさに「1コマ」を見出す瞬間。
その人の一瞬の表情に恋してしまう。
それはふだんのその人の表情とは、大きくかけ離れたものかもしれないのに…。

一瞬のほうが、全体の時間より、大きい。
そういう奇妙な時間論が支配する世界です。

乱歩が戦後書いてた、少年向けのゆるい読み物。
大槻ケンヂが電人Mとか黄金豹とかをネタにして、面白い解説をしてました。
二十面相は豹にも変装できるらしいのですが、たんに豹のキグルミに入ってるだけらしい(笑)

でも、映画でなら、カメラ位置を工夫したり、光と影を駆使しして、
キグルミの豹をホンモノのように見せる数秒を作り出そうとします。
一種の錯覚であり、「一目ぼれ」と同じもの。
幽霊やお化けもたぶんそうやって見えるのでしょう。

少年物で見せた、乱歩のみょうちきりんな発想も、
止まってる状態じゃなくて、「動いているもの」の瞬間として「見る」と、
案外ありえないものではないのかもしれません。


Posted by: Site icon overQ : January 27, 2006 9:38 AM
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