京都御所の桜、一部がすでに咲き始めています。
北のほうにある、近衛邸あとのしだれ桜。三本が、こんな状態。
まだ来んと迎えに出たるおらが春風よりも花よりもまず空の色
この枝もしだれるほどに春を溜め
さそう梅むかえる桜むすぶ桃
幸福の形について考えて神はそれを五角形にする
永遠とおなじ儚(はかな)さ花の春 OVQ
overQさんの俳句だ!やったー!
ごちそうさま(?)でした。
梅のところで、コメントしぞびれたのですが。
北天満宮には、たくさんの梅がありますよね。
昨日、椿にも2000もの種類があると知り、
非常に衝撃を受けています。
桜も、梅も、それくらい種類があるのかもしれませんね。
picoさん、こんばんは。
椿2000。
すごいですね。種として、それは本当に「椿」というものが存在しているのだろうか、という疑いにさえ駆られそう(;・∀・)
梅や桜も、梅みたいな桜とか、桜みたいな桃、梅よりもっと桜な梅…なんてのもあるのかもしれません。
…俳句はあまり詠んだことないので、苦手なんです。
ごはんのおかずを買いに行く行き帰りで、いろいろ考えて作ってみました。
ほかにも作ったのですが、5句以上は記憶できない脳であることが判明しました(;・∀・)
たくさん詠んでる人は、もっとぞんざいに作りますよね。
私はまだまだ、「名句」を作ろうという気持ちがあるぶん、はるかに未熟者。
子規は、短歌も俳句も、すさまじくぞんざいで、すごいです(笑)
彼は、「名句」が、フレーズのパターンを使いまわすことで、カンタンに作れてしまうと気づいた人。
だからこそ、近代短歌・俳句を生み出した。
写生と、子規は言う。
一期一会なものを書き写す言葉に、名作も駄作もない。
それは人間そのものと同じだから。
彼の人生もまた短くて、俳句や短歌のようです。
子規と漱石と、友だちでよかったですよね。ほんとによかった。すれちがうこともあったけど、それもよかった。
子規はとてつもなく正直な人ですが、
それは自分の人生が一回きりで、その瞬間瞬間が二度とないことだと、
よくわかっていたからにちがいないです。
誰かほかの人の人生と似ていたとしても(つまりフレーズの使い回しだとしても)、
それでもやっぱり彼の人生は、自分だけ、この一瞬だけの一度きり。
それが彼の言う、写生ということなんだと思います。
しだれ桜、美しいです〜。御所だけあって、見事な樹ですね。
桜の写真をみるたびに、瞳孔がピンク色に染まるような錯覚に襲われます。
マンガで、瞳がぽわ〜んとハート形になったような感じ(笑)。
overQさんのコメントで子規について読ませていただいて感銘受けました。
子規の俳句、短歌が、すさまじくぞんざいという表現に驚くと同時に納得〜。
まるで日記を綴るように次々と詠んでましたものね。
確かに「名句」をひねろうという気負いが全然感じられないです。
たくさん詠んだら、その中に最高の瞬間を捉えた句もあった、みたいな。
プロのカメラマンが写真撮る時とちょっと似てる気がします。
子規と漱石が出遭えて本当によかったですね。私も心からそう思う。
今回のたら本「別れの本」で子規も挙げようかと思いましたけど
小説ではないのでやめたのでした。
子規の絶筆を含めた句集をイタリア語訳する構想を温め十何年というのは内緒です(笑)。
御所は、梅桃桜、三姉妹、同時開花になっています!
珍しい現象らしいです。
このところの異常気象のおかげ…おかげというか、なんというか(;・∀・)
司馬遼太郎は、年をとるほど子規が好きになる、と言っていました。
また、子規はいつの時代でも若い、とも。
子規の書き残したものには、書かれているものの外に、晴れた空のような大きな余白があって好きです。
もともとは血気盛んな男子で、「文学の究極」を目指してしまうようなタイプだったのが、病気のせいで図と地の反転が起きる。
歴史で言えば、歴史のメインストリームを作る大人物大事件の外に、
はるかに広大な、消え去った人々と出来事があるのに気づくようなもの。
俳句は特にそうですが、文学は価値を追求するというより、価値の外側に置かれたものに寄り添う。
文学ではすべての遠回りが近道。
子規はのたうちながらも、身をもってそれを確信できたと思います。