あざなえる縄の如し。
…て、何がでしたっけ。
何が、あざなえる縄の如しなのよ?
そんな疑問にとり憑かれたのは、夕闇迫る鴨川べりを自転車でたらたらと走っていたときのこと。
上流へ向かって帰宅しているのであって、登りのだるさを忘れるには、ちょうどよいお題だったので、あれこれ考えた。
そもそも、「あざなう」とは何か?
縄をあざなうって、いうんだろうか。
漢字をあまりにまじまじと見つめ続けると、それが何の字かわからなくなるように、
「あざなう、あざなう、あざなう…」と考えているうち、だんだん意味がわからなくなっていきました(;・∀・)
縄は…なう、じゃないの? なうから縄。縄なうナウなヤング…?(謎
あざなうっていうかな。縄ってあざないます?
「今日、ちょっと髪をミツアミにあざなっちゃったわよ」
「新しいストラップがあざないやすくてこまるんだ」
「昨日、庭で蛇が2匹あざなってるのを見ちゃったよ、ウロボロスな春だね」
「パソコンの背中って、線がごちゃごちゃにあざなっちゃってて…」
言わんな。「あざなう」とは言わん。断じてイワン。
そのとき、唐突に語源を探ってみようではないか、と脳内で長老格の何かが叫びました。
あざなう、あざなう…いざなう。
「いざなう」と似ているぞ(脳内ドヨメキ
そういえば、女神様が迷える子羊をいざなう時、こう…なんていうか、指で「いらっしゃい、ぼうや」みたいなポーズをするではないか!(シネーヨ
そのフィンガーのクネクネぐあいが、あざなえる縄の如し。
それで、「いざなう」が「あざなう」になったのだろう。
…おそらくそうではあるまいて。
あざなう、あざなう…ザナドゥ、ギャランドゥ。
おそらくそれはもうあからさまに、そうではあるまいて。ギャランドゥにいたっては、「あざなう」と何ひとつ共有するものがない。
ちなみに、ザナドゥはオーソン・ウェルズの名作「市民ケーン」で新聞王にのし上がったケーンが、有り金はたいて引きこもる宮殿の名前であり、
ギャランドゥは、声を途中で裏返しながら西城秀樹が歌う、ギャランドゥ〜、ギャランドゥゥ。
ザナドゥとギャランドゥが、私の脳内ではきわめて近接した位置に所属していることが判明し、頬も赤らむ夕暮れ時。
もうその頃には「あざなう」の意味は完全に見失われ、
「企業体質があざないやすい日航」
「地震でマンションがあざなう前に」
「神はイスラエル・パレスチナをあざないたまいて」
「荒川静香のアザナウワー」
など、疲労しきった脳を、おかゆのように攪拌する言葉が、入り乱れ。
漢字と同じで、正面からじっくり見据えてしまうと、かえってわからなくなる。
ならば…ハスに見ればいいんだ。
人間の認識は、きっとその視界の中心に盲点があるのだわ。
ど真ん中でしっかり意識しようとするからダメなの。
考えすぎたらダメ、パパッと直感しなきゃ。
端っこのほうで、何の気なしに、ぞんざいに垣間見る。それよ。
外国語の勉強でも、いつまでたっても母国語のようにならないのは、一生懸命、意識のレベルで覚えようとするから。
もっと、斜めとか下方から、そこはかとなく身につけなくては。
そこで、よそごとを考えて「あざなう」は意識から追い払ったのち、ふいに「あざなう」に戻って、たちどころにしてその正体をつかむ…という戦術を立てる。
まず、よそごとを考える…エロかっこいい幸田露伴、キモかわいい張作霖などを思い浮かべながら、不意に「あざなう」のほうへ戻ってみる。
すると、中国の茶碗とかに描かれている福福しい小太りの小僧の姿がなぜか浮かび、それは、肌がつややかでアザがない、アザがない、アザない、あざなう…バンザーイ、バンザーイ、とドーパミン垂れ流しな脳。
そんなふうにして日が暮れて、自転車は家に着き、私の脳からは「あざなう」という語彙が完全に見失われ、あざむかれたような春の一日。
もう生涯、「あざなう」を母国語として、何の気なしに使うことはあるまいて。あずかりしらぬ、あさっての外国語。axauwaneauit.
そんな強い確信を胸に、晩ご飯はイワシを煮た。生姜としょう油と少量の味醂と気持ちだけ砂糖が、あざなえる縄の如く味わい深い。