春だし、ちょっとでもスキルがアップできればいいなあと思って、
いろいろやってみてる今日この頃。
なかなか難しいです。何がどのように難しいか、説明することさえ難しい。
早くもかなり飽きてきました(笑)
自分のスキルが低い、低すぎということもあるけど、
それ以上にいろんなものがいっぱいありすぎて。
質の点でも全然追いつけないけど、量の面ではさらに広大。
どんなものがあるのかなと漫然と見ているだけなのに、
数珠繋ぎというか芋づる式というか、次から次へと面白いものが見つかる。
自分の好奇心についていくのに疲れる。
そもそも何をやっていたのか、わけわかんなくなる。
今はもう、いっそあらゆる情報から遮断されて、
井戸の中のカエル、ひっそり暮らしたい心境ですが(;・∀・)
+
攻殻機動隊S.A.C.の最後のほう。
電脳化の発達で、もう誰も読まなくなった本たち。眠る図書館。
アオイ(笑い男)と素子が話すシーン。
ジガ・ヴェルトフや大澤真幸を引用して幻惑的に衒学的な会話。
電脳(ネット)を介して簡単に書籍を参照できるから。
でもアオイはきっと本を目で読んでいたのでしょうね。
社会からいちばん遠く隔絶した場所となった図書館。
しかし片隅こそ中心なのかもしれない。全世界を凍らせるだらうといふ妄想(隆明)?
I'd pretend I was one of those deaf-mutes or should I?
ずうっと昔に読んだ堀晃のSF。
太陽系の果てのほうに出張させられた情報サイボーグ。
通信距離のせいで情報からも組織からも隔絶され
(電波が届くのに何十時間もかかる)、
かえって人間性を取り戻す…というような内容(だったか)。
そういえば素子は義体化したわが身を海に沈めるのが趣味だった。
私は貝になりたいと言ったのは誰だっけ。いっそ海になりたい。
巻き貝を耳に当てると、同じ音がくぐもって、海の音に聞こえるというのだけれど。
+
鶏口牛後という古い言葉があり、ロングテールという新しい言葉がある。
並べてみると、ロングテールはいっけん「牛後」のほうみたいだけど、
じつは無数の鶏口があるというべきか(クラスタ)。
中心に都はなく、断片化した片隅ばかりでできている。
数学的には、スモールワールドと呼ばれるらしい。
+
ボルヘスは人生を生活よりも読書に当ててきたと言った。
誰よりも本を愛し、本に愛された男。
しかし悪政が去って図書館のすべての本を読んでもよくなった時、
彼の目は光を失っていた。
本からの無限な隔絶。
ボルヘスが来日した時、その姿を垣間見た大江健三郎は、
「もう外界のことにはあまり興味がないよう」と形容した(だったか)。
本は記憶の中にあって、男はそれを読み続けている。
「伝奇集」「続・審問」から、感動的な「七つの夜」へ。
本は外にある外部記憶ではなく、内面化された心の本。
盲目になったとき、心の書棚に連れて行ける本は、ボルヘスにとってさえ、さほど多くはなかったように思われる。
人間が生み出す比喩はみっつくらいしかない、と彼はどこかで言っていなかったか。
衒学が終り、運命の肯定へ。
BeatriceはDanteの前に、背中だけを遠く見せた。
運命は幸不幸とはまったく無縁な美しさを持つ。
神の愛が(人間のではなく)この宇宙を回している。
+
ブログは情報発信ツールというけど、むしろコミュニケーションツールとして使ってる人が多いかしれない。
不特定多数の人に情報を発信してるんじゃない。
特定の人、自分の「名前」も「顔」もおぼえてくれてる人に向けて、
今日こんなことありました、とうだうだ記事を書く。
そのうだうだが楽しい。mixiなんかだともっとそう。
もちろん名前も顔もネット的な意味で既知なのだけど、
不特定多数、誰でもいい誰かじゃない、顔見知りな、ワタシとアナタ。
ネットで商売するとき、大勢で細心の知恵を絞った大企画より、
ちょこちょこっとぞんざいに作った個人サイトのほうが、
お得意様の小さな輪をやすやす作って、
それなりに成功しやすいということも。
商品の質さえ、そのほうが良い。
Small circle of friends.
+
the outcast of the universe.
ホーソーン「ウェイクフィールド」の最後の言葉。
ある日、何の理由もなく、妻のいる家を離れ、隣町に隠れ住み、
その20年後、また何の理由もなく、家に戻った男の話。
「宇宙の孤児」と訳されていたか。貝と鳴ろうとした男。
しかし宇宙の広大にくらべれば、地球は outcast of the universe。
ネットという大海でどれだけ泳いでも、カエルは井戸の中。海の音。
+
納豆やビールを初めて口にして、おいしいと感じるのが難しいように、
古典と呼ばれる本は、たいてい最初、味がない。
溶けない飴のようなもの。何年もかけて、じっくりと舌の上で転がす。
昔は本が高価で、人はわずかな書籍を繰り返し読んだという。
すると人生のことあるごと、本は別な新しい顔を見せた。
ページに目を落としてないときでも、そこここの言葉がいつしか暗誦され、
人生の伴走者となった。
繰り返し長く同じ本を読むことの効用は、積み重ねの効用ではない。
「瞬間」がやって来る。本によって人生が読めるのではなく、その逆だろう。
人は言葉と一瞬の結びつきによって、記憶にとどまるべき人間になるから。
本も人生もじつは、たった一つの方向に向けて調律されている。
もしそれがないなら、本など読まないほうがマシだと、今となってははっきりと思える。
豊かすぎると選択肢が多すぎて、目移りしてしまう。
どれもこれもその表面しか眺められない。
全体を見渡すことさえできない。
パッと見が判断の基準になる。
貧しさや病など不幸な条件のせいで、選択が限られる時、
かえってその物の深い有用性に気づくことがある。
ひとつしかないんで、いろいろ使わなきゃならないだけのことにしても、
長い歳月のうちに、それが人生の喜びになる。
なぜだろう?
人間は熟練することに深い幸福を感じるらしい。
「手になじむ」とは、もうその言葉だけでも幸せの近傍。
恋人ならあるいは取り替えることができるかもしれない。
次から次へ新製品を追うように、取り替えてみる。
親や子はそうはいかない。
しかし、いちばん取替えがきかないのは、自分自身。
「よりよいもの」ばかり目指すと、
その「よりよさ」を判断する基準は同じまま。
進歩は幻。ほんとは「よりよく」なっていないのかもしれない。
逆説が歴史を支配する(ようにみえる)理由の一端か。
+
ユングが好んだ話。
中国のある村でひでりが続いた。雨乞いの祈祷師を呼んだ。
祈祷師はお祈りもせず、村の片隅に掘っ立て小屋を作って、ひきこもる。
1週間が過ぎ十日が過ぎた。雨が降る。
小屋から出てきた祈祷師に、理由を訊ねると、
「世界の気が乱れていた。
だから閉じこもって、まず自分の気を正した」
+
髪を長く伸ばしているとき、バスルームの排水口は定期的に詰まる。
この頃はショートなのでそんなことはないのだけれど、
ゴボゴボゴボという排水口の音は、人がどこか遠くで、小声でしゃべっているように聞こえる。
聞き取ろうと聞き耳を立ててしまう。
万葉の時代の人々が、夕闇の巷でおこなった辻占のよう。姿は見えないけれど、行き交う異人たちの声はする。
意味ある言葉が聞き取れたとき、自分の狂気を感じる。
それは排水口の音なのに。なぜ、意味を。天使…とは、神の見せた背中。
世界は、読めない文字で書かれた、一冊の本…だとしたら。
見知らぬ言葉で話しかけられているのに、勝手な意味をそこに見出し、一喜一憂。
星新一のボッコちゃんみたい。
情報と呼ばれるもの、人間の側から見るとあまりに多様で、この一語でまとめるのが不当なように見える。
それもそのはずだ。情報は、コンピュータから見れば、なるほど単一の定義。
鏡の内と外で待ち合わせをしているような物。
いつも出会っている、と思っている、アナタとワタシ。それは永遠に出会えない。
+
つかまえたカブトムシ(だったか)。糸をつけ、棒に結んでおく。
カブトムシはブンブンと飛び回るが、やがて飛びつかれて、降りてくる。
そんなことを開高健が、小説を書き出すまでの無為の時間について、語っていなかったか。
部屋でじっとして、本も文学など読まず、一般向けに書かれた科学書を漫然とながめ、
自室に「たれこもる」。
かならずしも「瞬間」はやって来ず、かわりに「滅形」が訪れる。
この語は、そもそも梶井基次郎が使ったものだった(冬の日)。
現前する意志を喪った風景。or should I?
彼は電車を待っていた。家へ帰ろうか賑やかな街へ出ようか。迷っていた。そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。
+
わー、この記事、いいですね。
永遠に読んでいたくなります。
危ない、危ない。
overQさんの無限ループにはまるところだった(・∀・;)
一見、ばらばらの記事に見えるけれど、全部、つながっているような。
>世界は、読めない文字で書かれた、一冊の本…だとしたら。
今、読んでいる筒井康隆の『小説のゆくえ』にも同じようなことが書いてありました!
ドーキンスのいうミームの概念として
「過去現在に及ぶ多数の作家は、みんなで寄ってたかって
ただ一冊の本を書き続けているだけなのだ」と。
>「瞬間」がやって来る。
これは大悟のようなものでしょうか?
(京極の『鉄鼠の檻』を読んだばかりなもので…笑)
>豊かすぎると選択肢が多すぎて、目移りしてしまう
ホントですね!
現代人に必要なのは、あえて選択肢を狭めることかもしれませぬ。
この文章、最初はもうちょっと長くて、技術系の話もいろいろ書いてたんですが、
あまり長いので端折ったら、断片的になっちゃいました(;・∀・)
「世界は一冊の本」という考えはかなり昔からあり、
たとえばアラビアンナイトでは、
病気の王様のもとに呼ばれた配下のものが、
その部屋の巨大なカーペットに、
王様の人生すべて、世界の出来事すべてが描かれているのを発見し、
自分が今、王様のもとでカーペットの謎を見つけた姿さえ描かれているのを見出します。
(この話を読んだ記憶があるのですが、もう一度読みたいと思って探してるのに、見つからないw)
逆に、本の中に世界のすべてを取り込もうとする試みもたくさんあり、
マラルメはそんな本を夢想し、ジョイスはフィネガンズ・ウェイクでそれを実現しようとします。
ボルヘスはこの話のプロで(笑)、
アレフという短篇や、「続・審問」という評論集で、この問題のいろんな側面を考察しています。
豊かすぎて選択肢が多すぎるのって
実は不幸なことじゃないかなって思うようになりました。
選択肢がたくさんあるのは、自由のように見えて
実はとても不自由ですよね。
ある程度限られた選択肢の方が、却って自分の望むものが
はっきり見えてきたりするし…
とは言っても、私がたくさんの選択肢に迷うのは
本ぐらいのものなんですが。(笑)
でも、これだけはどうも煩悩が捨てきれません〜。(笑)
先日、恵文社の書架を眺めていた時に
いくら頑張っても、読みたい本を読みつくすことは
できないんだなあ、ってしみじみと思ってしまいましたよ。
人生限られた時間の中で、あとどれだけ読めるのかしら!
元々の私は同じ本を文章を覚えこむまでしつこく読むタチなのに
サイトを始めてから、なかなか再読しなくなっちゃったのも
情報過多の1つの不幸かと…
まあ、そのうち再読モードが巡ってくると思うので
今は新しい情報を集める時期だと思ってるんですけどね。
…老後の楽しみを蓄積中です。(笑)
情報格差、なんてよく言われますが、実際には、情報が少ないからって、
いちがいに「不幸」とは言えないんでしょうね。
そう思ってしまうのも、まさに情報過多で、
ものすごい勢いでいろんなものが出てくる回転寿司みたいなもの(笑)
いろいろ食べてみるけれど、ほんとには味わうことができてないのかもしれない。
ボルヘスは、案外、目が見えなくなってから、幸福そうなところがあります。
目が見えると、無限に新刊や流行を追いかけて本を読むことになるけど(大江健三郎さんはそんな人生だったと思いますw)、
彼は盲目になることで、好きな本だけ繰り返し、それも心の本棚で読み続ける、という幸福を得た。
そういえば、大江さんのいちばん新しい(最後の?)小説は、「さようなら、私の本よ!」。
ナボコフの作品からとられた題名だそうです。