AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: 遠く離れて

遠く離れて

written by overQ
April 10, 2006

春だし、ちょっとでもスキルがアップできればいいなあと思って、
いろいろやってみてる今日この頃。
なかなか難しいです。何がどのように難しいか、説明することさえ難しい。
早くもかなり飽きてきました(笑)

自分のスキルが低い、低すぎということもあるけど、
それ以上にいろんなものがいっぱいありすぎて。
質の点でも全然追いつけないけど、量の面ではさらに広大。

どんなものがあるのかなと漫然と見ているだけなのに、
数珠繋ぎというか芋づる式というか、次から次へと面白いものが見つかる。
自分の好奇心についていくのに疲れる。
そもそも何をやっていたのか、わけわかんなくなる。

今はもう、いっそあらゆる情報から遮断されて、
井戸の中のカエル、ひっそり暮らしたい心境ですが(;・∀・)

  +

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 13

攻殻機動隊S.A.C.の最後のほう。
電脳化の発達で、もう誰も読まなくなった本たち。眠る図書館。
アオイ(笑い男)と素子が話すシーン。
ジガ・ヴェルトフや大澤真幸を引用して幻惑的に衒学的な会話。
電脳(ネット)を介して簡単に書籍を参照できるから。
でもアオイはきっと本を目で読んでいたのでしょうね。
社会からいちばん遠く隔絶した場所となった図書館。
しかし片隅こそ中心なのかもしれない。全世界を凍らせるだらうといふ妄想(隆明)?
I'd pretend I was one of those deaf-mutes or should I?

地球環ハルキ文庫

ずうっと昔に読んだ堀晃のSF
太陽系の果てのほうに出張させられた情報サイボーグ。
通信距離のせいで情報からも組織からも隔絶され
(電波が届くのに何十時間もかかる)、
かえって人間性を取り戻す…というような内容(だったか)。
そういえば素子は義体化したわが身を海に沈めるのが趣味だった。
私は貝になりたいと言ったのは誰だっけ。いっそ海になりたい。
巻き貝を耳に当てると、同じ音がくぐもって、海の音に聞こえるというのだけれど。

  +

スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法

鶏口牛後という古い言葉があり、ロングテールという新しい言葉がある。
並べてみると、ロングテールはいっけん「牛後」のほうみたいだけど、
じつは無数の鶏口があるというべきか(クラスタ)。
中心に都はなく、断片化した片隅ばかりでできている。
数学的には、スモールワールドと呼ばれるらしい。

  +

七つの夜

ボルヘスは人生を生活よりも読書に当ててきたと言った。
誰よりも本を愛し、本に愛された男。
しかし悪政が去って図書館のすべての本を読んでもよくなった時、
彼の目は光を失っていた。
本からの無限な隔絶。

ボルヘスが来日した時、その姿を垣間見た大江健三郎は、
「もう外界のことにはあまり興味がないよう」と形容した(だったか)。
本は記憶の中にあって、男はそれを読み続けている。
「伝奇集」「続・審問」から、感動的な「七つの夜」へ。
本は外にある外部記憶ではなく、内面化された心の本。
盲目になったとき、心の書棚に連れて行ける本は、ボルヘスにとってさえ、さほど多くはなかったように思われる。
人間が生み出す比喩はみっつくらいしかない、と彼はどこかで言っていなかったか。
衒学が終り、運命の肯定へ。
BeatriceはDanteの前に、背中だけを遠く見せた。
運命は幸不幸とはまったく無縁な美しさを持つ。
神の愛が(人間のではなく)この宇宙を回している。

  +

コンプリート・ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ

ブログは情報発信ツールというけど、むしろコミュニケーションツールとして使ってる人が多いかしれない。
不特定多数の人に情報を発信してるんじゃない。
特定の人、自分の「名前」も「顔」もおぼえてくれてる人に向けて、
今日こんなことありました、とうだうだ記事を書く。
そのうだうだが楽しい。mixiなんかだともっとそう。
もちろん名前も顔もネット的な意味で既知なのだけど、
不特定多数、誰でもいい誰かじゃない、顔見知りな、ワタシとアナタ。

ネットで商売するとき、大勢で細心の知恵を絞った大企画より、
ちょこちょこっとぞんざいに作った個人サイトのほうが、
お得意様の小さな輪をやすやす作って、
それなりに成功しやすいということも。
商品の質さえ、そのほうが良い。

Small circle of friends.

  +

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

the outcast of the universe.

ホーソーン「ウェイクフィールド」の最後の言葉。

ある日、何の理由もなく、妻のいる家を離れ、隣町に隠れ住み、
その20年後、また何の理由もなく、家に戻った男の話。
「宇宙の孤児」と訳されていたか。貝と鳴ろうとした男。

しかし宇宙の広大にくらべれば、地球は outcast of the universe。
ネットという大海でどれだけ泳いでも、カエルは井戸の中。海の音。

  +

なぜ古典を読むのか

納豆やビールを初めて口にして、おいしいと感じるのが難しいように、
古典と呼ばれる本は、たいてい最初、味がない。
溶けない飴のようなもの。何年もかけて、じっくりと舌の上で転がす。
昔は本が高価で、人はわずかな書籍を繰り返し読んだという。
すると人生のことあるごと、本は別な新しい顔を見せた。
ページに目を落としてないときでも、そこここの言葉がいつしか暗誦され、
人生の伴走者となった。
繰り返し長く同じ本を読むことの効用は、積み重ねの効用ではない。
「瞬間」がやって来る。本によって人生が読めるのではなく、その逆だろう。
人は言葉と一瞬の結びつきによって、記憶にとどまるべき人間になるから。
本も人生もじつは、たった一つの方向に向けて調律されている。
もしそれがないなら、本など読まないほうがマシだと、今となってははっきりと思える。

豊かすぎると選択肢が多すぎて、目移りしてしまう。
どれもこれもその表面しか眺められない。
全体を見渡すことさえできない。
パッと見が判断の基準になる。
貧しさや病など不幸な条件のせいで、選択が限られる時、
かえってその物の深い有用性に気づくことがある。
ひとつしかないんで、いろいろ使わなきゃならないだけのことにしても、
長い歳月のうちに、それが人生の喜びになる。
なぜだろう?
人間は熟練することに深い幸福を感じるらしい。
「手になじむ」とは、もうその言葉だけでも幸せの近傍。

恋人ならあるいは取り替えることができるかもしれない。
次から次へ新製品を追うように、取り替えてみる。
親や子はそうはいかない。
しかし、いちばん取替えがきかないのは、自分自身。

「よりよいもの」ばかり目指すと、
その「よりよさ」を判断する基準は同じまま。
進歩は幻。ほんとは「よりよく」なっていないのかもしれない。
逆説が歴史を支配する(ようにみえる)理由の一端か。

  +

ユングが好んだ話。

中国のある村でひでりが続いた。雨乞いの祈祷師を呼んだ。
祈祷師はお祈りもせず、村の片隅に掘っ立て小屋を作って、ひきこもる。
1週間が過ぎ十日が過ぎた。雨が降る。
小屋から出てきた祈祷師に、理由を訊ねると、
「世界の気が乱れていた。
だから閉じこもって、まず自分の気を正した」

  +

髪を長く伸ばしているとき、バスルームの排水口は定期的に詰まる。
この頃はショートなのでそんなことはないのだけれど、
ゴボゴボゴボという排水口の音は、人がどこか遠くで、小声でしゃべっているように聞こえる。
聞き取ろうと聞き耳を立ててしまう。
万葉の時代の人々が、夕闇の巷でおこなった辻占のよう。姿は見えないけれど、行き交う異人たちの声はする。
意味ある言葉が聞き取れたとき、自分の狂気を感じる。
それは排水口の音なのに。なぜ、意味を。天使…とは、神の見せた背中。

世界は、読めない文字で書かれた、一冊の本…だとしたら。
見知らぬ言葉で話しかけられているのに、勝手な意味をそこに見出し、一喜一憂。
星新一のボッコちゃんみたい。

情報と呼ばれるもの、人間の側から見るとあまりに多様で、この一語でまとめるのが不当なように見える。
それもそのはずだ。情報は、コンピュータから見れば、なるほど単一の定義。

鏡の内と外で待ち合わせをしているような物。
いつも出会っている、と思っている、アナタとワタシ。それは永遠に出会えない。

  +

オーパ集英社文庫 122-A

つかまえたカブトムシ(だったか)。糸をつけ、棒に結んでおく。
カブトムシはブンブンと飛び回るが、やがて飛びつかれて、降りてくる。

そんなことを開高健が、小説を書き出すまでの無為の時間について、語っていなかったか。
部屋でじっとして、本も文学など読まず、一般向けに書かれた科学書を漫然とながめ、
自室に「たれこもる」。
かならずしも「瞬間」はやって来ず、かわりに「滅形」が訪れる。
この語は、そもそも梶井基次郎が使ったものだった(冬の日)。


彼は電車を待っていた。家へ帰ろうか賑やかな街へ出ようか。迷っていた。そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。
現前する意志を喪った風景。or should I?

  +



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コメント

わー、この記事、いいですね。
永遠に読んでいたくなります。
危ない、危ない。
overQさんの無限ループにはまるところだった(・∀・;)
一見、ばらばらの記事に見えるけれど、全部、つながっているような。
>世界は、読めない文字で書かれた、一冊の本…だとしたら。
今、読んでいる筒井康隆の『小説のゆくえ』にも同じようなことが書いてありました!
ドーキンスのいうミームの概念として
「過去現在に及ぶ多数の作家は、みんなで寄ってたかって
ただ一冊の本を書き続けているだけなのだ」と。
>「瞬間」がやって来る。
これは大悟のようなものでしょうか?
(京極の『鉄鼠の檻』を読んだばかりなもので…笑)
>豊かすぎると選択肢が多すぎて、目移りしてしまう
ホントですね!
現代人に必要なのは、あえて選択肢を狭めることかもしれませぬ。

Posted by: LIN : April 11, 2006 11:25 AM

この文章、最初はもうちょっと長くて、技術系の話もいろいろ書いてたんですが、
あまり長いので端折ったら、断片的になっちゃいました(;・∀・)

「世界は一冊の本」という考えはかなり昔からあり、
たとえばアラビアンナイトでは、
病気の王様のもとに呼ばれた配下のものが、
その部屋の巨大なカーペットに、
王様の人生すべて、世界の出来事すべてが描かれているのを発見し、
自分が今、王様のもとでカーペットの謎を見つけた姿さえ描かれているのを見出します。
(この話を読んだ記憶があるのですが、もう一度読みたいと思って探してるのに、見つからないw)

逆に、本の中に世界のすべてを取り込もうとする試みもたくさんあり、
マラルメはそんな本を夢想し、ジョイスはフィネガンズ・ウェイクでそれを実現しようとします。

ボルヘスはこの話のプロで(笑)、
アレフという短篇や、「続・審問」という評論集で、この問題のいろんな側面を考察しています。

Posted by: Site icon overQ : April 12, 2006 7:33 PM

豊かすぎて選択肢が多すぎるのって
実は不幸なことじゃないかなって思うようになりました。
選択肢がたくさんあるのは、自由のように見えて
実はとても不自由ですよね。
ある程度限られた選択肢の方が、却って自分の望むものが
はっきり見えてきたりするし…
とは言っても、私がたくさんの選択肢に迷うのは
本ぐらいのものなんですが。(笑)
でも、これだけはどうも煩悩が捨てきれません〜。(笑)
先日、恵文社の書架を眺めていた時に
いくら頑張っても、読みたい本を読みつくすことは
できないんだなあ、ってしみじみと思ってしまいましたよ。
人生限られた時間の中で、あとどれだけ読めるのかしら!

元々の私は同じ本を文章を覚えこむまでしつこく読むタチなのに
サイトを始めてから、なかなか再読しなくなっちゃったのも
情報過多の1つの不幸かと…
まあ、そのうち再読モードが巡ってくると思うので
今は新しい情報を集める時期だと思ってるんですけどね。
…老後の楽しみを蓄積中です。(笑)

Posted by: Site icon 四季 : April 12, 2006 9:41 PM

情報格差、なんてよく言われますが、実際には、情報が少ないからって、
いちがいに「不幸」とは言えないんでしょうね。
そう思ってしまうのも、まさに情報過多で、
ものすごい勢いでいろんなものが出てくる回転寿司みたいなもの(笑)
いろいろ食べてみるけれど、ほんとには味わうことができてないのかもしれない。

ボルヘスは、案外、目が見えなくなってから、幸福そうなところがあります。
目が見えると、無限に新刊や流行を追いかけて本を読むことになるけど(大江健三郎さんはそんな人生だったと思いますw)、
彼は盲目になることで、好きな本だけ繰り返し、それも心の本棚で読み続ける、という幸福を得た。

そういえば、大江さんのいちばん新しい(最後の?)小説は、「さようなら、私の本よ!」。
ナボコフの作品からとられた題名だそうです。

Posted by: Site icon overQ : April 14, 2006 7:25 PM
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