春の味覚。
新子をいただきました。
新子って、小女子のちっちゃいやつ(らしい)。
小女子。
これはなかなか難読。
「あの言葉」を思ってしまうシモネータな方も多いかと。
まさかそうではないだろう、いややっぱりそうなのか…
と春めいた妄想が駆けめぐります。
小女子はもうちょっと大きくなると、なんと奥さん、玉筋魚になるんですよ。
小女子、玉筋魚。
…春ですね。
正しい読み方は、小女子はコウナゴ、玉筋魚はイカナゴ。
お○こじゃないし、玉袋筋太郎でもないのです。
茨城方面では、ズブドウシというらしいですが(笑)
+
春といえば、万葉の時代から下ネタの季節(;・∀・)
木に春と書いて、椿。
ツ・バ・キ。
ツバキは、海石榴とも書く。うみざくろ。
海石榴市(つばいち、つばきち…バツイチじゃないよ)は歌垣で有名な場所。
「市」というからには、見知らぬ善男善女がたくさん集まる八十の巷(ちまた)。
春の物産の取引もされたでしょうか。春を売る、というと別な意味になるニホンゴ、ムズカシーデス。
そして、はなやかな歌垣のお祭り。市のそばには、ツバキも花開く。
中国で「椿」の字が用いられる花は、日本で言うツバキとはちがうらしいです。
大昔の日本人にとっては、春の木といえば、ツバキだったということでしょうか。
楽しい歌垣と結びつく花。
海石榴市の八十の街(ちまた)に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも 巻12・2951
結びし紐を解くのが惜しい…ですってよ、奥さん。
出し惜しみして、わざと気を引いてるのです。
アンタも好きネ、チョットダケヨ。
昭和の時代のストリップみたいです(笑…あるいはアメノウズメ)
+
歌垣の「垣」って、たとえば人垣のことかもしれない。
人垣を作って、恋路の邪魔をして、気持ちをあおる、ゲーム性のあるお祭り。
集団で体を使っておこなう、恋の空騒ぎ、ねるとん(死語)、花いちもんめ。
「あのコが欲しい」といっても、それだけじゃダメ。
「あのコじゃわからん」と、わかっているのに、つっぱねる。
恋の駆け引き。
「立ち平し」は横に立ち並んで、垣を作った感じじゃないでしょうか。
(立ち平し=立平之は難読。意味わからんです。1808が類歌。垂直の「立つ」と水平な「ひら」)
海石榴市は武烈紀にもでてきます。
影媛をめぐる天皇と鮪の臣の争いの物語。
次々に歌の掛け合いがなされる(歌垣の掛きは、カガイの掛きでもある)。
書紀では歴史的な出来事として書かれているけど、
もともとは歌垣の駆け引き、歌いあいで使う、あおり歌が、
ベースになってるのかとも。
垣を作って囲い込み、恋路をさまたげてみる。
「そんなに言うのなら、私を奪ってごらんなさい」
すると、「そんな垣なんてすぐ破ってやるよ」という歌の掛け合い。
武烈は傲慢を象徴する存在のように、書紀で描かれています。
+
古代歌謡の碩学・土橋寛博士は、「予祝」という語を使っています。
予祝。あらかじめ祝う。
豊かで幸福な実りの時が来るように、あらかじめ祝う。
春、恋の空騒ぎをすることは、たんに自分のためではない。
この世界が春を迎え、実り豊かなときを結ぶため、不可欠な祝祭。
ネイティブ・アメリカンは、自分たちの祭りが、この世界を存続させていると信じていたと言います。
世界の繁栄のためにおこなう、お☆こ(´▽`)
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山衣を干すのは、脱いだから…でしょう。
この歌(巻1・28)は、何が詠まれているかは明白なのに、なぜそんなことを詠むのかわからないw
たんに洗濯物を干しているのではない…はず。
白栲(白妙)の衣ってなんなのだろう。
「衣乾有」という表記。「衣が乾いてしまっている」と読めないだろうか。
春のあの日。二人で愛し合った…衣を木の枝にかけて。
夏。遠い春。乾いてしまった衣。濡れていた、というのに(強引な斬新な解釈。史上初? →巻12・2846)。
+
命の 全(また)けむ人はヤマトタケルの国思歌(記・31)。
たたみこも 平群(へぐり)の山の
熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
好々爺(エロじじい、と読む)が媒介する恋。
というか、若者に、もっと励みなさいと、指導する歌(;・∀・)
この主題は、竹取の翁、花いちもんめ、また花咲か爺へと、変奏されていきます。
かぐわしく輝く姫は、春山の秘められた花。
花は植物の生殖器でもある。
ねるさんが、たいへん美しくも妖しい局部接写の写真を撮っておられました(上のお写真)。
モザイクなしで大丈夫なのか(;・∀・)
チューリップの黄色い花心。
永遠の薔薇の黄色い芯の中へ。ダンテ「神曲」天国30歌。
たたなずく花弁の中心、かぐわしく輝く
太陽をたたえ、末広がりに香る、花心へと。Nel giallo(黄色) de la rosa(薔薇) sempiterna(永遠),
che si digrada e dilata e redole(末広がり、広がり、香る dの連呼)
odor di lode(讃える) al sol(太陽) che sempre(永遠) verna(春、青春),Into the yellow of the Rose Eternal
That spreads, and multiplies, and breathes an odour
Of praise unto the ever-vernal Sun
薔薇の形の人の垣。歌垣のよう。キリスト教的歌垣。
花の中心は黄色く、太陽のように温かく、芳しい場所…永遠の春だそうですよ、奥さん。
シモネーターとしてはここに、お☆こを見ずにはおれますまい(* ^ー゚)
元祖シモネータ、フロイト先生はきっと同意してくれるでしょう。
天国で、ダンテに対してたいへんつれないベアトリーチェですが、
歌垣の祭りのように、それは思いをそそる駆け引きなのかもしれない。
+
というわけで、小女子をめぐって、春めいた妄想を書き綴ってみました。
ニシン来たかとカモメに問えば〜♪ ソーラン節
いかなごにまづ箸おろし母恋し 虚子
[発展学習(笑)―八十の巷]
海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(巻12・2951)
結びし紐は、誰かと約束を結んで、締めた紐かもしれない。
他国に結婚(よばひ)に行きて大刀が緒もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける(巻12・2906)人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き(巻12・2851)
海石榴市の出てくる他の歌は、
紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ(巻12・3101)
これは、次につづく歌と対らしい。
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(巻12・3102)
八十の巷。やちまた。八街。
橘の蔭踏む道の八衢(やちまた)に物をぞ思ふ妹に逢はずして(巻2・125)
武烈紀では、天皇と鮪の臣が争う女の名が、影媛。
上の歌では、「橘の陰」を踏む。
カゲは、古代では、生命力・霊力をあらわすという土橋寛の論文あり。
歌垣で争われるものは、命の力。
歌垣がおこなわれもする、「市」という場所。
見知らぬ人が集う八街。虹の立つ場所。
そこに立つ木は、ツバキであれタチバナであれ、霊木のようなものかもしれない。
東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり(巻3・310)
また、八十(ヤソ)の道股(チマタ)は、夕暮れの薄闇のもと、辻占をおこなう場所でもある。
名を問う、という意味でも、場所においても、歌垣と辻占は、似たり寄ったりのものか。
言霊の八十の街に夕占問ふ占まさに告る妹は相寄らむ(巻11・2506)
■万葉集検索システム…万葉の歌をすべて暗誦できたかもしれない折口信夫。そんな彼にさえ難しいくらいの引用を、以上の記事でおこなえたかもしれない。それは、この「外部記憶」のお蔭。すごいです。万葉集って、まだ誰もほんとは読めてないと思います。フィネガンズ・ウェイクの1000倍は難読。
こんなにたくさんの内容が一つの記事に収まってるのが信じられない。
小女子、玉筋魚。日本人ですがわかりませんでした。orz
人は馴染み深いものに名前をつけるということで
日本人は魚のネーミングにかけては世界一ではないかと。
これが欧州に来ると、四本足の家畜にやたらとうるさいですよね。
牛など、日本語では「牛」に雌、雄、仔、去勢、繁殖などの言葉をつけますが
イタ語ではそれぞれ固有名詞がありややこしいです。覚えるの大変(^^ゞ。
春。寒さが去り、衣を脱ぎたくなる、開放感に満ち溢れる、
思えば当然のことなのですね。今は暖房やら便利なものがあるから
そこまで激しく感じられないのでしょうか。
うろ覚えなんですが、こちらの中世期の暦にも、春に若い男女が
森に忍び込む情景が描かれていたと聞きました。詳しいこと思い出したら記事にします。
はあ、それにしても神曲読まなくては。天国篇ではかなり高揚してますね(無知丸出し)。
イタリア語は同じ音の繰り返しを忌み避けるのですが、ダンテの頃は
まだそうでもなかったのかなとこの節を読んで思いました。ここに写真使ってもらえて嬉しいです。
「nel」あってます〜。in+il(フラ語のleに該当)の複合形です。
ねるさん、こんばんは。
フランス語の勉強はそこそこで切り上げて、イタリア語をやりたいなと思い始めています(笑)
「神曲」が面白いです。
読むだけなら、会話とちがって、
行ったり来たりしながら、じっくり「解読」すればいいので、
何とかなるかなという気がしてきましたヽ(´ー`)ノ
「神曲」イタリア語をみて思ったのは、韻を踏む、ということ。
韻を踏む、というのが詩の基本だとは知ってたけど、
「神曲」をみて、ほんとの意味がわかってきた気がします。
今のイタリア語で、同じ音の繰り返しを避ける傾向があるのは、面白いですね。
「神曲」は、イタリアの国語の形成に強く影響してると思えるので、
ひょっとすると「神曲」への反発もあるのでしょうか。
「神曲」の韻、同音反復、少しずつの差異化は、
その上にメタファーや、読み替えを展開してて、
文学的に非常に面白いです。
音とイメージのシンクロが、
シェイクスピアよりすごいかもしれないです。
overQさんすごい。読みごたえありまくりです。
下ネタこそ古代の学問ですね。って読ませてもらって思っちゃいました。それにこの時代「媾わう」事は、大らかで堂々としてる感じがしますね。
ねるさんのオキーフもこちらで、また違った表情を発してます〜(^^ゞ
望郷のヤマトタケルの歌「命の全けむ人〜」
ここ、切なくていいとこですねー。もう大和へ生きて帰れないと思った彼が、「無事帰った人は、平群の山の熊白檮を髪に飾っていつまでも楽しく生きてくれ」っていう・・言葉のリズムも素晴らしいです。日本語、美しいですね。
ワルツさん、こんばんは。
万葉集は、下ネタを想定すると、すごく面白く読めますね。
裳裾が濡れる、という表現もよく出てきます(;・∀・)
春が来て、作物が実ったり、動物が狩猟できたりするのと、
自分たちが恋することとは同じ現象の一部だと、
深く信じていたんだと思います。
だから、愛し合わないと、世界に春は来ない(笑)
ヤマトタケルの国思歌は、たぶんもともとは歌垣で使う歌で、
それを「引用」してみせたところに、古事記の独特のセンスがあるようにも思えます。
シリアスな映画の感動的なシーンに、あえて70年代の歌謡曲を使ってみせるような感じかも。