映画監督・今村昌平が亡くなる。
追悼インタビューで、市原悦子さんがちょっと面白いことを言ってました。
「それらしい演技をすると、とても叱られた」と。
また、緒方拳は、映画「楢山節考」でのこんなようなエピソードを。
「ロケの最初の日、カントクは、今日はすることがないので、最後のシーンから撮ると言った。はじめてなので、どんな表情をしていいかわからないと言うと、カントク、「俺もわからないから、ぼーっと立ってろ」と。ぼーと立っていたそのラストシーン、映画が完成してみると、いちばんいい演技になっていた」
+
それらしさ。
深く考えない時は、よくわかっているようなのに、考えはじめると、とたんにわからなくなる、それらしさ。
マンガではよく、それらしいキャラクターが登場します。
メガネをかけていれば運動がダメとか、金持ちの子はキザとか、太っていれば乱暴者とか。
名探偵コナンでは、いかにもそれらしい、お金持ちや芸術家、美女、若者、芸能人などが登場します。
じつはマンガ的それらしさがトリックになってて、それらしくない犯人を紛れ込ませるのに活用される。
マンガの表現で、それらしさがよく使われるのは、マンガがすごい連載状況で、考える間もなく、どんどん書かれていることと、ひとつには関係ある(マンガの記号性へと発展するべき話なんだけど、今はそっちへ行かない)。
+
逆に、それらしさがないのは、ブンガク系か。
むしろ、それらしさを丁重にお断りすることで、リアルをつむぐ試み。
カフカの小説には、まるでそれらしさがなく、そのこと自体が「それらしさ」であるほど。
いわく「カフカ的」。大きな英語の辞書には、カフカレスクという語が載っているものもあるほど。
+
マンガの「それらしさ」。
それはもっと激烈な表現にまでいたる。
それらしさを極限まで追究することで、まったくそれらしくなくなってしまうのです。
たとえば、「巨人の星」から「アストロ球団」、あるいは「キャプテン翼」でもいい、スポーツマンガの系譜。
もしくは、古典的少女漫画のきらびやか、高校生なのにお蝶夫人よばわり、目玉の大きさときらめきの誇張。
スポーツらしさ、野球らしさ、男らしさ。少女らしさ、金持ちらしさ。美しさ。
それらしさを愚直に徹底し誇張しぬいた結果、底が抜けて、あらぬ方向に暴走。
ここには、何がしかの洗練があるのではないかと、錯覚するほど。
さらに驚くべきことには、そのような暴走を真に受けることで、運動神経が刺激されて、スポーツの新たなエポックが現実化した可能性があることは、少し前の記事で書いたこと。
+
シロウトは、それらしさが何か知っている。知っているつもりでいる。
クラスの噂では、芸能人になりそうな人、金持ちになりそうな人、プロレスラーになりそうな人、犯罪者になりそうな人…など、それらしさを言い当てることができる。
ただ、ほとんど偏見であるかもしれない。
プロというのは、案外、それらしくないもの。
それらしさは、何も知らないときに漠然とイメージしたものであり、事の実情を詳しく知ってみると、なかなかそんなものではないから、と思う。
+
「夢を実現する」というのは、それらしさの追求。でも、どこかマンガじみたりもする。職業マンガというジャンルも、強力に存在するし。それは、星飛雄馬を目指して、野球選手になるようなものなのか。野球の選手のような、比較的、達成前の「らしさ」イメージと実際のあいだのギャップが少なそうなものでも、やっぱり本当にプロになってみれば、ずいぶん思っていたものと違いはしないだろうか。
シロウトのとき持っていた「純粋な眼」が消えたのか。
それとも、それらしさはやっぱり「それ」そのものとはちがっていて、
事実を知らないことで可能だった幻にすぎなかったか。
ただ、夢と現実が違っていたことは、悪いことばかりではないと、「プロ」は思う(といって、よいことばかりでもないのだけれど。Boy, You're going to carry that weight.)。
+
では、何を目標にすればいいのよ(笑)
「夢」が、それらしさの気分にすぎなくて、実現してみると、別なものになるというのに。
約束の地はどこ。
それこそ、カフカ的主題。
「自分らしく」なる代わり、主人公は自分でも気に留めぬ毒虫になり、「理想を実現」する代わり、城は見えていても行き着けない。
どこ、どこ、どこもだよ。nowhere is now here。
+
役者は、演じる。
それ自体ではない。
そのため、それらしさの問題に、始終、直面する。
それらしく演じないなら、じゃあ、何をどう演じればよい?
本物のパン屋さんが、パン屋を演じても、パン屋のように見えないだろう。
ところが、俳優の演じるパン屋は、パン屋のようである。
それで。
それで…いいの?
「パン屋らしさ」。
パン屋のイデアはどこ?
劇や映画という作品の構造から、「らしさ」はつむがれる幻のリアリティなのだろうか。
見る側の未熟な知識のせいで、事実とは違う「らしさ」が生じるのか。
だから、この問題は、考えると、とたんに、わからなくなる、とすでに言ったじゃない。
映画やテレビの現場でも、漫画家の仕事場でも、時間は常に足りず、考えている暇などない。
「らしさ」が生まれる場所。
この爆発的速度のもたらす天才性は、しかしあなどれない。でも、その「天才性」は、錯覚かもしれない。
「らしさ」を少しくらいはずさないと、客は変化を感じることができないから。息苦しいベタだと、面白がってくれない。
しかし、どこまでも「らしさ」をはずし、それとは別なリアリティ、本当のリアルを追求し続けて、皮をむいていった先に、果たして芯には「真実」が残るのだろうか?
少なくとも、客は百代の過客にして、ついてくることを、拒む。
+
まあ、作り話の時はそれでもいい、と。
でも、ニュースとか、事実を報道する時にも、同じ現象が起きる。
事件は物語化され、悪や善が巧妙に配置され、キャラクターは「らしさ」を発揮する。
そして、それらの時系列の変遷が起承転結を生む。
まさかあの人がそんなことを。
今週も、××は不幸だったよ、泣けた、よかった。
ただ、なかなか、めでたしめでたし、とはいかないけれど。
+
自分のよく知ってる場所(学校とか、仕事してる業界とか)で、新聞やニュースに取り上げられる大事件が起きたとき。
報道は、なんと間違いが多いだろう、と感じる。
思い込みと気分、「らしさ」によって、真実じゃないものが堂々と伝えられているわ、と。
正してやりたい、ほんとのこと、声にしたいという思いにとりつかれ、キーッとなる。
でも、大きな事件の場合、まずは速報性が、第一。
速度と「らしさ」は一体のもの。考えこめば、それらしさは失われる。真実は、速度の中では、「らしさ」に負ける。
真実は、無数の細々とした事実の、適切な組み合わせからなり、七面倒くさい。
いちばんインパクトを持っていて、人々の脳裏に刻まれるのは、「らしさ」。それらしさ。
外部記憶じゃなく、メモリに展開されて、すぐ取り出せて、すぐ伝えられる。
時間のない部外者は、「らしさ」を案内人として、情報=事実にアプローチするしかない。
みのや古館のような人が伝えていることも、中の(事情をよく知る)人には、「なんだかなー」な気持ちを抱かせがちかしら。
彼らはそれらしさを速度を持って、過剰にエキサイトしてみせる訓練を受けた人たちだとみなされているから(それも「らしさ」だけどさ。みのらしさ、古館らしさ)。
+
けれど、ジャーナリストは、しつこく徹底的に取材・調査するうち、だんだんいろんなことを理解してくる。
長期にわたる取材では、全体像を知っている分、「当事者」などより、よほど真実に近づくことも多いはず。
しかし、しつこいのは、調査ではなく、コトバ、表現のバリエーションかもしれない。
そんなこと、思う頃には、「らしさ」は消えている。事実のもつ天網恢恢な構成に気づき始めてもいる。
しかし、もう速報性はまるでなし。
大多数の人は、遅れてやってくる、七面倒なコトバの羅列に興味を抱くことができないだろう。事実にどれほどの価値があるというのか。オレにあらゆることの専門家になれとでも言うのかい。
…伝えるべき言葉は伝わらない。が、疎にして漏らさずという語もある。
+
それらしさ。
見かけはわかりやすいけど、ほんとはとても厄介で、手に負えないものらしい。
誰にもわかるのに、誰もわかってない。
ブログでは、短くインパクトのある言葉を書くのがいい、と誰もが経験的に知っている。
論証ではなく、ポイントを示すこと。
情報の構成をわかりやすく。
つかみ所をはっきり。
どんどんスクロールできて。
マンガの吹き出しみたいに、字の大きさや色でも、気持ちを伝えましょう。
顔文字もアリだよ(^^♪
「らしさ」がここでも機能する。
それらしく書くこと。それがポイント。
はずすとしても、1段階か、1.5。
でも、書こうとしていることは、じつはまったくそれらしくないものであったら。
つかみどころがなく、論証と長文を要求し、全体の構成もしどろもどろにしか描けないとしたら。
いわく言い難いものであったとしたら。
それが、
アナタに伝えたい、
こと。
何にも似ておらず、なにらしくもなく、ただ、「それ」自身であるもの。
現実って、そんな、いわく言いがたい姿をしてないだろうか?
それが、どーでもいーよーな、取るに足らない事実なら、よかったのだけれど。
でも、大切な事実、伝えたい事実が、そんな姿をしていたら、どうしよう?
「情報」化社会の中では、命を与えられない、小さきもの。
ところが、この世界で起きるたいていのことは、それらしくないんだ。
近所のゴミ屋敷の婆さんの死でさえ、それらしくない。
死は詩のような言葉でしか表せない。
ただ、「それ」自体。
この世界は、ちっとも「それらしく」ない。
でも、みんな、そのことを、本当は知っている…はずだ。
+
かくして、市原悦子の表情は、いつも当惑をはらんでいる。
彼女演じる家政婦は何かを見てしまったらしい。それは「らしさ」をもたない、いわくいいがたいもの。
こんなとき、どんな顔をすべきなんだろ、私。
役所広司にいたっては、じつはいかなる場面でも同じ表情であり、いつもただ戸惑っているだけであるかもしれない。
立ってるだけで絵になるのか、たんに突っ立ってるだけなのか。
それはそれ。それはそれ。それらしく、は、ない。それは。それ。同語反復としての、演技。
緒方拳は当惑を通り越して、もうただニヤケているだけ。
人を殺すときも、人を殺された時も、まずニヤケてみる。
ほかにどんな表情がある?
そういえば、息子の直人は、最近ナレーションでよく拝見するけれど、彼は棒読みする。それはすごいものだと、この頃思っています。
今村昌平の映画から来た俳優たち。
答えではなく問いかけ。自信より当惑が主成分。
今村昌平は、「うなぎ」を題名にすることに固執するような人間であった。
あの、「つかみどころがない」という表現のための比喩となり、黒くぬめぬめとした、どこから来てるかもしれないのに、ごくごく身近で卑近な、うなぎ。
見た目はキモカワいいけど、食べると精がつくという、うなぎ。
あー、なんだか、うなぎ、食いたくなったです。
…というか、この記事が、ウナギ状態か(;・∀・)
何を書こうとしてるのか、自分でもよくわからん、いや、よくわかってるだろうか…それすら、よくわかりませヌ。。スマソ。
ぼーっと立っている、それらしさ。
わかるようなわからないような。
カンヌでふと思いだし、「うなぎ」一昨日みたばかりでした。
またひとつ日本の貴重な財産をなくしてしまったのだなぁ〜と。残念です。
友人と、「生きているうちが、花だね〜」「華なのかな〜」「いや、花のがこの場合、にあうかも」なんて会話をしました。
“花”のが、それらしさが強いような感じがします。よね?
文学はずっと、“それらしく”ならぬように書かれてきたはずなのに
ここにきて売れるのは“それらしい”小説ばかり。
いわゆる“ベタ”な小説。
作家は「そんなのイヤだー」と抵抗もせず
むしろ嬉々としてベタな作品を書いている。
人間の感情が単純化すると、短絡的な殺人が増えるんじゃないかと
私などは思うのですが…
フラン研でおっしゃってた「不気味の谷」現象の
気持ち悪さ。
本物じゃなくて、ちょっと手前の“本物っぽい”ニセモノ。
でもそれが気持ちいい人もたくさんいるわけで
たとえばディズニーランドが好きな人たちなんか
そうなのでしょうか。
本物のお城じゃときめかなくて、ニセモノのシンデレラ城にときめく。
そうじゃなくて“それらしくない”方が快感という人たちは
普通の人より感度がよくて、ちょっと変態なのかもしれない。
overQさんやpicoさんや私のようにね(笑)
”らしさ”でありたいから、金太郎飴になりつつある現代社会。
先日、従妹が娘(年長さん)のお友達は、みな同じモノを持ちたがると、話していました。
幼稚園園児”らしさ”でいるための必須アイテムがあるようです。
ディズニーランドは一度しか行った事がありません(^_^;
同じ匂いがします。ここは(笑)
こんばんは。
私は『未来少年コナン』は大好きですが、『名探偵−』のほうは大嫌いなので、
同作品のなかの「らしさ」もまた大嫌いです。
「らしさ」というと、すぐに頭に浮かぶのが大友克洋といしいひさいちのマンガ作品です。
いずれも、リアリティという意味では「らしさ」が随所にちりばめられていると思います。
逆に、森茉莉の耽美小説は、あまりにも類型的な「らしさ」で、ちょっといただけません。
★picoさん。
「うなぎ」というのは、題名がなんだかすごいです。
今村昌平は続篇「うな重」を企画してたそうです(嘘
「生きてるうちが花」。
「花の命は短くて…」という歌もありますね。
「童は見たり、野中の薔薇」という詩もあり、向田邦子は、「野中」を「夜中」とまちがえていて…という小説もあります。
夜中だと、薔薇は、死体の比喩ような気もします(笑)
★LINさん。
「らしさ」。
この話は、ぱっと見は簡単そうなのに、よく考えると、どんどん訳がわからなくなります(;・∀・)
この記事では書かなかったけど、もうひとつの観点があり。
本を買って読む立場ではなくて、
売る側の立場に立つと、また様相が変わってきます。
自分ではつまらないとか、興味ないとか、知らない、わからないと思ってる本も、
本屋さんとしては当然売る必要がある。
すると、「らしさ」にたよって、売ることになる。
自分で見きわめた価値ではなくて、お客さんのいう価値にあわせないと、商売にならないから。
その段階では、まだ、少なくともお客さんが最終的には価値判断をしています。
「らしさ」を超えて、価値を吟味しようとしている。
ところが、誰も買う立場・読む立場に立たず、
買うとしても「より高く売る」ために買うとしたら。
全員が「売る立場」に立つとしたら。
実際、投資の世界ではそのようになるし、ビジネスの世界で大きいマネーが動く場所は、そのようになっています。
たぶん、これがあまりに拡大しすぎている。
どのような場所でも、「売る立場」ばかりになってしまってる。
王様が裸でもかまわないという風潮が蔓延してるものと考えられます。
中身が何かは問わない。「それらし」かったら
、それでいい。
ただ、この問題は、「価値」をどのように見出すか、に関わっていて、
理論的な形では決着がつかず、生きることの中で答えを作るしかないのですが。。
★美結さん。
らしさ。
チンパンジーの群れを観察していると、木の実の割り方でも、流行があるそうです。
一匹のサルが、石を上から落として割るやり方を見つけると、それがブームになる。
しばらくして、別のサルが、石にはさんで割るやり方を見つけると、他のサルも真似をしだす(笑)
どうやら「らしさ」を見つけようとするのは、霊長類のサガみたいです。
この習性のおかげで、たぶん大きい群れを作ることも出来るし、
細々とした「問題」に日々さいなまれるのかもしれません(ため息
★多摩のいずみさん。
最近の若い人には、コナンといえば、名探偵のほうみたいです( ;∀;)
「らしさ」の話は、深く考えない時は、よくわかった気持ちでいるのに、
考え出すと、ぜんぜんわからなくなってくるのが、不思議です。
脇役で何の気なしに「それらしい」キャラクターを作るのはカンタンなのに、
じゃあ、完全に「それらしい」ヒーローや極悪人、悪女や聖者を書こうとすると、
とたんに難しくなる。
完璧に「それらしい」というのは、いったいどういうものか、
じつは全然わかってないことに気づいてくる。
これはなんとも不思議なことです。
逆に、「それらしさ」を完全に回避しようとすると、
今度は一言も書けなくなる(笑)
この記事も書きながら、ここで扱われている市原悦子やコナンもまた、「それらしさ」であって、「それ自身」ではないなと思ってきたりしました。
危険な考えです(;・∀・)
それを考えこむと、もう一言も書けなくなりそう。
一般論的には解決できなくて、実践を通じて、答えていくしかない問題のようです。
Posted by: