★猫道、猫町
ノラ猫写真を撮ろうと思って、ノラさんのあとをついていくことの困難および危険について、前に書いたことがあります。
ネコの動向を目で追うだけでもそれとわかるのですが、
どうやらネコの人たちの考える縄張りは、人間や犬のとはまったくちがってるようです。
だから、あとをついていくと、他人の家に不法侵入したり、犬に吼えまくられたり、人間にとっては境界線である「塀」というものを、道として利用したりするハメになります。
ニンゲンが思い込んでいるのとは、べつな世界があり、
べつな国境、
べつな道、
べつな所有がある。
それも、たんに境界線のひきかたがちがう、というようなものではない。
もっと根っこから「べつな」原理にしたがっているようなのです。

聞くところによると、犬は、わりと人間に近いらしい。ワンワンワン。バウウウ。
縄張り。ワンダルシアの国。
電柱の匂いを嗅いで、自分のおしっこをかける。
人間と同じで、縄張りは平面的な広がりとしてあらわされる。
まさに縄を張って陣地をぐるっと取り囲むように、テリトリーを形成するんだわん。
何人たりとも犯してはならぬ、不可触のおらの領域。ATフィールド。バウバウバウ。ワンダフル。

ところが、猫はちがうんだといいますにゃ。
猫の国ニャンダルシアの形は、平面的な領域ではにゃいと。
線であらわされるのだよ。
折れ曲がり、交錯する線。
つまり、道。
自分のルートがある。それぞれの猫に、マイ・ニャオン・ロード。ニャンダフル。
+
むろん、そられの猫道、いろんな猫どうしの道が交錯する場所もある。
交差点、分岐点。
四辻、八辻、ちまた。八十のちまた。
猫のお見合い。集会所。
そうしたインターセクションでは、猫はそれぞれ、慎重になる。
市が立つ場所であり、恋人と敵ができる場所。
人生の方向が折れ曲がり、新しい猫道へと通じていく地点。
選択の現場であり、そこで選んだ分岐にしたがって、自分の道は伸びていく。
あるいは途絶する。
猫にあるのは道だけ。
広がりじゃなく、線。
縄張りじゃなく、道。
だから人間が築いた塀や壁、
境界線や長城、
赤外線セキュリティシステムを、
そのようなものとしては理解しない。
ただ、道だと思って、その上を歩いていく。
テリトリーを侵されて、バウバウ吠え立てる犬を尻目に、トトトと塀の上をつたっていく姿を、誰もが眼にしたことがあるはず。
泥棒だと思って駆けつけた警備員は、塀の上であくびするデカい猫を目にする。
★旅人たち
阿耆尼。屈支。跋祿迦。赭時。颯秣建。弭秣賀。喝捍。捕喝。伐地。…
大唐西域記には、百数十の国が出てきます。
薩他泥湿伐羅(スターネーシヴァラ)国は周囲七千余里。国の大都城は周囲二十余里。
土地は肥沃、農業が盛ん。気候は暑く、風俗は人情に薄い。家々は富裕で、贅沢を競う。
幻術を非常によくし、特異な才能を尊重する。
利を追うものが多く、農に携わるもの少なし。
諸方の珍奇な品物が多くこの国に集まる。伽藍は三ヶ所。天祠は百余ヶ所。
異道、甚だ多し。
無数の見知らぬ国々。
このような無数の国々が、ジグソーパズルのように配置された地図を、人間は思うかにゃ。
適切な場所にはめ込めば、二度と移動できないピースとしての、国=家。我が家。祖国。home sweet home。
ところが、この世界、ほんとうはニンゲンさまの思うようなものではないかもしれない。
ほんとうは、猫道猫町の原理によって、構成された世界ではにゃいのか?
国は、「国=家」ではなく、道が交差する場所。
宿と市。
見知らぬ人々が集うチマタ。
旅人であり商人であり漂泊を生業とするもの。永久放浪者。
旅人に一夜の宿りをあたえ、安全と安寧、出会いと慰め、価値の交換変換、祭りと市がおこなわれる道の集いとしての、国々。
+
商人たちが落とす財と宝で、どの国にも伽藍があり、僧たちがいた…といいます。
結束点に集積する富は、ブッダや天、古い神々、のちにはアッラーに喜捨されたが(その御名に祝福あれ)、
それらの本質は無であり空であると、どの僧に訊ねても答えたものだ、と。
旅人たちもそのことはよく知っていたにちがいない。
なぜなら、ある国で富であるものが、別の国ではありふれたものであったり、その逆であったりすることが稀ではなかったから。
また、そうした価値のちがいを利用して、わらしべ長者のように、彼らは飢えることなく、旅を永遠に続けることができたから。
放浪者たちに祖国はなかった。
どこかの国で生まれたが、それは別な国でもありえた。
父と母は、肌の色が違い、話す言葉が違っていた。あがめる神の名も違い、ただ旅を住処とする点だけが同じであった。
向こうから来た男と、あちらから来た女が出会い、生まれた子。
だから、旅が、ふるさとだった。
母の舌。母国語。於母影。
旅人は、たくさんの言葉を、八十のチマタで聞いた。
どれとどれが別な言語かも忘れて、ただ日々の必要の中で、自らも語り、話し(放し)つづけた。words in , words out.
不思議なことに、名も知らぬ遠方から来た朋輩の言葉のうちに、母や父の言葉の於母影を聞き取ることがあった。
たぶん、父母のさらに父母、そのさらに父母…の言葉。
旅人は、空のように、大地のように、すべてを包む広大な母を、ふいに感じた。
そのものには無数の乳房があったから、どれをしゃぶってもよかったのだ。
+
いく先々に出会いがあり、別れがあった。
愛は、恋人たちが呼ぶ旅人の名前と同様、複数だった。
愛を意味する言葉、ささやき、肌のにおい、行為自体まで、それぞれの地で少しずつちがっていた。
渦に巻かれるように、旅人はその中心に引き寄せられていたのではないか。
多くの愛は、無や空と、きびすを接していた。
旅が続くかぎり、それは生きているということであった。
旅の終わり、旅人たちの死に場所には小さな塔が立つ。
それが百年すると伽藍になり、その場所に市が立って、祭りがおこなわれ、男と女が出会うのだった。。
★風の古道
このような「空想」が、どこまで史実なのかはわかりません。
玄奘が敬愛した、鳩摩羅什のような人は、いました。
異なる肌、異なる言葉をもつ父母から生まれ。
6歳で出家し。
さまざまな音と文字に変異する名を持ち。
その智の戦略的価値ゆえ多くの人々から狙われ。
見知らぬ言葉で書かれた経典を、敵だった国の見知らぬ言葉に訳し。
そのころには生まれた国は滅んでおり。
五十をすぎて女を知り、ゆえに破戒僧となり。
空。それは彼が生きる身。
「大唐西域記」は、なかば書物の中の旅。
人口・気候・産業・風俗といった国勢の記述と、仏典に記された伝説の記述が、ともに「この地であった」事実として、併記されます。
序では、この書物を「山海経」や「括地象図」に並ぶものとたたえる。
たぶん世界はまだ、今のようではなく、木の実からうまれる人間や、犬の頭をもつ人々の国が棲んでいたのだと思う。
恒川光太郎「夜市」「風の古道」。
ここにあらわれる、夜市や古道は、ニャオン・ロードと同じもの。
玄奘がとおった道であり、八戒や悟空の道。
空想と現実を同時につらぬいて、交通している。
猫道と同じで、ふつうの市街の裏側、家々が背を向けた場所に、隠さされた路地として、古道はある。
そこは神々の行き来する道であり、またべつな世界から持ち寄られた品々で、市が立つ場所。
作者・恒川光太郎が、もろもろの職業を経たあと、沖縄在住なのは、偶然ではない。
ふと先日逮捕された村上代表のことを思う。
レンに殺されるコモリのことを同時に思いつつ。
「風の古道」で、コモリは、この腐りきった世界を変えるため罪を犯す。
コモリはたぶん、いにしえの、神々の道に通じたマスターの末裔。
自分は罪を犯したとは本当は考えていない。
罪悪の概念を無化する古道に逃げ込むが、それは正義も無化するもの。
現実と空想が、境界を持たず、交錯する。
★世界よりも大きな本
パトリシア・ハイスミスの異様な名作「変身の恐怖」。
いわばドストエフスキー的な状況から出発するが、場所は北アフリカ、チュニジア。
アラビアンナイトの町の出来事。
殺しさえ、次の昼、目覚めてみれば、本当にあったことかなかったことか、もう曖昧。
「罪と罰」は、あまりにも強い太陽の日差しの中で、影を失う。
いや、小さく足もとと同じ大きさの影。
小さすぎる影。
その闇は、夜より、濃い。
離れることなく、つきまとう。人生の歩みと同じすばやさで。
主人公は、驚くべき結論に至るだろう。
道徳のくびきから自らを解き放つ。
ラスコーリニコフとは正反対のほうへ。マクベスのほうへ、といってもいいかもしれない。
あるいは、ドン・キホーテを経て、アラビアンナイトのほうへ。
アラビアンナイトという本があるのではなくて、
あたかもわれわれの世界がその書物の一部であるかのよう。
世界より大きい書物。無限の乳房を持つ書物。
ハイスミスは、この作品を、ポール・ボウルズとの関係の中で書いたらしい。
そう。そうなのか。
どうやって書いたか謎だったけれど、ボウルズに背を押されたから、堕ちた。
堕ちた、というのは、こちら側の言い方。
落ちた先は、重力のない空。シェルタリング・スカイ。
ボウルズは、みずからを流刑に処したように生きた。
カフカ「流刑地にて」で、犯罪者の肉体にその罪の刻印を刻む異様な機械が登場する。
その実行者であり犠牲となる将校。
機械の発明者の司令官。
そして行為をみつめる旅行者。
ボウルズは、その三者をかねたかのようだ。
年譜を読んでいると、その事実は確証できないのに、妻殺しのにおいがする。
しかし、刑は罪に先行している。
ボウルズは、映画「シェルタリング・スカイ」の原作者として、知られるようになった。
彼の妻は化け猫のような女だったといえようか。
愛は沙漠の太陽のように苛烈にすべてを奪う。
彼女はヒトでなくネコであったから、知っていたのだ。
アインシュタインの証明を待つまでもなく、世界はその外を考えることができないが故、完全にヒトを閉じ込める迷宮であることを。
ボウルズの作品には、罪から愛の匂いがたつ。その愛は恩寵でなく、空だと今思う。
彼は自分が観光客ではないと思っていた。彼は旅行者だった。その違いは、たとえば時間の違いだ、と考えてもみた。大概の観光客は数週間か数ヵ月もすると家路に急ぐものだが、旅行者はというと別段どこの場所にも属しておらず、ゆっくり動き、何年もかけて地上のある場所から別な場所へ移ってゆく。実際、彼はこれまで住んできた多くの場所のなかでそれが故郷だと正確に感じられるところがあるかといえば、とうていあるわけがないと答えるだろう。「天蓋の空」
[言い訳(汗)]
…と、ブログの常識に逆らって、だらだら長い文章に挑戦してみている、この頃です(;・∀・)
なんというか、魚を刺して獲るような仕方じゃなくて、見えない網でぼんやりかすめとるようにしないと、捉えられないものがあるのでは、と思い始めてて(エチゼンクラゲ式?)。
それがゴッソリ抜けてるのが、不快な気持ちも少しある。
「情報」をついばんでいく鳥じゃなくて、地を這う虫の風景。あるいはテレビに映らない場所。
それを実証してみたくて、長めであいまい、つかみ所ない文章を書いてみました。
これからも、長い文がちょくちょく登場します( ;´Д`)
でも…短い記事も混ぜていくべきだな(ボソ
あと、自分で長い文を書くと、人の書いた長い文章に忍耐力ができようになることを発見しました。同病相憐。。
こんばんは。UPされてから、何度も寄せてもらっているのですが、なかなか読みきれません。
犬と猫の世界の違いを図で説明して下さって、すごく面白かったです。「猫は、道」があるのですね。
「猫町」は、最初にpicoさんに教えてもらって読みましたが、萩原 朔太郎の文章とこの絵、色合いがなんとも言えず素晴らしいです。
「風の古道」、
コモリが村上説!が面白いです。
この物語の中で罪や悪を一身に背負ってるようなコモリですが、overQさんのように考えるとイメージがクリアになりますね。
ワルツさん、ありがとうございます。
この記事、長すぎて…申し訳ないです。。
しかも、内容も、じつは国家論なんです、難解です。
コモリ=村上代表説。
報道を見ると、この記事を書いた時点で思ってた以上に、村上代表はコモリです(´ヘ`;)
うそばっかりついてた人みたい。
「株主利益」とか「市場の公平化」とか、
じつは当人はまったく信じてなくて、
高値で売り抜けるための方便として、使ってたようです。
世界の中心であからさまに嘘をつくと、やっぱり人はだまされてしまうものなんですね。
和風ホラー、ちょっとブームの兆しですね。
いちばんのおおもとは、「ぼっけえ、きょうてえ」じゃないかと思います。
インプリントという題名で、最近映画化されました。
ホラー大賞受賞作の中で、ナンバーワンです。岩井志麻子です(笑)