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内面化された風景

written by overQ
June 15, 2006

1.日本映画のひそかな愉しみ

古い日本映画。
もともと好きでよく見るのだけれど、この頃はちょっと「ちがう愉しみ」を見つけています。

ちがう愉しみ。
なんというか、映画としての面白さ面白なさとは、べつに。
「トラック野郎」でも中島貞夫のチンピラ暴力映画でもガメラでもいい。(「でもいい」いうなw)
映画の背景に写ってる、昭和の町のすがた。
それに、はげしくノスタルジーを感じる。

ほこりっぽい道路を走る、むかし見たクルマ。
看板や道行く人々の服装。
木目調のテレビや、刺繍を着せられた黒電話。

吸い取られる感じさえします。
画面の端にひっそりと住みたい、というような。
でも、昭和を記録した映像じゃなくて、あくまで「背景」として、当たり前の顔で目立たず出てくる昭和に、しびれる。
作りこんだ映像じゃなく、むしろ写っちゃったような背景に、昭和を感じてしまう。


2.ALWAYS 三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲

昭和ブーム。
駄菓子屋が大人向けに作られたり、なつかしい昭和のオモチャが再販されたり…など、市場のトレンドとしても、もうかなり前から。拡大が続いてるようです。
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」や「ALWAYS 三丁目の夕日」など、戦後昭和を「主人公」にした作品もヒットしています。
ヒットしている、というような外面的な言い方より、「人々の胸に深く刻み込まれた」という広告の陳腐なはずの決まり文句が、なぜかぴったり来るようでさえある。

戦後の昭和に少年少女だった世代が、社会の責任的役割を受け持つ順番が来ている。
その世代の趣向が反映してのブームでもあるでしょう。
でも、聞くところでは、その時代を生きてない若い世代にも、アピールするものがあるらしい。

クレヨンしんちゃんでも、三丁目の夕日でも、そこに出てくる「昭和」は作られた昭和
「オトナ帝国」では、そもそもお話の設定が万博の「昭和」を再現した遊園地だし。
「ALWAYS」では、CGで再現された東京。 *1
原作も、あえて類型的に「それらしい」昭和を描き続ける確信犯。
実際にその時代を生きた人から見れば、「本当はそうじゃなかった」と指摘できる部分も多々あるし、それは作り手も意図したことのはず。

そして、それらしく作られたものとわかっていても、ヒロシやミサエがノスタルジーを禁じえないように、多くの人がそこに吸い寄せられる。
それどころか、「昭和」を知らない若い人まで、郷愁を感じる。

昭和の風景は内面化され、
誰にとっても懐かしい、
また誰にとっても外国のような、
ユートピア的な象徴性を獲得し始めている
のかもしれない。

たしかに、戦後昭和よりももっと前の日本、生まれていなかった戦前の明治・大正・昭和初期の写真や風景にも、やっぱり何か深く感じいる郷愁がある。

里山の前に広がる水田。
トンボが舞っている。
その上には巨大な入道雲。
竹馬に乗る着物を着た子ども。
少女はおかっぱ。少年は坊主頭。

そんなCMのような類型的な日本の風景。
実際に生活したおぼえはないのに…
それは作られた「らしさ」にすぎないとわかっているのに…
とめどない懐かしさを感じてしまう。

台風の日、田んぼをわたる風がごーごー鳴ったのをおぼえている。
六月の夜、寝床で耳を澄ませると、蛙のさざめきの奥に、森のふくろうのこもったオーボエが響いていたのも。
そんな体験をしたおぼえ、まるでないというのに。


3.草薙素子の場合

攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG 06

捏造された記憶…なのか。
われわれはレプリカントで。風景はシミュレーション。
実際、それはどこかCGで描いた世界に似ている。
懐かしさの裏側には、不気味さがそっと寄り添う。むしろ、だからこそ懐かしい。
夢と同じ物質で出来ている。いとわしく、いとおしい。陰翳、礼讃。

迷子

攻殻機動隊S.A.C.2で、草薙素子は昭和ふうの中華街(?)に迷い込んでしまう(11話「草迷宮」)。
そこには人々の思い出を保管する店があり、素子は長いあいだ思い出さずにいた自分の過去にめぐり合い、郷愁にとらわれ、困惑する。
2nd GIGの中でも心に残る回。とりわけ二度目に見直す時には、つらいほど哀切。

攻殻全体の設定からいけば、それは「作られた記憶」なのかもしれないのに。
「人間とも人形ともつかないもの」(フロイト「不気味なもの」)
ノスタルジーの象徴に、戦後昭和のアイテムが用いられているのが、特徴的です。
昭和は、人の内面を象徴化するアイテムとして、使われ始めている。
内面化された風景。心の風景となった、昭和。


4.病院、河童

小学生の時、いとこのお見舞いに、大きな病院に行ったことがあります。
○○ヶ丘という名の、むかしでいう里山に立てられた病院で、何回も増改築していて、迷路のような構造でした。
斜面に立ってるせいもあって、自分が何階にいるのか、わからなくなる建物。

お見舞いの途中、おしっこがしたくなった。ひとりで病室から出て、トイレを探すうち、迷った。
トイレは見つかったけれど、戻れなかった。
夏休みで、誰もいない廊下に、強い光が照りつけていた。滝の音がしていた。
窓からのぞくと、遠くに滝が見えて、滝つぼのあたりで、数人の子どもが遊んでいました。
それは、何年か前、元気だった時のいとこたち。
なぜかふんどしや坊主頭で、むかしの子どものよう。そして、その数人の中には河童も混じっていました。

私は自分でそれは幻覚だと思った。暑かった。水を飲まないといけないと思って、ほどばしる水道からごくごく水を飲んだ。
人心地つくと、ただのトイレ前の廊下で、窓の外には町の風景が広がり、滝の音の代わりに、蛇口の水が流れ落ちていた。

あの滝。
たぶん実在するのだと思います。そこに行けば、いとこは永遠の夏休みを遊んでいるのだろう。いつまでも、いつまでも。ALWAYS。
この世界のどこかにあるのではなく、心の中にある場所。
夢がやって来る場所のように、それは、心といっても、自分の心ではないようなのだけれど。
自在に行き来できる場所でもなく、勝手に思い描くこともできない場所。それ自身としてある場所。


5.蟲師

蟲師 其ノ壱

「蟲師」というマンガ。
アニメ化もされ、人気上昇中。
漆原友紀という山口県出身の女性が描いている作品(アフタヌーン連載中)。

「蟲」という、八百万の神のような繊細で、魔とも聖とも知れない存在が、そこはかとなく出てきます。
お話の展開は(絵柄じゃなく)、諸星大二郎風とでもいいましょうか。まあ妖怪ハンター的ストーリー。
蟲師ギンコは、稗田礼二郎というかモルダーというか山岡士郎というか、その系譜にある独身の影ある男。痩身。片目。白髪。鬼太郎。
彼が旅する、陰翳に富んだ「日本」で、エピソードが紡がれていく。

れんずばあちゃん

日本のむかしの風景が出てきます。
山々。
深い緑。
いしだたみ。
わらぶき屋根。
雪国。
橋を作ったり、刃物を研いだり、すずりを彫ったりする職人たち。
明治終りから昭和初期くらいの田舎の風景…という感じでしょうか。
(引用した絵は、第一話「緑の座」。森の奥にたたずむ、古い日本家屋。湿っぽく、薄暗い。淡く廊下から照り返す光、うつくし。木のにおいがする。少女はじつは…)

原作も素晴らしいのだけれど、アニメは背景がたいそう美しく、ふだんアニメを見ない方にもおすすめしたい傑作です。DVD三巻目あたりからは、驚くべき名作が粒ぞろい。
毎週のテレビ放送とは思えないクオリティの高さで、行ったことのなどないはずの場所が、どうしようもなく懐かしい。
初めて見聞きするお話なのに、自分が前からそれを知っていたような気がします。

風景は完全に内面化し、心の深い部分を象徴するものと化しています。
蟲は、ケルトの神々や妖精、ニッポンの八百万の神のように、心象と風景の区切りを消失した存在となっているかのよう。


5.いとわしく、いとおしいもの

Unheimliche(不気味さ)とは抑圧されたHeimliche(懐かしさ)の回帰。
フロイトが「不気味なもの」で論じたホラーの基本的な性質。
和風ホラーがちょっとブームです。いとわしくも、いとおしいもの。
湿っぽい、あの懐かしい日本。ほのかな不安と不気味さを、陰翳としてともなう郷愁。

穴。分泌物。ぬめり。蠢き。暗がり。湿り気。
…「蟲」が棲むのは、そんな場所。

フロイト論文が初めから用意している結論は、抑圧されたあと回帰した生殖器のイメージが、不気味=なつかしいものの正体、ということ。
しかし、それだけですべてを覆いつくせないことから、論文は右往左往し、科学の文章というより、ブンガクのそれに近づく。
結論を示すのではなく、フロイトの思考する足取り千鳥が、言葉となって刻印されていく。理論ではなく、言葉の曲折が、真理の感触をつたえる。

地図を作ることのできない謎めいた世界だから。ただ目印をそこここに記していくほかない。
みちしるべ。しるべ。知る部分。知りえるのは、わずかな部分。

蟲は、命の原初的な形らしい。
カビや細菌よりも、もっと原初。
生物というより、ほとんど「現象」に近い。
はじまりの、いのち。

これはフロイトのとらえる「現象」としての無意識に、ちょっと似ている。
「現象」は、人間が思う正義や悪とは隔絶した彼岸。自身のメカニズムにしたがって、たんたんと活動していく。
その探究者は言葉をたよりとする。フロイト。ギンコ。探偵。

探偵小説とホラーはもともと似たようなもの。実際、ホラーにも「探偵」がよく出てきます。言葉の人、探偵。ギンコ、稗田礼二郎、モルダー、ブラックジャック、山岡士郎(ホラー?)。
推理小説とちがうのは、「現象」の解明の中に不思議が残ってしまうこと。
解明しきれないだけでなく、解明がむしろ謎の謎たる正体を深めてしまう。

「探偵」は事象のすべてを見渡す神ではない。
本質的には不可解な世界の中で、なんとか渡りついで行くための道先案内。
自身が迷うガイドのような存在になって、右往左往し、言葉を残す。

「蟲師」が作品としてとてもすぐれているのは、謎の解明が、人生の淡さ=苦悩と結んでいること。
命ははかない炎で、それをなんとか風にさらさず、守って歩く。その苦悩と。
静かな世界に、ぽつりぽつり、余韻のある言葉が残されていきます。
心の風景と化した日本が、ふいに、現実に回帰してくる。

いとわしく、いとおしい。いとおしく、いたわしい。
それは現実。現実逃避…さえ、明確に現実の一部ということ。
現実に立ち向かっているはずの人がむしろ現実離れし、逃避してるはずの人が現実に直面し闘っているか知れない。
それは、いい訳めいた妄想なのだろうか。。

「蟲師」、2007年春、監督大友克洋・主演オダギリジョーによる実写映画公開予定だそうですが…できるのか?


*1 : 篠田正浩監督「スパイ・ゾルゲ」がすでに、映画の出来を越えて、CGで作られた町並みにグッと来てたのを思い出します。その進化系。建設中の東京タワーは、なぜか「羅生門」の壊れかけの門や、スターウォーズのデススターとオーバーラップする。


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