サッカーで盛り上がってる今日この頃ですが、その影で(?)、イチローの6月の月間打率が5割近いことに、ふと気づくヽ(´ー`)ノ
16日の時点で、63打数31安打。4割9分2厘。さすがだ。
イチロー選手は「体が反応してしまう」というような言い方をします。
練習は、反応する体を作ること。
頭で体の動きをコントロールするんじゃない。
体がしでかしてしまうことが、スポーツの成否となる。
意識はただ、体の声を聞く。
「打つ感覚」が体にあるなら、たとえ打率が悪くても、スランプではない。
+
イチローの発言は、禅みたいだという人もいるけれど、わかるという人も意外といるんじゃないでしょうか。
とくに音楽をやってる人は、よくわかるんじゃないかなと思ったりします。
音楽って、ハレとケがはっきりしてるというか、
ライブなど晴れの舞台で演奏する時と、スタジオや自室で黙々と練習してる時で、ほとんど「別人」だ。
本番は練習の再現ではなく、まったく別な異世界。
ライブや録音の時、ふだんの自己とはちがう、べつなもうひとりの自己、音楽の神が降りた自己が出現するかどうか。そこに核心がある。
とりわけジャズのような即興性を重視する音楽だと、よりその傾向は強そうです。
演奏のよしあしは、楽譜の機械的な再現ではない。
楽譜に記載できない、微細ななタイミングや強弱、間合いの変化の組み合わせで決まる。
それは、0.0何秒というような瞬間の感覚の連続。
そもそも楽譜は、ほんの目印しか記されてない地図なのだから。道は自分で歩いて作らないといけない。
頭で考えて制御するんじゃなくて、無意識的な感覚、体がしでかしてしまうことでしか、成し遂げられないものがある。地図に書かれてない道を発見することさえあるのではないか。。
これは、延々と楽譜をなぞって練習しつづけるかにみえるタイプの音楽でも同じではないだろうか? あなたは神のうつりすむ体を、作り上げようとしている。
ミュージシャンは薬物依存症になる人が伝統的に多いんですが、「神が降りない」時が来るかもしれないという不安、それも理由のひとつか知れない。
自分の意志で自在に音楽の神を呼ぶ、ということはできないから。
それは、不意にやって来て、とりつく。自分でない自分。
練習しなかったフレーズがたちあらわれ、自分の意識はそれを追って行くのに精一杯だ。。
+
W杯。ニュースでは日本代表の戦術分析をやりまくっていて、なんか将棋みたいになっています(笑)
野球でもそうですが、日本人はこの手の話が好き(というフレーズもよく聞くw)。
実際、聞いてると「なるほどねぇ」と思って、面白いです。
テレビの前では、もっとすぐれた戦術を思いついて、「こうすりゃいいのに!」と思ってる方も多いはず。
私もよく「俺が監督なら…」と思います(;・∀・)
戦術。
たしかに、スーパースターの名シーンを再生して、解説を聞きながら見ると、戦術的に非常によく出来ている。巧みの技。
それは、緻密な計算に見事に合致しているけれど、しかし、果たして、頭で理解して、それを再現できるか、どうか。
スローで再生し、繰り返し繰り返し見て、その見事さを分析し堪能する、というのは、深くマニアックな愉しみではある。
でも、選手がこれを「勉強」し、自分のものとして利用しようとするのは、簡単ではなさそうです。
頭で理解して、メカニズムを分析し、自分に出来そうなエッセンスを抽出、何度も何度も繰り返し練習し、体に覚えこませる…ということを、たぶんやってみることになる。
しかし、その方法で、うまくいくのか。
これは、どんなジャンルにおいても、「練習」につきまとうジレンマ。
体を「矯正」するのか、それとも体に「歌わせる」のか。
解読するべきなのか、解読されるべきものと化すべきか。
たぶん、後者を中心に、前者を補助にすべきなんでしょうけど、それが実際やると難しいのよ(笑)
+
外国語の学習も、「練習のジレンマ」を持っています。
中学英語だと、歴史の暗記物みたいに、動詞の活用や単語の意味を「暗記」する。
ゆっくり思い出せば思い出せるけど、会話みたいな即興性のある場所では、ぜんぜん役に立たない(笑) 口をついて出る言葉が、ひとつもない。
ネイティブは、文法のような分析によって見出される「深み」など、まったく意識せず、表面だけでやすやすとしゃべくってるというのに。
脳の使い方が、ちがうんでしょうね、きっと。
「暗記」したものが、果たしていつの日か本当に「しみこんで」、ちゃんと血肉になっていくのか。
「歌う体」の作り方は、まだ解明されていないように思えます。
自己を、矯正するのではなく、歌わせること。
Don't think, feeeeel.
と、ブルース・リーは言った。
音を楽しむと書いて、音楽。音が苦、ではない。語学も語楽かもしれない。
解読によって「深さ」に見えるものは、じつは表面に露出している。
言語においても、練習のジレンマがある、というのは、すごく不思議。
言葉こそ、「頭で考える」ための道具のはずだのに。
その「言葉」が、じつは頭じゃなく、体に属している。自分で考えているんじゃなく、言葉のほうから、ついて出てくる。
Words are flowing out like endless rain into a paper cup.
と、ジョン・レノンは歌った。JAI GURU DE VA OM...
+
日本のサッカーに欠けているのは野生の感覚だ、と言いたい…わけでは、じつはないです。
そんなこと、選手も監督も、十二分にわかってると思う。
すごい人ばかりだもの。体の声を聞くプロ中のプロばかり。
ただ、わかってても、実際やるのは、とてもとても難しい。神はなかなか降りてこない。
結果がすべての世界。
練習では、どうしても、頭で自分をたわめるほうに、知らず知らずのうち行ってしまいがち。理屈ではそのほうが正しいもの。
「体に歌わせる」のは、追究しようにも方法がよくわからん。スポーツ選手がジンクスを異常に重んじるのも、このあたりと関係があるんでしょうか。
スポーツファンは、音楽ファンとほぼ同じようなもので、一番の楽しみは、やっぱり神が降りたプレイを見ることと思う。
見るだけで、自分にも、神が降りた気持ちになれるから(笑)
分析ではなく、熱狂。
ただ、それが生じるのは、ライブでだけ。あの、一瞬。永遠の到来。
ニュースで映像を繰り返し再生し、スローで見ると、自然と「分析」になってしまう。
そのとき、もう、神は、いない。神は瞬間に宿る。記録も再現もできない。
というわけで、連日のように、夜中に目が覚めて、サッカーを見てる私です。
やっぱりリアルタイムで見て、同じときを共有しないとw
体調悪い…(;・∀・)