グリム兄弟の兄のほう、ヤーコプは、言語学者。
グリムの法則を発見した。
音韻変化の法則。
ジョージという名前の男は、グレゴリーとかゲオルグとかホルヘとか、国によって音が変わる。
オーストラリア英語では、コミュニケーションがコミュニカイションになるとか、江戸弁で「ひ」が「し」になる…とかいうのが、音韻の変化。
以前、メジャーリーグを見てたら、ジェロニモ・スターという名前の選手が出てきて、
「ジェロニモ・スター、かっちょいい名前!」
と思ってたら、5回裏くらいになって、アナウンサー、
「メキシコ出身なので、ヘロニモと読むそうです。ヘロニモ・スター」
ヘロニモかよ…とヘロヘロに脱力したのを覚えています(;・∀・)
ある国でガギグゲゴ(g)系の音の語は、別の国にいくとザジズゼゾ(z)の音になるとか、そういうのが音韻変化。(あまりにぞんざいな説明ですが…汗)
わりと例外なく、ほとんどの語に音の規則的な変換が起きる。法則性がある。
口調とか耳ざわりに対する、人間の音扱いの自然な反応なんでしょうか。
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ともあれ、各国語同士のあいだに音韻の変換規則、「法則」がある。
この法則性の発見から、言語についての科学としての言語学が始まります。
19世紀、インドの言葉も知られるようになった。インドとヨーロッパの言葉がなんとなく似ていることは、驚きをもって感じられた。
そして、音韻変化において、共通性と違い方が、美しい規則性で整理される。言語学の誕生。
そして、音の変化をたどっていけば、祖語…おおもとの言語が想定できるのではないか。
音の変化を空間(地理)ではなく、時系列(歴史)で並べてみる。
そういう発想も、自然に出てきます。
グリムも、「原ゲルマン語」のようなものに行き着けないかと考えた。ドイツ語のふるさとに。
近代化が怒涛のように押し寄せた時代で、ドイツも英仏に対抗すべく統一され、帝国となる。
でも、諸侯の領地がばらばらにあったのを、無理に寄せ集めたような国。
民族統一のよりどころとなる「魂」が求められる。
グリム兄弟の仕事は、国語としてのドイツ語を整備し、ゲルマンの源となる言語伝統を発掘、また民族の魂であるような民話神話の採集研究に及んだのでした。
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さて、グリムの法則って、何か似たようなものが…なんだろうと考えてるうち、ゲーテの「原植物」をふと思い出した。
ハラ植物じゃありません。ゲンショクブツ。源。祖。うる。
ゲーテは植物の形を研究しているうち、こう思うようになった。
いろんな形の植物があるけれど、よく観察すると、基本的な構造は同じで、その上で多種多様なバリエーションが生まれている。
すると、植物のおおもとになるような「原植物=ウル植物 urpflanze」というものが、想定できるのではないか。
すべての植物のグランドデザインとなるもの。
リンネが無理矢理互いを区別しようとしたものは、私の本質の最も内面的な要求からすれば、なんとしても統一されねばならないものである。
ゲーテはこの考えを、妄執といっていいくらい、追求しまくります。
「イタリア紀行」のところどころに、「原植物」ネタが出てきます。このことが頭から離れないという感じ。
そのうち、ゲーテには「ウル植物」が見えるようになっていったようです。
どこかそこらに、「ウル植物」が生えていているのではないか。
近頃私の背後に忍び寄っている別の幽霊が、私を虜にした。…この一群の植物の中に「原植物」を発見できるのではないかという、例の出来心が、またしても私の心に起こってくるのだ。どうしてもそんな植物があるはずだ! もし植物がすべてひとつのひな形にそって形成されているのでないとするなら、あれやこれやの形像が同じ「植物」というものであることを、私はいかなる根源から認識することができようか。…我々現代人はどうしてこんなに気が散り、到達することも実行することもできない要求に刺激されるのだろう?ウル植物は、たったひとつの植物であるにもかかわらず、すべての植物を含みこんでいる、グランドデザイン。
「イタリア紀行」1787年4月17日
さらに「原=ウル ur」の病はこうじていく。
植物のみならず、動物や鉱物の形態においても、ウル動物・ウル鉱物が見えてくる。この過程で、動物の骨格についての重要な科学的発見もしています。
しかし、科学的真理ではなく、ゲーテが求めているのは、ウル。
動物の形とそのさまざまな変形の完全な公式。(カルプ夫人宛ての手紙)形を持つあらゆるもの、あらゆる存在に対して、ゲーテの目は「ウル」を見出す。
ゲーテは、「ドイツ文学やイタリア文学、ペルシャ文学があるのではなく、文学だけがある」とも言っています。
この時、文学とは、「ウル文学」のこと。
ゲーテには見えていた。
ただ、ゲーテにしか見えなかったかもしれない、ウルの世界(;・∀・)
*1
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進化論以前の世界。
博物的な知識は集積して、いろんな植物、いろんな動物を世界中から集めて、その姿を観察比較できるようになりはじめた。
いろんなバリエーションをつぶさに眺めてるうち、ウルという考え方も出てくる。
モーフィングみたいなもんで、いろいろな形を眺めてると、脳はトポロジー的な「ウル=原型」をイメージしはじめる。
ゲーテはまた、光というものをめぐって、ニュートンと論争した。色彩論。
光は計量されるだけでは、その本質を知ることはできない。
「見る」こと。
それが光の本質に近づく道。
ゲーテには見えていたのです。光の本質が。
だから、ニュートンの「科学」が歯がゆかった。
ゲーテ自身、自分の書いたものの中で将来もっとも重要になる、と考えた大著、色彩論。
最近、「もうひとつの科学 alternative science」とでもいうのか、熱心に研究されています。
異常なまでの執着で色彩を考え調査し「見」ようとしたゲーテ。
ウルとかメタモルフォーゼにあった難問も凌駕(克服でなく)してるように思えます。
が、大著すぎてよくわからんとです(´ヘ`;)
何十年もかけて、自分でへんな家を作る人がいますが、あれをちょっと思ったり。
すごく面白いけど、すごくやばい本。オ○ムとか好きそうな気が…orz
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英仏との対抗上、とりあえず統一的なドイツというものが、バーチャルに形成されていく時代。
よりどころとなる、ウルドイツ(あるいはウルヨーロッパ、ウルワールド)を見つけることは、時代の要請でもあった。
われわれが物体の表面に認める色彩は、目という感覚と全く無縁な、いわば眼にスタンプを押すような体のものではない。まさに眼は、つねに自分から色彩を生み出そうと待機している。+
『色彩論』教示篇760
…こんな短絡的な連想は、よい子はけっしてしてはならないのですが、ふとヒトラーというドイツの生んだ怪物のことを思ってしまった(;・∀・)
ヒトラーは、ウル、見えてたでしょう。ウルドイツやウル世界。
普遍的人類としてのゲルマン民族。粗悪なバリエーションとしてのユダヤ。
周りの人々も、ヒトラーの幻視するウルについていった。ウルが必要だったから。
人はたぶんウルなしでは生きてる感じを得ることができない。
反英仏といった対抗だけでは、すぐに息切れしてしまう。そして、自分って何、と。
孤立した破片ではなく、普遍的な大いなるものとつながってると感じて、はじめて生きている実感を得られるから。
ただ、「大いなるもの」とかは、大言壮語の中ではなく、日常のちまちました作業の中に本当はあるのかもしれません…あるいはなくてもいいのかもしれませんが。
…と、ほんとか嘘かわからん話を書きつけてみました。論証しようとしたら、何十年も研究しないといけないでしょうか(あるいはたんに初めからまちがっているw)
メフィストフェレス
人間なんて馬鹿な小宇宙
なのに自分のことをいつも全体だと思い込む。
『ファウスト』第一部
もっと光を!
ってギョエテでしたっけ?最期のことば。
ウル系の話は、結構ツボなのですよ。
でも、いろいろなもののウルを考えちゃったら、
ウルという概念の祖形、すなわちウル=ウルとでもいうものがほしくなってしまいました。
でも、宗教には走りそうもないので、どっち方面に走ろうかと躊躇。
突き詰めて言うと、根源ってのは、ビッグバン?
あぁ、よくわかんねーですわよ。
酔っ払いなので、目がウルウルしてきました…。
ゲーテって、思えば、「奇書」しか書けなかった人。
小説も小説じゃないし、戯曲も戯曲じゃないし、詩もなんか詩じゃないし、科学論文も科学からはずれている。
今回、はじめて「色彩論」を手にしてみたのですが、そうとう異常な本でした。
とくにニュートンに論争を仕掛けるところ。
ニュートンの論文の一字一句をあげつらい、偏執的に異を唱えていきます(;・∀・)
もともとはゲーテが勘違いして、ニュートン批判を始めたようなんですが、
振り上げたこぶしを絶対におろさん人らしく、延々と研究を重ねて、ほとんど別な科学体系を構築して、攻撃するに至ります。。
ニュートンのことはぜんぜん知らないけど、晩年は神秘主義とか錬金術とかに傾いたと聞いたことがあります。
ゲーテに執拗な論争を挑まれて、うんざりしちゃったんじゃないかと、ふと憶測。
「もっと光を」
ほんとは、「窓を開けてくれ」だか「カーテンを開けてくれ」だか、そんなだったという話を聞いたような記憶があります(あいまい)。
「もっと光を」説を言い出した人は、ゲーテの色彩論を知ってて、そんな最後の言葉がふさわしいと考えたのでしょうか。
たしかにゲーテ伝説的には正しい言葉になってます。
ウルとかメタモルフォーゼは、構造主義にほぼ近くて、
事実、レヴィ=ストロースは、ゲーテを先駆者として非常に評価しています。
客観的なふりをした自画自賛かもですが。。