AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: 柴漬けの朝、あと探偵の話

柴漬けの朝、あと探偵の話

written by overQ
August 5, 2006

キュウリとミョウガの柴漬け

きのう梅酢に漬けた、キュウリとミョウガ。
「漬けた」といっても、キュウリとミョウガを切って(ミョウガに至っては切りさえしてないけどw)、梅酢に入れただけのシロモノ。
今朝、その柴漬けを食べてみました。

…驚愕のうまさでした!

これが柴漬けならば、これまで柴漬けと思って食べてきたものは、何だったのだろうか(;・∀・)
けっこう京都の有名店のも食べてきたはずなのに…。
梅酢を使った一夜漬け。なので、市販されてる柴漬けとは根本的にちがうんでしょうか。
もっといっぱい梅干つけといたら、梅酢もいっぱいとれたのにな…来年はがんばろう(笑)

  +

たら本26の記事で、小説と探偵のことを少し書きました。
「読者(もしくは語り部…語り手でなく)が小説の中に取り込まれてしまったのが探偵じゃないか」という、ぞんざいな仮説(;・∀・)
探偵と小説は同時に発生してるんで、やっぱり何か本質的な関係は勘ぐれるんです。

映画のカメラが、もし映画の中の登場人物のひとりになってしまったら、どうか。
というより、実際には、映画のカメラはつねに「その場」にいるはずなのに、けっして写らないし、存在しないことになっている。
いるのに、いない。
ご先祖様の幽霊みたいな感じ(笑)

これは、本における読者の立ち位置と同じです。

ところが、事件に対する探偵の立ち位置も、不思議と似ている。
そして、この世界に対する、神の立ち位置。

  +

小説の黎明期、ナレーションの方法を見つけるのに、すごく苦労しています。
書簡のやりとりで構成してみたり、ほとんど演劇の台本みたいだったり。
人称も決まらない。視点人物を設けて、「わたし」や「ぼく」に語らせるのか。
それとも視点人物は三人称で語るのか。
「客観的視点」」というのが、なかなか定まってこない。
映画のカメラのような存在のしかたが、理解できないんです。

文字という形じゃなしに、語り部がいて聴衆に語りかけるなら、語りと物語は、物理的に別な存在にできる。誰もそれを混同しない。
語られている物語が、語り部のまわりで、突然、現実として展開しはじめる…というようなシュールなことはふつう起こらない(笑)

ところが、文字にして黙読すると、語りと物語が、同じになってしまうんです。それどころか、読者がなかば語り部と化す。
語り部という肉体を持った目の前の物理的存在がなくなって、文字だけになってしまう。語り手が、物語の一登場人物として、現れてしまう。
メタレベルが確保できない。いっしょくた。
先生が生徒の一人としてクラスの中に埋没してしまう学級崩壊、とでも言うか。

だから小説は、最初の頃からメタフィクションになっています。一番極端な例は、「トリストラム・シャンディ」。

  +

ここまで読んでもらうと、うすうす感じてもらえると思うのですが、この問題はたいへん厄介です(;・∀・)
いろんな説が可能になる。
いちばん大変なのは実作者で、作家はみんなそれぞれ「語りの技法」について、一家言あると思います。しかも、統一的な見解はない(笑)
実作の中で見つけていくほかはない。

探偵、というのも、そうした「語りの技法」の実践的探究とかかわりがあるように見えます。

ポー「モルグ街の殺人」の、オーギュスト・デュパン。最初の探偵、とふつうされるもの。
To be enamored of the Night for her own sake.
ポーの短篇の多くは、謎めいて見える現象を、知性によって解明する、という形式になっています。
自動チェスの機械の正体を見破ったり、海の大渦に巻き込まれても、その様子を冷静に観察して、脱出手段を見つけ出す。

探偵というのは、こうした知性の働きが、実際の一人物として、登場してしまったものではないか。
「モルグ街の殺人」の初めを読むと、たしかにそんなようなことが書いてあります(笑)
語り手と探偵が分離してること、つまりホームズ=ワトソンにすでになっているのも、たいへん興味深いです。
ナメック星人だった神が、自分の悪の部分を追い出して、別人格ピッコロ大魔王を生んだように、語り手は自分の知性を「探偵」に実体化させる(ほんまか?)。

  +

探偵は、事件に対して、「ある客観性」をもっていなければならず、そのため、高等遊民、独身男性、資産家の子、孤独、放浪癖、遊歩者、痩身、…といった、探偵にありがちな属性が生まれてきます。
ほかの登場人物とは、まるでちがった独特の存在感を持つ。
「ある客観性」とは、もちろん、カメラの立ち位置であるということです。

すでに、ここに矛盾がある。

カメラは絶対写ってはならないのに、カメラが一人物として物語の中を闊歩している。
こうして、探偵は実に奇妙な、小説の中にだけ生息する生き物になるのです。

…という、あやしげな仮説でした。真偽のほどは知らない(;・∀・)
でも、実作する人は、いろいろこの問題の周辺を考えてみると、役立つように思えます。

  +

そうだ、ブックカバーにタイトルを入れる方法。

書こうと思ったんですが、言葉で説明すると、難しすぎ(笑)
目の前で手取り足取りなら、カンタンに説明できるんですが、言葉とキャプチャ画像でやるのは、あまりにたいへんだとわかりました。
使うソフトは、何でもいいんですが、Gimpがやっぱりゴージャス。でも、使い慣れるのは、かなり時間がかかりますが(´ヘ`;)
Gimp for Windows




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コメント

おひさしぶりです♪
探偵といえば最近、乱歩の「黒蜥蜴」とか読んでみたんですが・・(素人探偵)って表記のされ方してたんです、明智小五郎サンてば。
・・素人って・・シロウトって・・(笑

Posted by: 美頬 : August 9, 2006 4:06 PM

素人探偵。
なんかとても心惹かれる罵倒の言葉。
そもそも探偵はしろうと。
「しろうと」という立場で、「事件」に飛び込むがゆえに、その者は「客観」でありえ、「科学」でありえる。

すると、「シロート探偵」はほめ言葉なんだろうか?!

明智は、黒蜥蜴の頃だと、もう「職業探偵」なんですよね。
はじめはシロウトとして登場したんですが。
乱歩自身と同じで。
初期の短篇を書いてる乱歩は、しろうとだった。

不思議なことに、今、乱歩の大きな評価を支えているのは、大正末から昭和のごく初め、
彼が「しろうと」として無我夢中で自分のために書いてた諸短篇が中心。

小説家も、私の考えでは、じつは探偵のはしくれ、
「しろうと」であり続けねばならないのです。。

Posted by: Site icon overQ : August 9, 2006 8:06 PM
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