AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: うしろの正面、だあれ

うしろの正面、だあれ

written by overQ
October 15, 2006


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★もうひとつの猿ライン

前、京の町を守る、謎の猿ラインのことを書きました。

しかし猿ライン、じつはもう一本ある。
ずっと南に下り、東山区。

第2猿ライン…このラインを引いたのは、後白河院
彼が住んでたのが、法住寺。法皇が住んでいた場所の寺、という意味の名前だそうです。

法住寺は、三十三間堂の東向いにあるごく小さなお寺。
でも、以前はものすごく巨大でした。
どれくらいデカいかというと、じつは三十三間堂が、後白河が清盛に作らせた個人的な仏壇のようなものなんだとか(笑)

新日吉神社の神猿さま

そして、その法住寺の鬼門、丑寅(北東)の方向に、ずうっと行くと、新日吉神社。
そこに猿がいます。狛犬のようにに阿吽(あ・うん)のサル。

前の記事でも書いたとおり、日吉神社のヒヨシは、比叡(ヒエイ)のこと。
比叡山が京の鬼門を守り、比叡山のシンボルが猿。
後白河院も、この原理を利用して、自分の住む場所の丑寅方向に、ネオ日吉=比叡=猿を守らせたもの。

サルがまたしても、金網で守られています。
これが何を意味してるのか、まだ私は調べ切れてないんですが、興味深いです。

今熊野

新日吉だけでは飽き足らず、後白河、南東方向にも「新熊野神社」という、これまた「新」の名のつく神社を作りました。
わざわざ熊野詣しなくても、近場で数分で御参りできるようにしてあるのです。
新熊野神社のあるあたりは、大阪・伏見方面から北に上ってくる道(本町通り)と、山科に抜ける道(滑石街道)が交わり、交通商業の栄えた場所。
今も商店街になっています。大谷園の抹茶アイスがおいしいですヽ(´ー`)ノ

東福寺・泉涌寺から、徒歩でまわれる範囲内です。
今熊野神社のご神体は、後白河がみずから植えたという楠。
いまや超巨大化していて、商店街全体を木陰でおおうほどになっています
街なか、東大路ぞいに、不意に一本だけあるので、かなりの威容をほこっています。
この神社は、能の発祥の地でもあるらしい。

★秀吉の大仏

さて、新日吉神社は、京都国立博物館の東の坂を登ったところにあります。
それを、さらに100メートルほど行くと、京都女子大学。
そして、京女を越えて、さらに登っていくと、500段を越える急勾配の石段が現れます。
下から見上げても頂上が見えない、おそるべき石段。
これを死ぬ思いで登りきったところにあるのが、阿弥陀ヶ峰山頂の秀吉の墓、豊国廟。

徳川家康によって破壊され、江戸時代には荒廃していたらしい。
現在は、明治30年に建てられた、高さ10メートルの立派な五輪の塔があります。

なぜここにあるのかというと、秀吉ラインというべきものがあるから。

豊国廟―新日吉神社を結ぶライン。
さらに西にたどると、豊国神社と方広寺があります。
ここに大仏があったんです、秀吉の作った
とにかく奈良の大仏よりデカいものを目指し、六丈三尺(19メートル)、大仏殿は50メートル以上の高さがあったらしい。
博物館・京女・病院・労働局など、大きな公共施設のあるあたり一帯が、方広寺の敷地だったようです。

地図をみると、方広寺の前の道は、そこだけちょっと広くなっています。
こういういびつな形の部分があると、京都ではたいてい歴史的に何か謂れのある場所。
地名を見ると、「大仏郵便局」なんてのがあって、ここに大仏があったことがしのばれます。
方広寺の正面に延びる通りは、そのままずばり「正面通り」。大仏の正面。
正面町があり、鴨川にかかるのは正面橋

大仏のあった方広寺は、このライン一帯を占める、大きなお寺だったそうです。
後白河院の引いた、鬼門遁甲の猿ラインとは、まったく方向がちがってる。
丑寅なんて完全に無視。
むしろ、ズドンと、端的に東へ向かう線になってるのが、ポイント。

安倍晴明が見たら卒倒しそうな。陰陽・宿曜は完全無視した、その意味ではデタラメなライン。
秀吉は、平安貴族とは、ぜんぜんちがう青写真を描いていた。
鬼門や方違えを信じ、怨霊におびえて設計された平安京に対して、秀吉はもっと近代的で直線的、かつ強引な発想をもっていた。

京都のグランドデザインは、桓武の平安京と、秀吉の都市計画のふたつが、もっとも深く大きな折り目になっていて、現在に続いているといっていいようです。

★グローバリゼーション

ひょっとすると、秀吉。究極的に考えていたのは、大陸遠征の基地としての、京の町なのかも(;・∀・)
とほうもない考えだけど、もう大航海時代。
当時の戦国大名は、南蛮渡来の「世界地図」だってよく知っていた。
世界がどれほど広く豊かであるか。
それを、具体的なモノやヒトを通じて、はっきりと理解していました。

南宋の陶器、ポルトガルのマント、バテレンのいうキリスト、ゴアのスパイス…さまざまな言葉、肌の色、未知の動物たちが交通する。
文字通り、世界の富を自分の手にする経験をしているのが、戦国大名。所有と譲渡、破壊と生産をめぐって、戦国化していた、ニッポン国。
彼らの世界妄想は、具体的な文物・人物に裏付けられて、グローバルに誇大化。
東アジア全域にまたがるネットワークという考えが、すでにこの時代には、ありありと感じることができたようです。

戦国大名はとにかく、ド派手。インパクトの強いものに惹かれていく。
世界の文物が混在して手に入るということは、むちゃむちゃに横紙破りな発想と行動を可能にする気分を醸成するようです。
ヴィジュアル的に、他を圧倒する。とにかく、人より自分のほうが「上」にあることを見せつけねば気がすまない輩。


★骨董の起源

例えば、骨董というのも、安土桃山の頃、発生したものなんだとか。
戦国大名が、たがいに自慢しあったり、相手を取り込んだりするときに、その「価値」が利用された。
なり上がり者の自虐をはらんだ自慢と、つねに下心ある贈答として、あの不思議な「価値」が発生した、といいます。
骨董は、その物自体が何であるか、というより、この「やりとり」のうちに価値発生のメカニズムがある。
見栄を張るにも、敵を惑わすにも、「価値」がゼッタイなければならなかったがゆえに生じた、仮想の価値。

江戸というフィルターを通してスノッブな陰影を加え、現在に至っても、なおその気風が残る。
骨董の多くは、金庫にしまいこむためのもの。つまり資産価値。
買った時より目減りせず、できればより高く売れる資産として、その物自体の使用価値とは別な意図で流通しています。
ただ、実際にはたいていのお金持ちは絵に描いたようなスノッブ。どの方もきっと、自分の持ってるものについて、えんえんと自慢話ありがたい講釈を聞かせてくれると思いますが(;・∀・)


★海から海へ

さて、方広寺から西に延びる正面通り。
これと交わる南北の通りは、本町通り。五条通から、伏見稲荷のあたりまで続き、全部で22丁目くらいまである、ものすごく長い通りです。

豊臣の行政府となるはずだった伏見城と、大仏のあった都の繁華街を結ぶ…という青写真だったみたい。
さらに、伏見から川を通じて、大阪城にも到達する。
そして、京都の北に伸びる道は、日本海にまで達するもの。

こうして、大阪湾から日本海まで通じるラインが引かれ、その中心に京都が位置する。
大陸と戦争するにしても交易するにしても、守りやすく攻められにくい。
ほしい物資は通しやすく、いらないものは通さない。
…そういう都合のいい都市になるよう、京の町を改造しようとする、秀吉の野望は、東アジア全域が、彼の Google Earth 遊びの範囲になっていた。

こういう発想。
元からイスラム、東アジアでは倭寇から大航海時代の南蛮人…世界を陸や国境ではなく、「海」として捉えた人々から、生まれ出ているように感じます。
We are All WATER. わたしら、みんな、水。
I am he as you are he as you are me and we are all together.


★夢のあと

秀吉は、京都の町を、大胆不敵に改造していきます。
平安貴族の迷信的な都市計画とはまるで異なった層から出てきた、大航海時代の「世界地図」にもとづく、合理的、強引、ゴジャな改造。

五条通りを、大仏のあるあたりとの交通の便を考えて、南に移動させちゃう。もともとはもっと北にあり、清水寺参拝の道だったのに。
100以上のお寺を集めて、南北に一列に並べる寺町通りを形成するという、思い切った区画整理。
御土居と呼ばれる土塁を、京の市外を取り囲むように築いて、洛中洛外を分け、いくつかの関所を設けた…それが、丹波口や粟田口といった、京の七口。
また、碁盤の目状の街路の間に、南北に通る小路を一本ずつ引いていく。これによって、正方形の区画が長方形になり、短冊形の家を作って空間を有効利用できるようにしたのが、町家の起こり。
そして、刀狩り。大仏建立のため、鉄を集めた。

図面で引いたことを、どんどん現実の土木として実行していく、抜本的な改革。
今の京都の原型の半分がここにある。

京都の町衆には、かなり反発も招いたようです。
当時は、堺に代表されるように、一部商人はそうとうな力を持ち始めていて、京都の町衆にも、かなり自治の気風があった。
祇園祭もそういう中から、今の姿に盛り上がっていくらしい。

話によると、このころ出現した石川五右衛門も、秀吉に対する反発の現われと見れるともいいます(1594年処刑)。
油の釜で生きたまま茹でられる…というか、カラッと揚げられるという、無惨な処刑法も、抗争の仁義なさを思わせます。

そんな、やる気満々な秀吉でしたが、慶長3(1598)年8月18日、伏見桃山城で亡くなります。63歳。
その廟と社殿が方広寺の裏手、阿弥陀ヶ峰の豊国神社。

方広寺の巨大な鐘

大仏は、文禄4(1595)年の落慶直後、地震で破壊されます。
秀吉の死後、慶長7(1602)年、息子・秀頼が鋳造仏を完成。これもなぜか、直後に火災で焼失。
今度は、慶長16(1611)年 徳川家康の勧めで、またまた鋳造。
しかし、これが豊臣滅亡の引き金になる。
大仏殿の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字が、「家」と「康」を切り離し、家康に呪いをかけるものだと、インネンをかけられます。
はじめから豊臣を滅ぼすべく仕組まれた「罠」だったようにもみえる。

大仏はその後、寛文大地震(1667年)で倒壊。
次には、木像金箔漆で再興。
ところが、これも寛政10(1798)年、落雷で消失します。
その後、天保14(1843)年、尾張信者たちが再興した木彫半身大仏(高さ11メートル)があったのですが、昭和48(1973)年3月27日、火災で焼失。
…呪われてる( ;´Д`)

寛政に雷(天火)で焼けた時には、こんなわらべ歌が、いつとはなく、唄われたそうです。

京の京の 大仏つぁんは
天火で 焼けてな
三十三間堂が焼けのこった
アラ どんどん
コラ どんどん
うしろの正面 どなた
かごめ かごめ」の京都バージョン。
一説では、ひょっとするとこれがオリジナルかもしれない、とのこと。

正面って、正面通。
正面通のうしろには、秀吉がまつられている…あるいは、豊臣没落で「うしろ」になってしまった、というようなことなんでしょうか。
うしろの正面。栄枯盛衰。盛者必衰。
歴史の皮肉。嫌われていた秀吉も、今ではその位置に徳川がとって代わり、江戸時代には石川五右衛門は体制に反抗するヒーローのように浄瑠璃や歌舞伎でもてはやされるようになりました。
カゴメカゴメのわらべ歌では、いろんなものが逆さまになって連結しますが(うしろ=正面、夜明け=晩)、歴史の逆説と通じるワザウタ(童謡)のように響きます。



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