大きな神社やお寺に行くとたいてい、ワキのところに小さな祠があるもの。
そこには稲荷や大黒、お地蔵さんなど、寺社のメインの神様とはべつな神仏がまつられている。
入口付近や参道沿い、また本殿の横っちょや裏戸のあたり。
仏教寺院にお稲荷さんがあることもよくあって、考えてみると不思議な気もする。
仏教とか神道とかいう大宗教というより、民間信仰のにおいのある、独特の小さな神々。やおよろず。シンクレティズム。
ものすご〜く大雑把にいうと、これらの「小さなカミサマ」は、お祭りにやって来て、物を売ったり、見世物をしたりする人たちの神さま…らしいのです。
そもそも寺社の境内というのは、お祭りの場所。
お祭りというのは、実際は市場のことといってもいい。
範囲もじつにあいまい。神仏の名にちなみ、市という、神による、また神のための行為がおこなわれたら、その地は境内と呼ばれた。
市としての祭りは、ムラという共同体の内部の行事というより、外からいろんな見知らぬ人や物が入ってくる交換の場所だった…ようなのです。
京都の寺社というと今では、「閑静」で苔むしたようなイメージが売りになってるけど、それはごくごく最近になって流布したものらしい。
京が都の頃、そもそも寺社とは、にぎやかなイベント、カーニバルの現場だった。
人が集まってなんぼのもの。
踊りや劇、大道芸が人を呼び、山海の珍味が売られ、漆や金工細工など真似しようのない、特異な技能の品々が持ち込まれた。
市場のにぎわいがすなわち、寺社の繁栄を物理的経済的に可能にした。
寺社の主体は、じつのところ、どこからともなく集まってくる有象無象の人々。
かしこまった宗教教義じゃない。
だって彼らに教義を説くと、勝手な解釈で熱くブードゥー化してしまうもの(;・∀・)
記録だけたどると、どうしても貴族や僧侶といった文字階級の人が書いた「ちゃんとした」ものが目につきやすい。
けど、それは人数的にはじつは文字派は少数。
文字を持たざるロングテールは、狐の九尾のようにひろびとと異空に伸びていた。
上品からじゃなく下品のほうから寺社をながめてみること。
これが京都の歩き方、見つけ方のポイント。
秋から京都を巡り歩き、そんなことに気づいた。地と柄を逆転させてながめてみること。
寺社の歴史や由来、祭られてる神仏の「説明」を聞いても、今ひとつピンと来なかった。
それは上から眺めてたから。
歴史は下から混ぜ返され、錬成されて熱くなる賢者の石。
これはべつに京都だけじゃなくて、日本中どこでもあてはまるし、たぶん世界中でだって同じことなんだと思う。
ヨーロッパに実際行くと、町ごとにヘンな年中行事がいっぱいある(笑)。
よく知らない聖者の名のもと、年寄りが謎めいた食べ物を作ったり、巨大な人形や塔を建てたり、燃やしたり壊したり。
それはキリスト教のふりをしておこなわれるブードゥーなのか知れない。(というかホンモノのブードゥーがそんなものだそうです。)
宗教教義とはまったく別な流れとして、「民間信仰」とでもとりあえず呼んでみるものが、発祥以来人類につきまとっている。
表向きは「教義」がメインストリームなんだけど、実際は民間信仰のほうがはるかに根強い。
空海、空也、法然、親鸞、日蓮、一休、白隠…ビッグネームのお坊さんたちも、ほんとはそのことがよおくわかっている。
「衆生済度」というより、教義のほうがむしろ「衆生」にすくわれるということが。彼らなしには、どんな宗教も立ち行かないことが。
*1
神楽も猿楽田楽も、仮面を付けて舞う。その仮面としてのお面。
神になるしるし。アフリカでも南米でもオーストラリアでも、どこに行っても同じ、人類普遍の方法。
どこからともなく来訪した未知の(=道の)人々が集う境内。ニンゲンであるかどうかさえ、知れない。
中世くらいまでは、そこは明白なアジール(無法・無縁な別空間)として神聖化され、恐れられもした。行く場のないものが逃げ込む、エンガチョの地であった。
だから祭りに行って、夜市に入るなら、まずお面をかぶろう。
ふだんの自分ではない、もうひとりの自分になるために。それがじつは「ほんとうの自己」でないと誰にいえよう。いや、お面をかぶれば、もう「誰でもない」。ここはもはや境内。サカイのウチ。サイの中。
現世でのあらゆる「顔」を剥奪され、あちらでの生まれ変わった顔になる。
ジャグラー。
そう、これはジャグリング、唐人が伝えたお手玉奇術の名残り。
蹴鞠…というものもある。白峰神社や下鴨神社では、お正月、蹴鞠がおこなわれる。平安時代の蹴鞠の名手は、蹴鞠の神を「精大神」と呼んだ。
精の神=サイの神。いつもの、あの神さま。パパ・レグバ。
あらゆる芸能と技能の神。
スポーツのような特殊技術は、たんに科学的合理で鍛え、意識で身体メカニズムを制御しようとするだけでは、「結果」は出ない。人間はアシモではない。アルゴリズムだけでは動かない。「体が仕出かしてしまう」(イチロー)よう、肉体に神をおろす必要がある。むしろそこが出発点でさえある。
水ヨーヨーを手の平で打つ。
その繰り返し打つリズムが、神楽の金鼓や、ささら、念仏読経のリズムと重なっていく。
ヨーヨーや鞠が丸いのは、それがカミの形であるからだ。
かつては神社で願い事をして丸石を持ち上げ、その軽重で祈りが叶うかをはかったとか。その丸石を、オモカルさん、あるいはアホカシさん、という。
水ヨーヨーって、もとはコンドームだったのかもしれませんね。フーチークーチーの神がつたえし技術。繰り返し、繰り返し、打つのだ。玉は金。
さらに参道をすすむ。
金魚すくい。いくらやっても救えない。
となりにひょいとすわった子供。
「おっちゃん、網、えらばしてーな」
とおもむろにごねてから、救い始めて、ものの一分もたたぬ間に。
みるみるバケツは赤いものでいっぱいになる。天網恢恢、疎にして漏らさず。
あとでわかったが、あれはサクラで、夜店の子供らしい。
道理でうまいはずだ。
金魚すくいの横には的屋。去年はあの子はそこでも次々、景品を撃ち落としていたらしい。
夕方ごろ行くと、店の裏でタバコを吸いながら、難しい顔で競馬新聞を読んでいたりもするそうだ。
その話は、父に聞いた。父が子供のころにも、あの子は、来ていた。
え。…そう。ずっと、子供(童子)のまま。
でも、まあ、そういうこともありそうだ。たんに空似た親子で、代が変わっているだけなのか、不老不死なのか…その詮索ももうどうでもよいことのように思える。
特異な技能には神が宿ると考えられた。
異能の職人たちは、芸能のものと同様、神の子だった。異能のうちには、スリや詐欺や賭博、暴飲暴食や畸形の人々も含まれた。神意をあやつって、運を采配する力があると考えられたから。天狗たち。御籤を引くのではなく、作る側。価格を生み出す市は、神の庭だった。
白砂の上で、一人相撲が始まっていた。
童子が独り、相撲を取る。いや。
一人ではない。神との相撲だ。今年の収穫を賭けて。祈って。
はやし立てる声。
誰もがお面をかぶるせいで、どの声が誰か知れない。
カミサマのほうを応援する向きも少なくない。
むしろ、みな、神を支援するようだ。
見えているのだろうか。一人相撲ではないのか。
「おや、見えないですか」
初老の男が話しかけてくる。「じゃ、この面を」
面をはずした男の顔は、やはりお面で、死んだ父の顔に似ている。
いただいた白髭の面を通してみると、なるほど神が見えた。
丸々と太った、白い力士。餅でこねたようだ。
童子が巧みな技で、転がしても転がしても、起き上がりこぼしのように、たちまち起きる。
それもそのはず。そもそも神は完全な球体であって、どこにも天地の差別はない。
転がせど転がせど、それは転倒しない。人生のようだ世界のようだ、喜びのよう苦しみ悲しみのよう。
童子は五条大橋の牛若のように、円形の土俵の端をひらりひらりと、球体の神をかわして、かけめぐる。
彼の身のこなしは舞のようで、また丸く、水流のようでもある。
このような勝負に、はたして決着はつくのだろうか。
「あれはね。この世の始まりからおこなわれているんです」
と、初老の男の声がした。姿はない。
「四谷赤坂麹町 ちゃらちゃら流れるお茶の水
粋な姉ちゃん立ちションベン 白く咲いたか百合の花」
あ。寅さんだ。
こちらに来ても、やっぱり寅さんは寅さん、口上売りをやっている。
「お。ミツオじゃねぇか」
と呼びかけられて、
「なんだよ。おじさん。まだこんなことやってんのかよぉ」
とミツオになっている。
しかしよく見ると、四角い顔に細いキツネ眼、履物こそ雪駄だが、着物は江戸時代のような橙色のチャンチャンコ。
どうやら何代も前のトラ屋のご先祖らしい。
そうだった。うちはそういう血筋だ。
境内や参道に立ち売りの店を構え、それが定着して、葛飾柴又帝釈天前、門前町の店屋となったのだ。
寅さんがフーテンなのは、先祖がえりしただけのこと。
風に誘われゆく道のすべてが故郷であり、出会ったすべての美女が思い人。
隣では寅さんの友人の、同じく流れ者たちが、イカ焼きやタコ焼きやタイ焼きの店を出し、いい匂いを立てて、客を誘っている。
伊勢の海産物を山奥の村に持ち込むのも彼らの仕事だ。この寺には彼らの先代・先々代が遠い鼻長の神もはるばる勧請したらしい。
裏手では、いいアンコを取るために、巨大な鯛が生きながら絞め殺されていた。
アンコを搾り取られると、鯛はやせほそって、もう魚のようでなく、干からびた人型で、そのまま木に打ちつけられ、ほさらるらしい。その姿が磔の神のよう。
「こうやって神は不死になるんだよ。」
見ると、さまざまな英雄、御霊がほされ、吊るされ、虐待されている。それは着色ひよこから犬神、将門から義経、赤穂浪士からキリスト、石川五右衛門からマザーテレサ、新撰組からダイアナ妃におよぶ。ずうっと彼方まで続いている。
これがすべて「境内」で、祭りの場所=サカイだ、という。どこに店を出してもいいし、実際どこにも見世がある。とうとうと立ち売りの口上があがっている。
生きとし生けるものは、すべて、イケニエ。みな、死ぬ、さだめ。その、在ることへの、叫び。その喜び。それが声となり、歌となる。
どこが本社ですかとたずねると。そんなものはない。八百万の神だ。遍在する空なる中心をとり囲む。
そう言って男(犬神博士を名乗る)は手の平をまるめてみせた。その球形の内部に世界のすべてが閉じ込められる。
恐るべき衆合ぶりを示す、その男の結ぶ印も微笑も仏陀の拈華。
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これにて、「猿田彦幻視行」全11回、完結。
うさんくさい「表紙見本」も作ってみましたw 「京都」をうたいながら、じつは岡山の中山神社の写真だったりするのだ…(汗