AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: ノラとワタナベ・ノボル(ハルキと百鬼園)

ノラとワタナベ・ノボル(ハルキと百鬼園)

written by overQ
April 14, 2007

ノラのクロニクル

還暦を迎える頃、内田百里禄蕕瓩毒を飼った。
その記録が随筆「ノラや」…となるはずであったけれど、この書き物は、第一章を終えた時点で、別なものになってしまう。

ノラと名づけられた猫が、いなくなるから。
猫日記ではなく、猫の不在日記。
百里涼欧はとてつもなく、いたるところで落涙し、あげく目がよく見えなくなるほどの重篤な心身症。
何があったのか。

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二章目からは日付が出現し、日記らしい時系列な記述となる。
百鬼園先生が重ねる日々(=クロニクル)、それは、嗚呼、先生とノラとの隔たりを刻む、無惨に冷静な数値の積み重ね

ノラとしてのワタナベ・ノボル

「ノラや」に続いて、「ノラやノラや」。
百鬼園先生のおろおろぶりは、冷徹な日付によって細分化され、カチカチと時は刻まれていく。その都度、先生とノラの隔たりは広がる。
ノラとともにあった、とどまるべき永遠の時の時(=now here)は、二度と戻ってこない(=nowhere)。
猫との距離はどこまでも開いていく。それがクロニクルとなる。
その末尾はこう。

ノラやノラや、今はお前は何処に居るのだ。

まるで、詩の文句だ。
…ふと、デ・ジャヴがよぎる。
この読書をすでに、どこかで経験している。
この行間は歩いたことのある路地。吹いた風の匂いを覚えている。

ああ、そうか。あの時。
あそこで。

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ワタナベ・ノボル、お前はどこにいるのだ?と僕は思った。ねじまき鳥はお前のねじを巻かなかったのか?
 まるで詩の文句だな。

  ワタナベ・ノボル
  お前はどこにいるのだ?
  ねじまき鳥はお前のねじを
  巻かなかったのか?

村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(『パン屋再襲撃』所収)。
いなくなった猫
その猫の名が、ワタナベ・ノボル。

この短篇はやがて、大きな長編へと成長するだろう。
「ねじまき鳥クロニクル」

「ノラや」が「ノラやノラや」「ノラに降る村しぐれ」…と続いていくように、ハルキもまた、ワタナベ・ノボルを追って、クロニクル(=時系列の記述、日々の降り積もり)を続けていく。どこまでも。

猫の不在の日記(=クロニクル)。

出口はあるのだろうか? ねじは巻けるのだろうか、巻くべきなのだろうか?

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同じとそっくり

百里魯離蕕料楮願を作って、新聞の折り込みにしてもらう。

みなさん
 ノラちゃんという猫を
  さがしてください!
その猫がいるらしい所は麹町あたりです。ねこは毛色はうす赤のトラブチで白い毛の方が多く、しつぽは太くて先の方が少しまがつていて、さわつてみればわかります。鼻の先にうすいシミがあります。左のほつぺたの上にゆびさきくらい毛をぬかれたあとがあります。

子供に向けたというのに、やけに詳細な捜索願。
かえって不安にならないだろうか。
もしこのとおり、同じ条件を備えた猫が現われたとして。
それでその時。
…それは「ノラ」だと断言できるだろうか?
そっくりな別な猫でないと、言い切れるだろうか?

実際、百鬼園先生は、ノラそっくりの猫にその後出会う。
猫通によれば、それはノラの兄弟で、とにかく見た目はノラそっくり。

兄弟でも、ノラの代りにはならないけれど、この猫がうちのまはりにゐる事には一つの実用的な意味がある。私や家内にはいつ迄たつてもノラを見違へる事はないが、人に頼んでノラであるか否かの下見して貰う事がある。その場合、この猫を、尻尾の長さだけ別にして、ノラの見本としてこの通りだからよく見て行つてくれと頼む事が出来る。

同一性の証明に使えるほどに「同じ猫」が、別な猫であること。
この何気ない一節には、深甚な恐怖がある。
「私と家内には見違えることがない」という脇目もふらぬ断定。
他の誰にも、その区別はつかない。私だけがわかる区別。

名づけえぬものの名前

では、まるでサマ変わりしたノラが帰ってきた時、百鬼園先生はそれがノラだとわかるだろうか?

いや、たぶん、わかる。
まったく同一のサマであっても、ちがうと分かるのだから。
まるで違うサマ…例えば目玉が五つ、足が百本あったとしても、それがノラならノラとわかるし、分子レベルまで寸分たがわぬクローンが出現したとしても、それがノラでないならノラでないとわかる。

狂気。
もはや、その猫にはアイデンティティとなる「特徴」はなく、ただ名前だけがある。
ノラや、ノラや。
ワタナベ・ノボル、お前はどこへ行ったのか?

名づけようもないものに、名前をつけてしまった。したがって名前だけしかその存在にはない。
その罪と罰。
姿かたちは問題ではない。
その、それが、それとして、ある、それ自身の、それ。
だけが問題。ラッセルなら、thatnessと呼んだもの。

愛?

不在、喪失、失踪

「ノラや」…ふと、その読後が、ホラーと呼ばれるジャンルにひどく近しい。
百里痢覆△襪い禄媼の)代表的な短篇がそうであるように。
どこかが根本的に病んでいて。
癒そうとすればするほど、その深みは深まる。 *1

不意に失われたもの。
こちらからの呼び声だけが続く(「もういいかい」)。
さっきまで聞こえていた答え(「まあだだよ」)…それが不意に消えた。
抱きとめたと思った瞬間、かいなに何も残らない。
「もういいよ」とその答えを、不安と期待を持って待っていたのに。
沈黙だけ。
呼びかけても呼びかけても、それが意味なのか無意味なのかもう知れない…でいる。

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終わりのとなりに

ノラ、自身。
ノラは自分がノラと呼ばれていることも知らない。
自分は自分。どこまでもその同一性に生きることができる…ブルームの妻モリーの長い回想のように句読点なしに。

誰かが帰りを待っているとしても、それはよけいなお世話だ。
誰かが自分をノラと呼ぶなら、それはその人の勝手でしょ。

ノラは百鬼園先生を見向きもしない。何の関心もない。

しかし、これは無惨な事実だろうか?
ノラよノラであれとどこまでもいのる同一性の呪術が、他者であるノラの実存によって、分断され生じるダブルバインドのクロニクル(=日付)。
出口はないのか?
でも、これ自体が出口ではないのか?

彼の不在、それは彼が彼、私が私であるということ。
それを認めることが愛…と呼ぶべき何かだと。
去りゆく猫の後ろ姿。

初めからそれがわかっていて、わかっているからのじれったさを、ブンガクにしてるのでは。と。
終わりのとなりに、ふと。付加される、「と et」。


*1 : 春樹さんはごく初期からスティーヴン・キングに言及し、「気がかりな作家」であったらしい。ノーベル賞候補常連となりつつある今も、きっとそうだと思う。キングへの言及は、絶賛してしまうのを怖がるような、たえず条件つきの、留保した評価で、村上春樹の本質にかかわる問題であるようです。キングがノーベル賞候補になることは、ジャンル棲み分け上、決してないのですが。


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コメント

春樹と百鬼園先生はあまりつながらないと思っていましたが、引用されている箇所を読むと(overQさんの引用の妙でしょうか)オマージュであるかのように読めますね。面白いなぁ。

Posted by: ノブタ : April 16, 2007 12:50 PM

春樹さん、「ノラや」を意識したのかどうか…確率的には半々くらいでしょうか(笑)
これって、でも、指摘した研究者はいるかもしれません(たいていどんなことでも、誰かが調べてるもんだなと、この頃よく思いますw)。

ネコがいなくなることで、時間が進み始める…という構造が一致しています。
それまでネコとともにすごした、永遠の夢のような世界から追放されて、
猫の足跡を追って時間の動く世界へ。

村上春樹は文体がハードボイルドで、私小説な「ノラや」とは大きくちがった転回になって、「綿谷ノボル」という完全な他者として敵対してきます。
ネコのほうは、「サワラ」と呼びかえられるのですが、これは「羊をめぐる冒険」でイワシと名づけられたネコを思わせます。

いろいろ、見えない地下水脈がつながりあっているようです☆

Posted by: Site icon overQ : April 16, 2007 7:55 PM
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