たら本、第33回は、読書記録の檀さん主催☆
お題は、
「悪いやつ」
悪党、悪漢、悪玉、ピカレスク…ヒーローに敵対する「悪いやつ」は、たぶん神様vs悪魔の頃から。
そして、しばしば、悪のほうが正義より魅力的という逆説も。
このタイプ、マンガはすごく多い。最近だと、「DEATH NOTE」の夜神月とか印象的でした。
歌舞伎も悪党を主人公にすることが多くて、シェイクスピア劇なんかも悪の魅惑が主題。
視覚的な物語り…キャラクターの顔が見える時、悪は映えるよう。
で、小説というジャンルは、活字(大量出版)によって発生したもので、顔が見えない分、悪の内面に入っていく。
ドストエフスキー「悪霊」の主人公などは、きわめて小説的な「悪いやつ」と言えそうです。
パッと見ではなんとも判断できない、悪の微妙さ。
小説で悪を描くといえば、推理・サスペンス。小説の最初期から現われたサブジャンル。
また、探偵がヒーローとなって「真実」を探究していく正統派に対して、犯罪者が主人公となり視点人物となって、悪の真実を語っていく
…クライム・ノベルというのもあります。
小説って、語り部が口頭で語りかけるのとちがって、活字で読むもの。
そのため初期の小説は一般に、「語り口」にすごく苦労したようです。(猫が語り始めたりするのは、そのせい。)
誰を語り手にするのか。すべてを見渡す神のような視点に説得力はあるのか、などなど、悩んだ。
推理物では、事件としての犯罪が善悪を決める。
顔やコスチュームや声や言葉づかいなど、視聴覚のインパクトで勝負する演劇的「悪玉」とは、まったくちがった世界。
まさに活字という一般性・客観性で書かれたもの=小説が得意とする方向です。
でも、登場人物の誰かが語り手になると、「真実」を見抜く客観性をにわかに欠くことになりはしまいか。
事件の一部であるものが語り手になると、善悪は藪の中に入りかねない。
活字のもたらす偏執的な客観性=真理の探究がここから始まる。科学ともいう。
顔さえ見えれば、そこで済むことだったか知れないのだけれど。
こうして、探偵という第三者=異人がふらりと来訪します。
物語の外側にあって、最終的にはすべてを見渡し、結審をつけるもの。(「読者あるいは作者」という、小説が作り出した仮想存在の、影。)
今だと、「客観的視点」は、不思議でもなんでもないんですが。
でも、それは映画のカメラが登場してからのことに思えます。
カメラは「現場」に存在するのに、けっして映し出されることなく、物語を自在に「外から」眺めることができる。いわば、透明人間の覗き屋。
映画のカメラは、そんなものが実際に存在しえることを、証明してしまった。
*1
覗く、ということ。
探偵は客観的な覗き屋であり、実在する探偵業はたしかにそんな仕事。
また、乱歩の初期短篇が、天井穴から覗くとか、鏡とかパノラマとか覗きカラクリとかに偏執し、それと並行して明智探偵を生み出したということもある。
いたって視覚的な世界観。
貼雑年譜 (江戸川乱歩推理文庫)
江戸川 乱歩
¥ 4,200 / 講談社
( 1989-07 )
通常24時間以内に発送
by AMAZ君(改)
しかし。探偵(視覚)は本当に「真実」をつかむのか。
客観的視点とやらは、実在なのか。
その疑いを抱くのが、犯罪者ご当人。こころ。
まさに客観とは正反対。主観そのものとしての、犯罪の主体的行為者。主犯。
クライム・ノベルは、探偵に真っ向から対立するものであり(エルに対する夜神月のように)、また小説の語りのメカニズムから必然的に分岐してきたもの…といえるかもしれません。(学術的なレベルで論証しようとなると、とてつもない力技を要しそうw)
探偵小説のクライマックスが、探偵の推理に追い詰められた犯人が、ついに「本当のこと」を自分の口から語り出す(騙り出す)瞬間にあること。
探偵の見出した客観性と犯罪当事者の主観性の温度差に、何ともいえない醍醐味があるのでした。
今回は、映画「太陽がいっぱい」の原作者パトリシア・ハイスミスを取り上げてみたいと思います。(原題は、The Talented Mr. Ripley。才能あるリプリー。上の若い頃の美形なパトリシアは、評伝「Beautiful Shadow」の表紙) *2
リプリー (河出文庫)
パトリシア ハイスミス
¥ 620 / 河出書房新社
( 2000-05 )
by AMAZ君(改)
ハイスミス作品、うしろ暗い犯罪者である主人公が、それを隠しとおして、まんまと社会の中で生き延びる、というような筋が多いです。
背中に冷たい汗が流れるような、すれすれのところを、知能と幸運(悪運)によってすり抜けていくサスペンス。
実際に犯罪経験があるのではないかとさえ思わせる、細部に満ちた描写。
正義や悪といった人の作った倫理に拘束されず、追い詰められた主人公が動物のように本能的に、偶然をチャンスととらえて反応し、窮地を脱する。
その暗い躍動感が、この作家の真骨頂。
罪の意識に悩むのではなく、罪と罰な世界観から脱出してしまう。
それがこの世界に拘束されたままの人々からは、「悪いやつ」に見えるのでしょう。
何とも言いようのない、善悪の彼岸のような結末も、しばしば。
後味もけっしてよいとはいえないですが、この世界そのもののように不自然でいて自然。長く考えこまされます。
「変身の恐怖」は、吉田健一の日本語訳とも相性よく、代表作。チュニジアの善悪の彼岸、罪も罰ももたらされない世界で、生きる感触を取り戻す主人公の職業は作家。ハイスミスの友人ポール・ボウルズの影がどこかに落ちている。
変身の恐怖 (ちくま文庫)
パトリシア・ハイスミス
¥ 987 / 筑摩書房
( 1997-12 )
by AMAZ君(改)
最初のヒット作は「見知らぬ乗客」。
いくつかの出版社で原稿を断わられ、意気消沈していたところをカポーティがはげまして、書き直したとか。
これがヒッチコックによって映画化され、ハイスミスは作家としての地位を獲得(脚本は最初レイモンド・チャンドラーが担当したが、ヒッチコックによって却下される)。
ハイスミスは、「ヒッチコックに映画化してもらえるように」書き、まんまと彼の目にとまったのでした。
*3
見知らぬ乗客 (角川文庫)
パトリシア ハイスミス
¥ 798 / 角川書店
( 1998-09 )
by AMAZ君(改)
才能あるパトリシア。
(上の「女ざかり」…というか才能ざかりの気むずい表情は、単行本未収録作品を集めた「Uncollected Stories」)
いちおう推理・探偵のジャンルに入れられてるのですが、ちょっとテイストがちがうようで、ファン層もずれています。アメリカではさほど人気がなくて、ヨーロッパ(ドイツ語圏)でベストセラー。スイスの出版社から多くの作品を出しています。ヴェンダースが大ファンで、「アメリカの友人」を映画化してるのも、このあたりの経緯のよう。
ハイスミス自身は推理小説というものに興味がなかった。
今でも、推理小説がどうして読まれているのか、よくわかりません。わたしはアガサ・クリスティもコナン・ドイルも、読んだことがありません。トルストイやドストエフスキー、ヘンリー・ジェイムズ等を愛読しています。わたしは推理小説家ではありません。秘密から生じる緊張に心を惹かれるのです。そして、わたしたちの誰にも起こりうる犯罪の展開というものに魅了されます。犯罪者の動機、行動が、わたしを引きつけます。実際、現実に生きている人が、わたしには面白いのです。自分の本能を意識している人が。これがわたしの原動力です。 *4
ハイスミスの写真を年代順に並べてくると、彼女がリプリーのように年をとってきたのがわかる。(晩年の「ブッダのような」肖像の表紙は、「Sellected Stories」)
*5
逃げ延びるように、生き残ってきた。
母国アメリカは早々と脱出し、英国・フランスそして晩年はスイスで隠遁。
美しく才能に満ちて…でも何か隠し事があるような、影のある表情。
ハイスミスは同性愛者でした。50年代以前のアメリカで、それは隠し事だった。
貧しかった頃、デパートの売り子をしていたパトリシアは、「気になる客」を調査(ストーカーともいう)。その「調査」に基づき変名で出版した作品は、アメリカ最初の同性愛小説だそうです。
しかし、ハイスミスは女嫌いのレズビアン。そんなものがありえるのか…しかし、そんなものでもあるような。
女であることを容赦なく揶揄する作品をいくつも書き、フェミニストの顰蹙を買うことも。
母との確執もあり、とにかくどんな「正しい理由」に基づくものであれ、拘束されることを嫌悪した人。
スローガンとか主義主張とか、流派を問わず大嫌いなようです。頭でっかちで声高な、本能のしなやかさを欠いた思想は、知性に見えなかったにちがいない。
晩年、善玉悪玉を区別なく、人類のほぼすべての行為を愚弄嘲笑するような、911の予言をなす、恐ろしいまでのアンチ・ポリティカル・コレクトネスな短篇集「世界の終わりの物語」を書いています。この作品は現代人が一度は目を通すべき怪作。
野生動物がその無惨さも含めて好きだったハイスミス。動物たちにとって、ニンゲンがどれほど愚かでおぞましく、恐ろしく見えるか。ニンゲンのいない場所へ隠遁しようとした彼女。
出会いの後に雌雄を決するカタツムリをとりわけ愛したパトリシア(草薙素子のようです)。
世界の終わりの物語
パトリシア ハイスミス
¥ 1,500 / 扶桑社
( 2001-01 )
by AMAZ君(改)
社会制度がもつサディスティックな力に追い詰められた人物が、その窮地を生き延びようする。
その瞬間、人は正義や理想や愛とやらをもやすやすと飛び越えてしまうほど、しなやかな動物的存在になる
…そんな「悪いやつ」に魅了されつづけたハイスミス。
でも、リプリー・シリーズの最後の作品「死者と踊るリプリー」(Repley Under Water)は、扉言葉でインティファーダとクルド人への熱い連帯を表明することから、始まるのです。
死者と死にゆく者たちへ、
いかなる国であれ、抑圧と闘い、勇敢に立ち向かって、
自らの信念をつらぬいているばかりか、銃弾に倒れていく者たちへ。
死者と踊るリプリー (河出文庫)
パトリシア・ハイスミス
¥ 1,029 / 河出書房新社
( 2003-12-07 )
通常24時間以内に発送
by AMAZ君(改)
パトリシア・ハイスミスは1冊も読んだことがないです…汗
検索してみたのですが、
アメリカよりもヨーロッパで人気があったのですね。
勧善懲悪を好むアメリカでは彼女の描く狂気が好まれなかったとか。
最初、overQさんの記事を拝見した時には
高村薫に似てる?と思ったのですが、
ひとつひとつの作品のあらすじを調べるとそうでもないですね(^^;
探偵の視点と犯人の視点のお話、おもしろかったです。
探偵小説というのは悪人は徹底的に悪人として書かれるわけですが、
そもそも悪人とは誰なんでしょう?
今回のお題でそんなことを考えました。
つい、昨晩、読んだ小説なんですが
親に置き去りにされた少年がある夫婦に引き取られるのですが
その夫婦に連れていかれた屋敷の地下ではおかしな実験が行われている…
ずっとその少年の視点で物語は進み、
読者である我々は少年の行く末を案じはらはらするのですけれど、
実はその少年は後に怪人二十面相となるのです。
悪人とはいったい、誰なんでしょう?
遅くなってしまって、すみません。
初めての主催で、とってもとっても緊張しましたww
パトシリアハイスミスですか。
いいですよね。あまり意識してなかったけど、そういえば出てくる人、皆悪いやつですよね。いい人なんて、ほとんど出てない?ぐらいの勢い。
でも、古きよき時代を背景のせいか、どれも魅力的。やることエグかったりするけど。
それにしても、ハイスミス自身の写真を見たのは初めてだったので、感慨深いものがありました。作品の悪いやつが彼女自身の投影というのも、わかった気がします。
ともあれ、今どんどんハイスミスの作品が出版されるようになって、うれしいですね。
★LINさん。
ハイスミス、すごく面白いですよ♪
高村薫さんとのちがいは、高村さんにはまちがいなく正義の血が流れているけど、
ハイスミスには微塵も正義の血が混じってないこと(;・∀・)
善悪の区別がこの人の作品にはなくて、それは結局この人にそれがなかったということなんだと、晩年の作品を読むと思います。
そんな彼岸な人なのに、心からクルド人やパレスチナに思い致すことができる。
911以降の世界に非常に深刻な問題を投げかけています。
探偵と犯人。
明智小五郎と二十面相は、どことなく「同一人物」のような気がします。
ホームズとモリアーティもそんな気配がある。
マンガはこの同一性を無意識に嗅ぎ当てることがあって、名探偵コナンのライバルが、彼と同じ顔に設定されてたり。
探偵は自分の尻尾を追いかけている。
金田一になると、完全な傍観者(カメラ)型の探偵で、事件の推移を見つめ、解き明かすことはできても、
事件を未然に防ぐことはほとんどできない(笑)
小栗虫太郎の生み出した探偵は、狂ったように「誤読」するマニアの読者そっくりw
めちゃめちゃな推理、超絶的深読みで、現象としての事件よりも、解釈のほうがはるかに上回るという暴挙を達成します。
これだと、客観のふりをした主観の僭越で、なんかもう、ものすごいことになっています。
小栗虫太郎が中途半端に外国語ができて、海外の最新科学の情報を誤読した結果、このような怪作が生み出されたんだと思います(;・∀・)
Posted by:★檀さん。
主催ご苦労さまです!
のんびりやってくださいませね。
このお題、とてもいいですよねぇ。
いくつも記事を書いてみたい気がしてきますヽ(´ー`)ノ
ハイスミスは善悪の区別が壊れている人。
ただ、その晩年、「自由」を見究める旅の終わり、クルドやパレスチナに心を通わせることができる境地に達していた。
人類を罵倒するような作品と、ブッダのような穏やかな境地を示すホモセクシャル小説を同時に書いています。
この不思議は、現代の問題を解く鍵なのかもしれないです。
考えこんでしまいます。
彼女のポートレイト、美しいです。
どの年代でも、すごくポーズをとってて(笑)、作品と同じくらい、気を使ってたようにさえ思えます。
不思議な人。
overQさん、こんにちは!
私もLINさん同様、パトリシア・ハイスミスは
読んだことがないんです。
「太陽がいっぱい」は観てるし、他の映画も…
しかも本人の写真にも見覚えがあるというのに!
以前、あさこさんがかたつむりの表紙の本を
挙げてらした時から、気になってるんですけどねえ…
最初の1冊に選ぶとしたら、どれがオススメでしょう?
それにしても「太陽がいっぱい」の原作者とは
overQさんの記事を読むまで知りませんでした!
あの映画、すごいですよね。
アラン・ドロンってかっこいいんだ!
と初めて知りました。(笑)
★四季さん。
ハイスミスはよく読んでるんですが、どれもはずれがないです。
最初の一冊となると、「変身の恐怖」か「水の墓碑銘」か、あるいは「太陽がいっぱい」(今は改題されて「リプリー」)。
二冊目か三冊目は、「世界の終わりの物語」です。
これはスーパー怪作なんで、「こんな本があるんだ」というだけでも、見てみる価値があり(;・∀・)
「太陽がいっぱい」はリプリー・シリーズですが、このシリーズはべつにどれから読んでもいいのかもしれません。
ハイスミス作品の中では、力を入れすぎてるせいか、ややゴタゴタしたところもあり、でもそれだけにパトリシアの声が聞こえます。
映画「太陽がいっぱい」と原作はだいぶちがっています。
ヒッチコック「見知らぬ乗客」、ヴェンダース「アメリカの友人」もそうですが、映画はハイスミス作品というより、それぞれの監督の作品。
ハイスミスは映画にはすごく冷淡で、自分で脚本を書く気はさらさらなく、
「まあお金さえくれればいいわ」という感じみたいですが(笑)
私、個人的にはパトリシアみたいな女性がたぶん好きかも(゚ー゚*)
レズビアンを好きになっても意味ないんですが、これまで二度もそうなったことがあるので、やっぱりそうみたいですw
こんばんは。コメント遅くなり失礼致しました^^;
そ、そうかなるほどです…>小説の客観性。
小説は観客を「客観的視点」に導かざるを得ない。
…演劇はどうしても、「観客も世界の内側の一部」になりますよね・・
世界と観客の関係において、両者は物凄く遠い…ですね。。
「太陽がいっぱい」、原作はかなり違うのですか!
アランドロンかっこいいー、、って^^;
私も四季さんと同じく。原作者を知りませんでした。。
ハイスミス女史、、私も結構好きかも、こういう人。
★天藍さん。
小説が活字で読むもの…というのは、あまりに当たり前すぎるのか、かえってよく意識されてないようです。
でもそれが小説の最大の特徴で、そこからいろんな小説の特殊性が生まれているようです。
この頃、若い人のあいだでケータイ読み物がプチブームらしいです。
今はまだ始まったばかりで、カンタンな読み物が多いけど、
読者が年齢を重ねていくにつれて、深いものも現われてるくると思います。
メールという新しい言葉の形に対応した、新しい感性のきざしですね。
アラン・ドロンはリプリーにぴったり。
ハイスミスはあんなには美形を想定してなかったでしょうが、映像的にはアラン・ドロンがやっぱり合います。
ハイスミスは、「太陽がいっぱい」は映画作品として良作と思ってたようです。
で、ヴェンダースの「アメリカの友人」は、リプリー役がデニス・ホッパーなんですが、ダメだと思ってたみたいです(笑)
アラン・ドロンで、リプリー・シリーズを撮るとよかったかも。
もう手遅れですが( ;∀;)