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夜歩く5 「石とノミ」

written by overQ
June 16, 2007

十四の鬼「土師をめぐる妄想」

前回のつづき。

道真を生んだ菅原氏は、野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫。

土師氏(はじし)とは、名前の通り、
土木のプロで、古墳を作ったりしたらしい。
野見宿禰は、相撲のほかにも、
埴輪の発明者として有名です。
古墳のイケニエに人間を埋めるのはやめて、
ハニワにしましょうと提言したことで、
土師の臣をたまわる。
野見宿禰のノミは、石を切り出すノミから来てるとか。

ハニワは、死出の道行きを案内する行列。
土師氏はその後も帝の葬礼に欠かせぬ存在となる。

道案内は、サルタヒコ、ヤタガラス、
道の民のもつ古い古い信仰であり、
道祖神や、のちのお地蔵さん
…六道を照らすもの…に通じること。
アオイやギオンのパレードにも。
また誤解されてか、呪いの術となって、
サカイに埋める式神、さらには犬神へと
零落していくこと。
それが私の無根拠な憶測であり、
一連の記事のチャームポイントです(* ^ー゚)ノ
(ウィークポイントともいう…汗)
ただ、道案内、本来は行列(=夜行、パレード)の形だったか知れない
…ここは押さえておきたいとこ。

さて、土師氏に付き従うものたちは、
二上山とか河内とか、
古墳近くの石切り場に住んだようです。
野見宿禰の伝承からして、
竜野とか播磨にも住んだ。
石の宝殿がそうでしょうか。
「たつの」のはじまり 相撲の神様、野見宿禰 <ひょうご伝説紀行 - 語り継がれる村・人・習俗 ‐>


でも、だんだん古墳の需要がなくなって、
平安期にはだいぶ困ってたでしょう。
けっこうよく失業する人たちのようです。
時の権力者について、
公共事業として、でっかいもんを作るので、
儲かる時は儲かるけど、
権力が移動すると失業するんだと思う。
なんか今も起きてるような話かも(;・∀・)

ともあれ、だんだん石や鉄や
土木の技術を求められるところに、
ちりぢり行くことになったはず。
野見宿禰からの縁故である菅原氏、
その道真のとこに転がり込んだ連中も
どうやらいたらしい。

巨勢秀信の菅原實記の中にも、今畿甸の諸州に宿村と云う者多くあるは、野見宿禰が出雲より召連れ来りし者の末で、以前葬具の土器を製して時の人の忌み嫌う所となりしより、久しくその業を廃して後もこの習が残って、訳も知らずに鄙しむのだとあって(振濯録)、或る程度までこの主張を認めている。それよりも不思議なことは、この部落のものが野見宿禰の後裔たる五條家(菅原氏)へ出入を許され、吉凶の通告を受けていたという事実である。
柳田国男「毛坊主考」

時代がちょっとわからないんでナンですが、
とにかく、石とかノミとか土木とかが得意な人らが、
五条に来てたという線で、お願いします。
(こんな論調でいいのかw)
それで道真が大宰府に送られちゃって、
また失業の憂き目に。
道真が出世街道まっしぐらの時は、
ぶいぶいゆわせてたにちがいないのに( ;∀;)

東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 
主なしとて 春な忘れそ

という道真の有名な歌。
この梅が、道真に仕えてた者らのことだったりしたら、
どうだろう。
あるいは、この梅はわしら(あたいら)のことだ
思うものたちがいたとしたら。
菅原道真 千人万首

ともあれ、失業した「梅」さんたちを
三善清行がなんとかしようとした、
…というのが我が妄想のライン。
清行は中間管理職
優秀すぎる同僚(道真)と、
彼の擁する精鋭の部下たち(土師)、
そして旧体制維持と権謀術数のうずまく、
うるさがたや狸オヤジな上司たち(藤原氏の面々)。
その板ばさみにあった。
同僚が上司たち相手に仕出かした不始末を、
あっちにもこっちにも顔を立てながら、
その尻ぬぐい事態を収拾しつつ、
わが身の保身もはかっていくのが、身上。

大学頭である清行。大学寮は自分の庭。
そこに彼らを住まわせる。
使えるやつらなんです。
いろいろ面倒ごとや荒事を、
まかせることもできるわけです。
晴明がのちに、式神を使役したように。

清行が亡くなってから急激に、
道真怨霊説が流布するのは、
きっと彼らの仕業。
清行亡き後、彼らがちがう人のもとに
置かれたことを意味するのかもしれません。

十五の鬼「北白川こども風土記」

野見宿禰・土師氏につらなる石の民が、
道真から清行へと主人を変えたこと。
ごくごく間接的な証拠なら、ないでもないんです。

三善清行の墓が、北白川の山の中にあります。
山中越えという、京都と滋賀を結ぶ山道、
その県境あたり。
石切が場いっぱいあるところ。
かなり山の上のほうです。
比叡平のすぐ下あたりなんじゃないでしょうか。
通ってみたけど、発見できませんでしたが( ;∀;)
三善清行に出会った


お散歩マニア | Olivemap

この墓については、「北白川こども風土記」に出ています。
昭和30年代前半、
京都市立北白川小学校のお友だちが、
現場を歩き、聞き込みを続け、
足で稼いだ成果を、
子供の言葉でつづった地誌。
以前書いた北白川の仙人・白幽子も、
もとはといえば、この本が発掘したようなもの。
「ここにだけある情報」いっぱいの名著です。
絶版と思いますが、京都の公立図書館には、
きっと置いてあるはず。

さて吉川由美さんの伝える「美目善地蔵さんの話」。

 むかし、北白川では、今のびわ町のあたりを「地蔵堂」とよんでいたそうです。なぜかというと、そこにはお地蔵さんがまつってあったからです。人々は、このお地蔵さんのことを「美目善さん、美目善さん」といっておがんでいました。なぜこのお地蔵さんに、美目善という名がついているのでしょうか。…
…よく考えてしらべて見ると、美目善というのは、ほんとうは「三善」のことだのに、人々のよび方がいつのまにか「みめよし」になり「めよし」になったからなのです。…
 ほんとうの名前が三善地蔵とわかりましたので、このお地蔵さんは、三善清行公という人の名前を、とってつけたお地蔵さんだということが、人々に知れわたりました。
 そうすると、三善清行公のおはかなんか、この近くにあったかもしれないということになりました。それで、大正十二年に人々の相談で、今まで地蔵さんをまつってあった所に、清行公のおはかをたてることになったのです。

北白川は石切り場。白川石という良質の石が出ます。
山中越えをたどるとたくさんの石家さんが並んでいます。
大槻雅子さんの「白川石と石屋さん」によれば。

 白川の産業として、「白川石」の名は、白川の花と一しょに、むかしから大変よく知られています。
 白川石というのはみかげ石のことで、学校では花崗岩といって習いました。私の家もむかしは石屋をしていたということを、お父さんやお母さんから、よく聞いたことがあります。
 むかしばかりでなく、今でもお父さんのお兄さんが二人石屋仕事をしています。

明治30〜40年代をピークに、
白川の石屋さんは減っていったようです。
以前書いた白幽子の記事。
あの山道が石切り場で、
今でも巨大灯篭が放置されていました。
あの山は勝軍山といって、
山頂には勝軍地蔵がまつられています。
美目善地蔵さんも、今はそこにまつられているそうです。

放置灯篭

土師氏に仕えていた人々の流れをくむ一党。
菅原道真から三善清行とつかえ、白川の石の民となり、
主人から受けた恩(恩ばかりではなかったにせよ)を忘れず、
美目善地蔵を残し、また北野天満宮にいたる
一連の道真伝説を盛り上げていったのではないか知らん。

【カタリ残し】

●神話から神の名を除いたものが説話。
語り部の遍歴。

●見えない人々。
たとえば貴族の詠んだ歌を、男から女へ、
女から男へ運ぶ配達人。
彼らを記述する言語を、
まだ日本の言葉は持っていなかった。

●キツネを恫喝するのに、
「犬に食わせるぞ」ということ。
清行もそう言ったし、
また伏見稲荷を恫喝する時、
秀吉もこの表現
を用いた。

また、キツネつきを落とすのに、
犬神をつかうというワザがあるらしい。

イヌ vs キツネ

いつも、イヌが勝つらしい。
これは何かの神話の断片と思われ。
それだけ。



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