市場の動向を左右するような主体的存在だし、
また「萌え」のような仮想としても出没。
犯罪のようなダークサイドでも、「少女」は業界をリードしています(;・∀・)
少女が、見る主体となって価値を決定し、
見られる対象となって市場のランドスケープを形成してる。
でも、これは日本特有の現象らしい。
トーキョーの「少女少女した」文化が面白いのか、「カワイイ!」を連発するガイジンさんを見かけたりします。
海外でも少女の文化風俗は、都市を中心にあるにはあるけど、そんなにメインストリームじゃないみたい。
日本でも1970年代以前は、それほど強力じゃなかったように思います。
ただ、その萌芽…「萌えの芽」を求めるなら、戦前、大正から昭和初期かも。
あの頃、少女雑誌というものが創刊され、竹久夢二の絵、カフェの女、モダンガール、レヴュー…それに、宝塚だって、あの時代。
少女たちの「モノの見方」が社会に影響を与え、少女たちの「モノとしての見た目」が社会の風景となり始めた。
戦争で、その「萌え芽」はいったん、しぼんでしまう。
今になってやっと、それが花開いた…ということなのでありませうか。
大正から平成。
この空白期間をつなぐ、ミッシングリンクが存在するはず。
それはじつは、川端康成なのかもしれません。
というわけで、たら本36「少女の物語」は、川端の作品を取り上げてみます。
「伊豆の踊子」から「眠れる美女」「片腕」まで、川端が生涯ストーカーした追い求めたのは、少女。
それしかないといってもいいです。弁護の余地はないのです。
伊豆の踊子・温泉宿 他四篇 (岩波文庫)
川端 康成
¥ 525 / 岩波書店
( 2003-09-18 )
通常24時間以内に発送
by AMAZ君(改)
「伊豆の踊子」では、湯ヶ島で出会った、旅の一座の踊り子を追いかける。
22歳の川端が体験したことを、26歳になってまとめたもの。
この模型のような展望の裾の方に芸人達の姿が見えた。
六町と行かないうちに私は彼等の一行に追いついた。しかし急に歩調を緩めることも出来ないので、私は冷淡な風に女達を追い越してしまった。十間程先きに一人歩いていた男が私を見ると立ち止った。
「お足が早いですね。―いい塩梅に晴れました」
私はほっとして男と並んで歩き始めた。男は次ぎ次ぎにいろんなことを私に聞いた。二人が話し出したのを見て、うしろから女たちがばたばた走り寄って来た。
必死で踊り子たちに追いついた後、その必死さをさとられまいとして、追い越してしまう。
男が話しかけてくれて、そこに女たちが走り寄って来た瞬間の康成の気持ちは、まさに
「キタ━━━━━(゚(゚∀(゚∀゚(☆∀☆)゚∀゚)∀゚)゚)━━━━━!!」だったでしょう。
平成の病んだ読者は、このなんでもない数行に秘められた「心の変化」(姑息さともいう)から、
康成のストーカーとしての資質を、ありありと感じ取ってしまうはずだw
この後、新進作家の川端は、踊る少女たちに魅せられていきます。
舞踏や歌劇を見るため、異常な熱心さで劇場に通っています。
「一輪の花にも舞踏の夢は籠(こも)る。女の美しさは舞踏に極まる。」とか、うわ言のように語っておられます。
あげく、浅草の劇団カジノ・フォーリーの踊り子・梅園龍子を自宅に引き取って世話しますから。
◆YouTube「踊る!梅園龍子」…かなりイタイ踊りっぷり。あばたもえくぼに見えるくらいの妄想力がないと…(´ヘ`;)
少女三昧の日々が続き、躍動するモダンな「浅草紅団」。急展開が舞い踊る「花のワルツ」。戦後には可憐な「舞姫」も。
どれも、少女のしなやかさ、冷たさ、体温、肌の匂い、吐息…といった、五感を駆使した細々としたフェチすぐれた細部の描写に満ちていますヽ(´ー`)ノ
浅草紅団・浅草祭 (講談社文芸文庫)
川端 康成
¥ 1,103 / 講談社
( 1996-12 )
通常24時間以内に発送
by AMAZ君(改)
戦争の時期を経て、新感覚派というような意匠もはるかなうたかたとなり、心友・横光利一ら、友を亡くして。
私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。
―川端康成「島木健作追悼」昭和20年
康成の中で、少女はもう踊らない。
生命の象徴であったアメノウズメのような少女たちは失われ、代わりに魔の気配をもった少女が幻視されはじめます。
「みづうみ」「眠れる美女」「片腕」「たんぽぽ」と、闇の中に腐敗した花を咲かせていく晩年。
ここでも主題は「少女を追うこと」。
とりわけ「みずうみ」は、完全なストーカー小説。
しかし、少女は霧の中にたたずみ、死んだように眠るか、虫のように這う片腕か。
生命でも生き物でもなく、物体ですらなく、少女物質。
それは、追いかければ死をもたらすもの。
晩年、色紙に、「佛界易入 魔界難入」という一休の言葉をよく記したという川端。
人が住みえないゾーンへの旅路。
この頃には、京を舞台にした双子姉妹の物語「古都」も書いていますが、睡眠薬を多用しての執筆、中毒で十日間意識不明。
目覚めた後、「古都」に書いたことをまったく覚えてなかった、とあとがきにあります。
そして、この時期のあと、「たんぽぽ」の途中でノーベル賞受賞となり、あとは三島の自決、そして川端自身もガス自殺。
少女の目が黒いみずうみのように思えて来た。その清らかな目のなかで泳ぎたい、その黒いみずうみに裸で泳ぎたいという、奇妙な憧憬と絶望とを銀平はいっしょに感じた。
教師の桃井銀平は、教え子の久子のあとをつけるうち、関係を持つようになる。
久子の友人の告げ口で、銀平は浮浪生活に落ち、
記憶と現実、幻想と事実の区別もあいまいなまま、放浪先でも美少女を見かけると、ストーキングを重ねます。
ストーカーの内面に奥深く入り込んだ小説であり、またストーキングされる少女の内面へも這いこんで行くもの。
こんなに心ひかれる人はこの世に二人といないだろう、そういう人に道ですれちがったり、劇場で近くの席に坐り合わせたり、…そのままで別れるともう一生二度と見かけることも出来ないんだ。かと言って、知らない人を呼びとめることも話しかけることも出来ない、人生ってこんなものか。そういう時、僕は死ぬほどかなしくなって、ぼうっと気が遠くなってしまうんだ。この世の果てまで、後をつけてゆきたいが、そうも出来ない。この世の果てまで後をつけるというと、その人を殺してしまうしかないんだからね。(32頁)
行が変わると、時間や場面が不意に飛ぶ。
いきなりの回想シーンになったり、別な登場人物の別なエピソードが始まったり。
ところが、それらの諸断片がだんだん、「みづうみ」「醜い足」というような鍵言葉を通じて、象徴的につながっていきます。
バラバラだった事件や登場人物たちが、ありえない偶然でひとつに結ばれていく。
*1
川端作品には一般に言えることですが、登場人物が頻繁に幻や夢を見る。
デヴィッド・リンチともよく似た、幻想性の非常に強い作品。
主客の区別が失われていく、というか。
追う側と追われる側の区別があいまいになり、ストーカーの言い訳によくあるように、
彼は少女と一体化してしまう。
追う側と追われる側、過去と現在、別々なはずの事件・人物…それらが、少女という、あわいの媒介を通じて、融合していく。
銀平があの女のあとをつけたのには、あの女にも銀平に後をつけられるものがあったのだ。いわば一つの同じ魔界の住人だったのだろう。銀平は経験でそれがわかる。(19頁)「鬼ごっこという遊びがあるが、男にたびたびつけられるなんて、悪魔ごっこじゃないの?」
「そうかもしれませんわ。」と宮子は神妙に答えて、
「人間のなかに人とちがった魔族というようなものがいて、別な魔界というようなものがあるのかもしれませんわ。」(58頁)この時も、柴犬をひいた少女が一人、坂の下からあがって来るだけだった。いや、もう一人、桃井銀平がその少女の後をつけていた。しかし銀平は少女に没入して自己を喪失していたから、一人と数えられるかは疑問である。(67頁)
屋敷の横の側溝に隠れて、少女が恋人と出かけていく様を見上げ、帰ってくるまで何時間もそこで待つという、江戸川乱歩のようなシーンもあります。
梅原猛はこれを「作者の実体験」ではないかと言っていますが( ;´Д`)
「見る」という行為は、自身(見る主体)を消してしまう。
映画のカメラが、シーンの現場にいながら、けっして映ることのないように。
「見られる対象」だけがあって、「見る主体」は存在しないものになる。
屋根裏や椅子の中や側溝に「カメラ」は隠され配置する。
川端が若い頃親しんだ欧米のモダニズム文学の気分は、映画という新ジャンルの衝撃から生まれたもの。
世界を「見る」が、自分はそこに存在しない。
この希薄さが川端と平成とのつながりなのかもしれない。
そして、それを媒介するのが、両義性のあわいに立つ空虚な求心点…つまり、少女であること。
最後にちょっと怪談めいた怖い話を。
「片腕」は川端の最晩年の作品。このあとは、ノーベル賞で忙しくなり、最後の作品のひとつといっていい。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」
と印象的に始まる、幻想小説。文字通り、片腕をはずして、初老の男に貸し出す。男はその片腕と一夜を過ごす。
片腕は、「まだその乳房に他人の手が触れたことのない」少女のもの。
最近私は、「一条戻橋で渡辺綱が鬼の腕を斬る」という有名なエピソードが、ゲルマン伝説のベーオウルフにそっくりだという記事を書きました。
鬼(グランデル)の腕を取り戻すため、英雄のもとへ「母」なるものがやって来る。
それは、名剣の由来にまつわる伝承でもあった。
□AZ::Blog : 夜歩く13 「ケルト=京都説」
ベーオウルフで、「母」は湖からやって来ます。
古事記で言えば、「根の国、妣が国」
幸いのあふれる母の国・常世・竜宮城であると同時に、死の国・黄泉でもある。
川端「みづうみ」の湖は、銀平の母の故郷の湖。
銀平の父はその湖で、溺死とも殺人ともつかぬ形で殺された。村では幽霊が出るという噂もある。霧が立ち込めている。
「片腕」を借りた男が自宅へ戻る道には、霧が立ち込めている。
ヘッドライトだけが見えるクルマ。近づいてくると、朱色の服を着た若い女が運転している。
「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら…。」と私はつぶやいた。「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」
今回のたら本、最初は「夏に来る少女」を集めてみようとしたんです。
すると、その少女たちは、自分が消えるか死ぬか、あるいは知り合った人たちを巻き込んで、消えていく。
あんまり附合するんで、気味悪くてやめたんですが。。
鬼。
…ではないのか。片腕を貸した少女は、鬼ではなかったか。
それを借りた者は、妣が国へ連れて行かれる。つまり、根の国・黄泉へ。
「片腕」を書いた後、川端はノーベル賞を受賞。
華やかな栄誉で気分も一時的には高揚したでしょうが、冷静に思えば作家にとっては迷惑な空騒ぎでもある。
その後、年下の心友、三島由紀夫を失う。川端の剣でもあったはずのミシマ。それが、剣によって自らの命を絶つ。
みづうみはすぐそばまで及び、やがて、立ち向かう剣も失った康成を呑みこんで、連れ去った。
そう。
「片腕」を書いたせい。
少女の片腕は、じつは鬼の片腕。
クルマを運転する朱色の服の女は死神(妣)で、
うしろの席に乗せられるのは、川端自身。
片腕と一夜をともにしたものは、
妣が国へと連れ去られる、それが定めと。
「佛界易入、魔界難進」
『浅草紅団』というタイトルを見て、
「ねるとん紅鯨団」を思い出したのは私だけですか?
何か関係あるのでしょうか?
川端は若い加賀まり子に、料亭で
「もう少し、スカートをあげてごらん。」といったとか。
ド変態ですね(笑)
overQさんの記事を拝見していると、
どうして川端がノーベル賞を受賞したのか
不思議になってきます。
でも、今や、日本のロリコンゲームは世界中で
人気ですからね。
川端のノーベル賞受賞はそれを予見したものだったのか!?
こんにちはー。
川端なんですね!!
川端=ストーカー&フェチってうんうんうんとうなずいてしまいました。
・・・いや、そんなに読んでるわけではないんですけど(^^;)
伊豆の踊り子にしても“健全”さからずれてる視線ですもんね。
「片腕」は妖しさ全開で好きな作品ですが、これこれ!まさにフェチ!!
そして「片腕」を書いて鬼をひきよせてしまったなんて、うわーゾゾッとします。
夏にぴったり、ですが、怖い・・・。
★LINさん。
「浅草紅団」は、じつは「あさくさくれないだん」と読むのです。ベニじゃなく、クレナイ。
ヘンな読み方w
実在の浅草カジノ・フォオリィをリアルタイムに描いていくもので、
小説と現実、虚実が連動するという、かなり斬新な試み。
実際、この作品によってカジノ・フォーリーは一世を風靡するようになったそうです。
文体も、ものすごく奇をてらったハイテンション。
若い川端がかぶれていた、当時のモダニムズの気分が、よく出ています。
カワバタというと、ノーベル文学賞も受賞して、「美しい日本」を代表するイメージで語られがちですが、
じつはすごくモダンでポップ。お調子者なところもある人。
浅草に惹かれる、血が騒ぐ。
あと、今回読み返してて気づいたんですが、意外と日本の古典が読めてない(笑)
ミシマもそうなんですが、「近代小説の末期」に位置する人たちで、その宿命を離れられなかったようです。
典型的な小説中心主義読み方で、古典を読んでしまってます。
ガイジンさんが「ニッポン、ウツクシデスネ」と言ってるのと通い合うところが無きにしも非ずかも。。
安倍っちの「美しい日本」は、川端のノーベル賞演説「美しい日本の私」から来てるはずですが、
なかなかビミョーな問題をはらんでいます。
日本を見つけるのは、日本人にとっても、けっして自明じゃなくて、
宣長から柳田まで、悪戦苦闘してることを思いました。。
(と、難しげに締めくくってみる。)
★nineさん。
川端、病んでます。
現代日本の闇と似通ったところのある症状w
川端当人はみずから意志して、どんどん病のほうへ闇のほうへ、進んでいったようですが。
「片腕」は、やっぱり鬼が取り返しに来たんだと思います(怖
川端は、渡辺綱の鬼退治のエピソードは知っていたと思いますが、
「片腕」を書いてるとき、特に意図はしてなかったと思う。
でも、結果的には、これは戻橋のエピソードのヴァリエーションになってしまっています。
「母なるもの」が康成の魂を、黄泉へと連れ戻す。。
「片腕」のあと、「たんぽぽ」という作品を書こうとした川端ですが、
この作品は「人体欠視症」という奇病の少女が出てきます。人だけが見えず、誰もいない風景だけが見える少女。
もうカワバタは、少女の視覚する世界の中では、見えない存在=非存在になっている。
そんな中で、ノーベル文学賞受賞ですから、現実の大騒ぎがすごく空虚に思えたにちがいない。
もはや、自分は、この世界に実在しないようなものなのだから。
晩年の川端は、睡眠薬中毒もあって、奇行も多く、
ほんとにホラーみたいな数年だったようなんです。
「片腕」の呪いは、実在するのか。。
『伊豆の踊子』というタイトルがなんとなく嫌いで、
川端康成は全く読んでいないのです。
我ながら凄い理由だとは思いますが。
最近、美術愛好家としての川端康成が気になっていて、
そのあたりの本を読もうとしていたところへ
川端ロリコン説。うはははは。
映画『伊豆の踊子』に主演した17歳の女優に
思わず顔が緩む川端康成、
オーギュスト・ロダン『女の手』を凝視する川端康成、
縄文土偶『女子頭部胸部』(ハート型土偶)を前に
乙女のように微笑む川端康成
・・・等の写真を雑誌で見たことがあります。
さらに、川端は、ミス鎌倉コンテストの審査員を
勤めたことがあるのですが、その時に
審査員席から美女達の写真を撮っています。
やっぱりアヤシイ、川端康成。
次回主催者に当選しましたざれこです。こんばんは。いろいろ教えてください・・
川端はつい最近、新潮文庫の「眠れる美女」と(ああ、あれも少女、ですね)、同時収録の「片腕」も読んだところでした。車のシーンを思い出して今ぞっとしています・・・。
「眠れる美女」にそもそも、死の臭いが濃厚に漂っていて、川端さんが死の近くにいてそこから書いたんだろうなあ、とぞっとしてはいたのですが。
あの文庫、解説が三島なんですよね、それもまた、なんだか・・・。
あまりに死が近くてもう川端はいい、と思ってましたが、この記事で生涯かけて少女を追いかける彼の情熱に触れ(笑)、何となくまた読みたくなってしまいました。私って・・・。
overQさん、こんにちは。
川端康成、やっぱりヘンですよね。(笑)
これぞ文学って感じで祭り上げられてますけど
中学の頃だったか、初めて読んだ時に
なんかミョーな違和感があったのを覚えてます。
「文学」だなんて先入観がなければ、もっと早く気づいたはずなのに!
それに気づいて以来、ジャンル分けは苦手です。(笑)
川端作品では、あらすじを聞く限りまるでラノベのような
「乙女の港」が読んでみたいなあと思ってたんですが
「片腕」、いいですね。読んでみたいです。「たんぽぽ」も。
川端にはベーオウルフのような甲斐性(?)はないでしょうし
あっさり連れ去られてしまったんでしょうね。
いや、むしろ嬉々として連れ去られたのかも…。
★菊花さん。
川端コレクションに、キスリングの「少女」があって、その絵をアップしようかなと思ってました。
(スキャナ使うのがめんどくさくて、やめちゃったんですがw)
川端の全集で、それぞれの巻の巻頭に川端のコレクションが出てくるのがあって、それでいっぱい見ました。
ノーベル賞の賞金も美術品を買うのに消えたのかなぁ。
川端の世代の文士は、すごく儲かったらしくて、今の出版界ではちょっと考えられないくらいだったらしいです。
骨董は、おおもとは戦国武将の財テクに端を発していて、
金余りになったとき、どんな形で資産を運用するかということで、骨董という裸の王様が生まれたらしいです。
紙幣が、印刷の模様がキレイから価値があるわけじゃなく、たんなる取り決めとして価値なのと同じで、
骨董もマネーの形態の一種、そのものの価値は「あとから派生した」もの。
少女の内面や実在性などまったく無視して、愛玩=哀願した川端。
それは、骨董という、もともとは空虚であるはずの記号(マネー)に、「美」を見出していく姿勢と、同じもの。
たぶん、この倒錯したスタンスが、川端の魅力であり、限界でもあるんだと思います。
★ざれこさん。
次回、主催者さま、よろしくお願いします☆
お題を出していただくのが、主催者さまの主なお仕事。
あとは、トラックバックを返ししたり、ご参加ブログにコメントを書いたりと、適当にコミュニケーションしていただければ。
開催の間隔は、一ヶ月前後(3〜5週間くらい)が定着しているようです。
わからんこととかございましたら、何なりとお知らせ下さいませ(といっても、私もよくわかってるわけでもないのですw)。
川端と死。
カワバタという人は、幼い頃に両親を亡くしてて、おじいさんに育てられてます。
初めてまとまった文章を書いたのは、祖父の死を看取る日記(十六歳の日記)。
本人は、それを書いた記憶がなく、日記を発見して、作家となっていた当人が驚いています。
「葬式の名人」と自称するほど、少年時代からずっと、死がまとわりついてた人。
川端の傑作というと、「山の音」と「眠れる美女」をまず思います。
「山の音」は、遠い山鳴りが死の象徴になっています。
生よりも死のほうがリアル。物体としての手触りがある。
踊る少女は、彼にとって、生に開かれた唯一の明るい扉だったはず。
それが、「眠れる美女」になってしまうということ。
深い恐怖がそこにはあります。
やばい人です。。
★四季さん。
カワバタは、両親を早く亡くしてて、「母」というものを知らない。
祖父に育てられ、祖父の死を看取ることから、人生の物心がついた人。
少女という存在が、生にすがりつく、唯一のよすがだったのかもしれません。
川端の少女観は、まったくのジコチューで、少女に内面や個性などは一切認めない(笑)
自分が思うがままの少女像。
少女の内面を語るときは、それはじつは自分自身の気持ち。
でも、ここまで徹底されると、批判というより、まちがっているとか正しいとかを越えた、本気を感じてしまうw
「乙女の港」は、中里恒子が代作したものといわれています。
でも、川端はこの作品にかなり興味をおぼえて、だいぶ筆を入れたんじゃないでしょうか。
(代作は当時の金回りのいい文士には、よくあって、新人養成制度にもなってたよう。川端も若い頃、菊池寛の代作をやっています。)
ワルツお姉様が、吉屋信子先生の作品をあげておられますが、「お姉様」系、きてます、熱いです。
四季お姉様も、ぜひこの「お姉様」ブームに便乗下さいませ(゚ー゚*)
少女に生まれたしあわせは、麗しのお姉様を持つことなの。。
うひゃー…偏執狂的な萌え妄想ですか。。川端。
「片腕」。いいですね。怖そうですけど…。
闇の中から腕が這い出してきて追いかけられる…、って、なぜか思い出したのですが。。何の話でしたっけ?
うつつならぬ深い幻影に、取り込まれてしまったのですね…(怖)
★天藍さん。
「片腕」「眠れる美女」そして「みずうみ」。
川端の晩年を代表する作品で、どれもすごく幻想性が強いです。
エロいけど、生の匂いはかすかで、死の雰囲気が濃厚。
ノーベル賞をとらず、そのまま書いてたら、この系列の作品がもっと増えてたように思え、
「幻想作家」としての川端として世に残ったかもしれません。
ああ「片腕」いいっすよね。
冒頭の一言に、やられます。
そして、めくるめく美しい日本語。
私の高校の文芸部の顧問が「掌の小説」を読めと、あれを見習えと、耳にタコができるぐらい言っていたので、ある意味川端康成は師匠ですww
猪瀬直樹の「マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一」は、知ってるようで知らない康成を描いてて、面白いっすよ。
★壇さん。
カワバタは、よくもあしくも、ここ百年ほどのニッポンを体現した人かもしれません。
古い日本の伝統を受け継いでるように言われがちで、川端自身そうふるまったのだけれど、
ほんとは大正から昭和初期の世界流行=モダニズムから出てきて、出られなかった人なのかも。
川端の文体は、漢字の使い方が意外と淡白。
枕草子を基準に置いて「新感覚」したさまが見て取れます。
清少納言…清らかな少女ぶりの元祖で、たぶんレズビアンで、そのうえプラトニック(;・∀・)
そういうものに、カワバタって、あこがれたんだと思うんです☆
初めましてこんにちは。
とっても遅れてしまいましたが、たら本TBをありがとうございます。
こちらの不具合で今TBができないのですが、すみません。
川端康成、「『片腕』好きだなあ」と単純に思っていたものの、こうやって改めて見ると、怖い。この怖さの原因は…ストーカーなのか(笑)!そうか!と今更納得してしまいました。
同じく猪瀬直樹の『マガジン青春譜』で彼の一端を垣間見た気がしましたが、作品自体をもう一度ちゃんと読んでみたくなってきました。川端、楽しいなあ。
こんにちは。
お久しぶりです。
川端さんはまだ読んだことがないのです…有名なのに。
overQ さんの目の付け所というか紹介のしかたって面白くて読んでみたいー!となります。
「片腕」は、なかなか面白そうですね。
図書館で探してみます。
★ninnyさん。
こんにちは、こちらこそ、はじめまして!
川端は、肩書きだけ見ると堅苦しいようですが、
けっこうツッコミどころ満載の人w
いろんな意味で時代を体現してるとこがあって、
今となってみれば、そのズレもすさまじいのかもしれません。
戦前、少女向きに書いた作品もわりとたくさんあるのですが、
それらもかなり奇妙キテレツ摩訶不思議な世界です☆
★椿子さん。
こんばんは。こちらこそ、大変ご無沙汰しております。
たら16以来でしょうか(;・∀・)
でも、じつはRSSリーダーでけっこう記事は読ませていただいてるんですよ!
川端は、ほんとはとても幻想性が強い作風の人。
また、モダンさや、変化球に富んだところもあり、
ほんとは直球のブンガクを投げることが出来ないタイプと思います。
「ノーベル賞作家」「美しい日本」…といったイメージとはだいぶちがった、ヘンな人(笑)
「みづうみ」「眠れる美女」「片腕」
同じようなモチーフを、
書きぶりとか手法はいろいろバリエーションをもたせて書き分け、
どれも味わいが少しずつちがって、面白いです☆