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夜歩く18 「秦キョン1―太子道からアハハの辻へ」

written by overQ
September 17, 2007

百鬼夜行を追う、夜歩くシリーズ。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、
ふらふらと書き連ねてきたのだけれど、
そろそろ「結論」めいたものも思わないではないのです。

端的にいえば、秦氏のこと。
平安京以前、京の地は秦氏のテリトリーだった。
桂川から比叡山まで、広域に展開。
そのど真ん中に、平安京は出現したのです。

すべてはそれが原因ではなかったか。
百鬼夜行も御霊会も天神さんも。
秦のグループにあったものの末裔が、
謂わば「昔どおり」やろうとしただけ。
それが京、いや日本の来歴とさえ。
…そんな可能性について。


六十四の鬼「あははの辻から太秦へ」



秦氏の京

怪異横行する、あははの辻
二条大宮。神泉苑の北東、内裏の南東角。冷泉院の南。

AZ::Blog : 夜歩く〜百鬼夜行を追って 1

平安京だけ見てると、ここはそういう場所なのですが、
グーグルマップをもう少し引きで見てみると、
現在の二条城の東にあたるこの地、
じつは太子道と堀川が交わる十字路の西、辻べりだとわかる。

太子道。
太秦と京の町を結ぶ道。
今の二条城から広隆寺へと、まっすぐ西進する道で、
聖徳太子信仰の盛んな中世ににぎわったという街道。
今でもたどると、古い商店街がつづき、
中間地点には「壷井」という、とても有名だった井戸も残されています。
もとより大昔、平安京よりずっと以前から続くはずの道。
あるいは秦氏の恋路であったかもしれない道。。

広隆寺は、秦氏の寺。
国宝の弥勒菩薩像で有名です。
秦氏の大立者、秦河勝が聖徳太子から譲り受けた半跏思惟像。
この像をまつるため建立したとされる蜂岡寺。
秦公寺とも呼ばれました。蜂岡のハチは、ハタでしょうか。
その後裔と目されるのが、今の広隆寺。


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六十五の鬼「秦氏の京都」

あははの辻に戻る前に、
秦氏のグループが京都、すなわち山代国
(ヤマタイ国ではなく、ヤマシロと読むw 山城、山背とも。聖徳太子の息子は、山背兄。)
に展開していたさまを見ておくと。

蚕ノ社は下鴨社そっくり

広隆寺や蚕ノ社、蛇塚・天塚などがある太秦は、地名どおり、秦の地。
太子道からさらに西に行くと、桂川。
嵐山の渡月橋に行き当たる。

桂川は、大堰(おおい)川とも呼ばれます。
秦氏がこのあたりに、灌漑用の巨大な堰提を築いたから。
「河勝」の名は、桂川の治水と関係してるのかもしれません。
(太秦をウズマサと読む謎については、たくさん説があるのですが、
古代朝鮮語で、「ウズ=大水、マサ=治める」、
つまり「河勝」と同意と、いえなくなくもなくないかも。) *1

すぐれた鉄器を持ち、土木・建設を得意とした秦。
養蚕、酒造、機織も、秦の得意とするところ。
技術大国のはじまりは、このあたりにあるのでしょうか。

さらに桂川を南に下ると、松尾神社。
松尾社は、秦氏の大きな神社です。まつるのは、大山咋神。
このカミサマは、比叡山(日吉社)と同じ。鳴り鏑(かぶら)の神。

秦氏は、京の地の北部にいた賀茂氏と深く結びついています。
秦氏は賀茂氏から婿を取り、その婿殿が気に入ったので、
賀茂祭(葵祭)は秦から賀茂へ譲与された、とも(「秦氏本系帖」)。
「川を流れてきた丹塗り矢に触れて、タマヨリヒメが妊娠する」
という雷神の神話が共有される、賀茂と秦。

鴨と波多は、婚姻で深く結びついていた。

上賀茂社の宮司は多く、秦氏が務める。
また下鴨神社は、蚕ノ社(木嶋坐天照御魂神社)とよく似てる。
土用の丑の日に流れにひんやり足を漬ける、御手洗祭も共通。
上の写真も、葵紋が下鴨そっくり。


六十六の鬼「カミナリとイナリの結婚」

もうひとつの秦氏のテリトリーは、伏見稲荷。
伊侶具秦公が創始、と山城国風土記逸文。
伊侶具が餅を的に矢を放つと、餅が白鳥になって飛び、
落ちたあとに稲がはえたので、イナリというんだ、と。

このフシギな餅と矢の地名伝説。
じつは、丹塗り矢による妊娠のバリエーションかなと思う。

雷と稲の結婚。
そして、ウツホ(空ろな穂)の中に小さい英雄がコモ(=米)りつく。
太陽と水の結婚の結果、実がなる、といってもいい。
太陽神が、雷とか矢とかになって地上に降りてきて、
稲穂のような鈴なりになってるもの
神さまを依りつかせる御幣とかササラ、ホウキと同じ形)
にとり憑く。
そしてウツホの中にチャージされたものは、英雄=荒神となる。
災厄と福富をともにもたらすもの。
英雄は死なねば(天に帰らねば)ならない。それは憤怒の神、厄神でもあるから。
アラ神さまを天に返すと、「実」が残るわけです。
桃太郎から一寸法師にいたる、スクナヒコナの神話の群れ。
あるいは、尸解仙にも常世虫にも習合する思考。
今のヒーロー物でさえ、この型から逃れられてないという、驚くべき事実。

カミナリ=太陽の子、雨をもたらす天神。虹、蛇。
稲の穂=神のよりしろとしてのウツホ。
米=こもりついた神。
ワラを焼く左義長(とんど)=神が天に帰還。

イナリの説話だと、
矢=よりつく神、
餅=よりしろ(神がいったん抜けた殻)、
白鳥=帰っていく荒神、
そして稲の実りが残る、という配役。

農作物の生態、農作業の手順が神話化され、
さらにここに婚姻のイメージも重ねられる。
(場合によっては、鍛治の工程も習合される。)
成人した男は山にこもってカミとなり、仮面を歌舞って降りてくる(雷神・天神)。
田植乙女は巫女でもあり、物忌みして神の依りつくウツホとなった。
春の作物の植え付けとともに、田楽があり、カミナリとイナリは結ばれる。

あらまし、そんなようなこと。
これがプロトタイプとなって、無数のバリエーションが作られる。
記紀や、中世の説話、昔話、民間風俗など、それらがさまざまなレベルで、ちらほらする。

山城国ではとりわけ、カミナリとイナリの婚礼が、秦と賀茂の結婚に重ねられていた。

それともうひとつ重要なこと。
それは、この思考パタンのバリエーションとして、
御霊や怨霊、疫病払い、エクソシスト
…京の町によりついた厄介な神に帰ってもらう、という思想がありえること。 *2

八坂の塔

あと、六角堂や八坂の塔(法観寺)など、聖徳太子がらみの遺跡。
秦氏との強い結びつきを想定できそう。

三善清行の息子で、役の行者に学んだ僧、浄蔵貴所。祇園祭の山伏山のご神体
浄蔵は、八坂の塔が傾いた時、今の庚申堂あたりで、童子二人を連れて祈祷、
鴨川を逆流させた後、塔をもとどおりにした伝説がある。

施工・秦組の技術力をにおわせるカタリ。
そして、一条戻橋で、父・清行の葬儀に出会い、祈祷で再生させたのも、浄蔵。

三善氏も渡来系らしい。石工のメッカ北白川と深く関わる。
さらには、清行は菅原道真の隣にいる人物で、
浄蔵は最初に怨霊として出現した道真と対決する。
これらの背後に、工事請負人・秦グループの影を思うてみる。

(秦グループは、北部の賀茂・出雲氏、東部の小野・土師・粟田・八坂氏も連合。
でも私の調査能力の限界から、わかりやすい秦をたどります(;・∀・)
粟田口、粟田神社の粟田氏。鍛治師で、八坂と結んでいる。
粟田という名が、この後の話と関わることを、少しメモっておきます。)


六十七の鬼「播磨のあはは」

で、再び、あははの辻へ。
播磨風土記にも、「あはは」という地名が出てきます。

鴨波(あはは)の里。農土は中の中。
昔、大部造らの始祖・古理賣が、この野を耕して、多(さわ)に粟を種(ま)いた。
ゆえに、粟々(あはは)の里という。
この里に、舟引原あり。
昔、神前村に荒神がいた。いつも、往来の人の舟の半分を奪った(沈めた)。
このため、往來の舟はことごとく、印南の大津江で留め、賀意理多の谷より引き出して、赤石(明石)郡・林潮に通し出た。故に、舟引原というと。
「播磨風土記」

「鴨波の里」と書いて、「あははのさと」と読む。
大部造(おおとものみやつこ、任那からの渡来人らしい)たちの始祖、古理売(コリメ)というものが、野を耕して、たくさん粟を蒔いた。
それで、粟々の里という、と。
「粟々」で、あはは。現代仮名遣いで書けば、「あわわ」。

面白いのは、播磨風土記のこの条の続き。
この里に舟引原がある。
ここには舟で通う者のうち半分の命を取る荒神がいた、と。
旅人たちは荒神を避け、舟を陸に上げ、引いて歩いたので、船引の地名。
播磨の「あはは」でも、やっぱり辻には鬼が出たようなのです。

宮本常一さんは最晩年、畑をハタケと呼ぶのは、秦氏が広げた農地・農法だから、という説を詳細に検討していた。
秦氏は、京都(山背)以外に、近江、美濃、若狭、播磨、讃岐、伊予、さらには関東まで大きく展開。
六世紀半ばには全国に7000戸、十万人を越えていたと推測される。

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秦氏のハタは、焼畑に対する定畑。
野山を焼き払うのではなく、鉄器(クワ)で開墾した畑
みずから未開地を開拓するほか、
焼畑をおこなう先住民と近しくなり、
焼畑のあとに桑(クワ)を植え定畑とし、養蚕に結ぶシステム農業を指導した、
というようなことを宮本常一は考えていた。

アワは東南アジアでも「アワ」と呼ばれ、焼畑に植えるものだけれど、
「粟々」と繰り返す播磨のアワワの里、
風土記の記述から宮本さんは、
大量に連作する、定畑の感触を得ているようです。
つまり、粟畑のあるところは、秦の開発した畑であろうと。
最晩年、宮本常一は「すべてがひとつにつながった」と身近な人にはいい、
記紀、風土記、万葉を熟読、本は書き込みだらけだったそうです。


拡大地図を表示

播磨のこのあたりは、たぶん秦の地のはず。
今の加古川市加古川町粟津のあたりでしょうか。
(稲美町のあたりという説もあるらしい。)
道真公をまつる粟津天満神社、さらに加茂神社があります。マックスバリュもあります。

アワワに「鴨波」の字を当てたことが、
鴨と波多の婚姻(あわい)をなお思わせます。


→次回へつづく(全3回予定)。

※フォト蔵さんの調子が悪いらしくて、画像をクリックしても、大きくならないです。いやむしろ、小さくなるw
前にアップロードした分(八坂の塔とか)は、ちゃんと大きいままなんですが。
なんか難しいことになっとるみたいで、土曜日から問題になってるけど、いまだ復旧せず。
フォト蔵さんにクレームコメントを書くべきだろかと思案中☆ がんばって下さいね。


*1 : ハタは古代朝鮮語で、海を意味するとも言われる。
荒海で、荒れた水流を意味し、「波多」。それは太秦の「ウズ」もそう。
秦は、月読神や市杵姫もまつり、宗方とつながる海の神をまつる。
つまり、秦とは、はためくワタツミ、荒れた水の波のことだろか。
ハタ(織)をウズ高く積んで、ワタツミでなく、ウヅマサと呼ばれたこと。
ともあれ、秦は治水を得意としたんです。

*2 : カミナリとイナリの結婚としての稲作、
賀茂氏と秦の婚姻関係、
また雷神天神の怨霊・菅原道真は、アヤコという名の巫女によって、まつられはじめること、
狐の嫁入りと虹、
竜宮伝説、コノハナサクヤヒメ、太田種子…などなど。
これらを並行するものとして見てみること。



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