前回のつづきです(「秦キョン」シリーズ全3回の2回目)。
百鬼の横行する二条大宮、通称「あははの辻」。
ここはじつは堀川と太子道が交わる場所。
太子道は秦氏の太秦に通じ、およそ平安京以前から重要な交通路であった。
また、播磨にも「あはは」の名をもつ里があり、そこも秦氏のテリトリー。
「あはは=粟々」説のみちびく先は。。
今、堀川と呼ばれているのは、内裏の東を流れる東堀川。
(西堀川もあって、今の紙屋川が、それに当たるそうです。)
堀川はすっかりコンクリートで固められ、「側溝」という感じですが(泪)、
昭和30年代くらいまでは、もうちょっとちゃんと「お堀」のような川だった。
以前、NHKの大河ドラマで、日野富子が「死体は堀川に流しましたわ」というセリフがあったのです。
昔は、死体が流せたんだ! それで完全犯罪ヽ(´ー`)ノ
今ではぜんぜん無理。濡らすのも難しいよ。昔はよかったなぁ(…て、流したいのか、死体。溜まってるのか、押入れに)。
その堀川を下って、内裏の終わる二条の南が、神泉苑。
神泉苑の池も、今はすっかりしぼんでしまったけれど、
もとはそうとう大きなものだったらしい。
無数の死体を隠すことができたのです!
神泉苑のお池。
以前は、京都盆地が太古に湖であった頃の名残り、と言われることが多かった。
この頃は、堀川の水を堰止めて溜め池にした、とも。
もと自然池だったかどうかはともかく、大きく人の手が入ってるのは確か。
治水土木の得意な、秦グループの仕事と考えられています。
文献に神泉苑が出てくるのは、延暦十九年(800)と早く、鳴くよウグイスから、わずかに6年。
平安京以前から、堀川と神泉苑の池はあったように思える。
堀川・神泉苑は、灌漑用の用水路と満濃池で、あたりには秦のハタケが広がっていたのだろうか。
「拾芥抄」という14世紀初頭の書物に、
平安京の大内裏は、もとは秦河勝の邸だった、とあります。
邸の南に灌漑池を造り、あたりを畑にするのが、
京城建設以前の青写真とすれば、
堀川と太子道の交わる「あははの辻」は、
粟を植えた「粟生の辻」だったか。
では、なぜ粟を植えただけの畑の辻に、鬼が出るのか。
不思議なことに、播磨のアハハの里も、そうだった。
路上の荒神が道をさへぎる、サエの神。
あわわ。あわわわ。あはははは。
平安京の宮中には、園と韓というふたつの神社がありました。
この二社は、遷都以前から存在し、
都造営の時、移動しようとしたら、
「遷しちゃダメ」とお告げがあって、
もとのままにし、宮内省に置いたもの(「古事談」)。
秦河勝邸がここにあったのが本当なら、秦のまつったものでしょう。
園・韓の二神は古事記に、大年神の生んだ神々のシリーズとして登場。
(園は曽富理のこと、と宣長「古事記伝」)
渡来人のまつった神だろう、と言われます。
大山咋神も同じくだりに出てきて、松尾と比叡の鳴鏑の神さまだ、とわざわざ注釈つき。

平安時代の貴族の日記などを見ると、
よくおまつりされてたはずの園韓二社ですが、
中世には途絶えていくらしい。
おかしなことに、今その場所には鵺神社があります。
NHK京都のビルの南側の公園。
あの有名な怪異・ヌエにまつわる神社です。
カミを鵺に仕立て、おまつりするのもやっぱり…秦グループの末裔の仕業ではないのか。
そんな方向へ強引にみちびきたい、この文の論旨(;・∀・)
(上の絵は、国芳。雷神と同じ仕立ててで描いてます。
うーん。北斎もそうだが、キミらは何もかもわかってるんだね。
だからこそ、明治以降、埋もれたわけか。ガイジンだけが評価して。
秦の末裔。歌舞音曲の民の、印刷技術への居残り。)
*1
これと関連して、ふと思うのは、鬼殿。
聖徳太子の六角堂の東隣にあった、怪異の現場。
今昔物語集・巻27の冒頭は、こんな話。
今は昔、此の三条よりは北、東洞院よりは東の角は鬼殿と云ふ所なり。其の所に靈有りけり。
其の靈は、昔未だ此の京に都移も無かりける時、其の三条東洞院の鬼殿の跡に大きなる松の木有りけり。其の邊を、男の、馬に乘りて胡録負ひて行き過ぎける程に、俄かに雷電霹靂して、雨痛く降りければ、其の男否過ぎずして、馬より下りて、自ら馬を引へて、其の松の木の本に居たりける程に、雷落ち懸かりて、其の男をも馬をも蹴割き殺してけり。然て、其の男、やがて靈に成りにけり。
雷神の必殺技ケコロス(蹴殺す)がサク裂。
場所も六角堂の西隣、「未だ京の都移も無かりける時」。
雷神、蹴り裂く、太子の隣と三拍子そろった、見事に秦の伝承。
今昔では、こんな怪異になっているんです。
秦グループのことについて、それがいろいろ呪怨な気分でいることについて、明言しているとさえ。
秦に関わりのあった遺物に、怪異がまとわりつく。
今昔巻27、このあとの話は、源融の川原院の怪異。
最初の日本庭園といわれる塩釜の川原院。土木のにおいがします。
文献の表舞台で演じる役者たちの影で、大道具小道具を用意するものが、
「もうひとつの物語」を捏造し、ひそかに浸透させているのではなかろうか。
そう。それなら。
あははの辻にも、ある。
平安以前からあって、もとは神とまつられたが、怪異の伝承に覆われていくものが。
西陣の住宅街に、唐突にご鎮座される、岩神さま。
そもそも京都の隠=鬼をめぐる旅は、この岩石から転がり始めた。
あの頃はわかっていませんでしたが、じつはこの岩神さま、
もとは西陣にいらっしゃったわけではないのです。
なぜか、この岩のことは、文献ですごくたどれます。
京の町の人々は時代を問わず、この岩が気になって気になって仕方がないらしい。
西陣に来る前は、今出川南の路傍に転がされていました。
その前は、岩神さまを内裏の築山の立石に使ってみたのです。
怪異があって、放り出された。
放り出されたあとも暴れたので、そこで祀られた。(「京雀」)
庭石にされる前には、
この石は、中山神社というところにありました。
中山神社は今も、二条城の南のあたりにあります。
中山神社のある小さな通りは、岩上通りと呼ばれています。
細いわりには、南北にじつに長く伸びる通り。堀川の補助線。
大通りを通れぬものは、むしろこちらを活発にお蔭参りした。
通りの名の「岩上」はもちろん、中山神社のご神体が、本来は岩神さまであったことをしのばせるもの。
この中山神社も、じつはもともとは、ここにはなかった。
もう少し北、今の二条城の中、つまりあははの辻の東北、
冷泉院の中にあった。
ずばり、あははの辻に岩神さまはあった、といってもいい。
冷泉院の池の中島にあった中山神社に、
「火の神」を祝して岩神さまがまつられていたのです。
そののち、岩神さま、光を放って、
「車の行き来が激しいので、もうここにいたくない」
とお告げになって、
それでたぶん禁庭の石にされたってことなんでしょう。(「古事談」)
その前がまだある(笑)
天台宗の智証大師円珍が、李延考という商人の舟で唐から戻る途中、この時、神さまが「岩」であったかどうか。
船にざんばら髪の翁が出現。
新羅の神を名乗り、和尚を守護すると告げ、姿を消した。
この神を、大津の三井寺の北に祭った。
その後のいきさつがわからんのですが、同じ神さまを
冷泉院におまつりすることになった。「山城名勝志」
ところが、別な履歴もある。
神社の前に立ってる、京都市の案内板によると。
延暦13年(794)に桓武天皇の勅命により建立されたと伝えられている。
素戔鳴尊を主神とし、朝夕、内裏の門を守護するという櫛石窓神・豊石窓神のニ神を合祀する社で、石神(岩上)神社ともいわれる。
嵯峨天皇の後院(退位後の御所)冷泉院の鎮守社として崇められたと伝えられ、慶長7年(1602)、二条城造営により現在地に移転したが、天明8年(1788)の火災にかかり、現在の社はその後再建されたといわれる。社名は、この地が鎌倉時代の内大臣中山忠親の邸跡に当たることに由来すると伝えられる。
何が何だか。
京の町、各所をゴロゴロと転がりたおす、岩神さまのロックンロールな来歴。
移動の命令を出す人よりか、このデカい岩石を運んでた「手」が気になる。民俗学的な好奇心。
名前がない…「岩神」という、そのまんまなところもチャームポイント。
なぜ岩は西陣に行ったまま、取り戻されなかったのか…取り合いになったんだろうか…いろいろ謎めく。
西陣の岩神さまも、岩上通りの中山神社も、ともに安産・母乳・子育てのご利益。
江戸時代には厚く信仰されたといいます。
(中山というと、チューザンと読む岡山の中山神社があるけれど、柳田国男は「石神問答」で、佐夜の中山のような岩神信仰に留意している。)
それにしても岩神さま。
平安京以前から、あははの辻、
神泉苑のお池の北、堀川ぞいにあったとして、
いったい何者であったのだろうか?
秦氏にとって、粟々にとって、この岩は何だったのだろう?
また、岩を西陣にお祭りした人々は、いったい何者なのか?
次回へつづく。