
妖怪、泥田坊。
鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」に描かれた姿。
詞書によると、
むかし北国に翁あり。
子孫のために、いさゝかの田地をかひ置て、
寒暑風雨をさけず、時々の耕作おこたらざりしに、
この翁死してより、その子、酒にふけりて農業を事とせず、
はてにはこの田地を他人にうりあたへければ、
夜な夜な目の一ツある、くろきものいでゝ、
「田かへせ、田かへせ」とのゝしりけり。
これを泥田坊といふとぞ。
前回の記事で、片目片足の巨人、ダイダラボッチの正体を書きました。
太陽を目とし、雷を足とする、天そのものである、と。
この神が、大地と交わることで、農作物や、あるいは鉄器生産が出来る、という神話。
イナヅマとなって地上の稲穂(ウツホ)に種付けをし、「小さ子」であるイナダマが宿る。これが実りであると。
泥田坊。田に現われる片目の怪物。
思いっきり零落していますが、ダイダラボッチのなれの果てでしょう。
「泥田坊」という名も、もとはダイダラボッチから来てるはず。
これまで泥田坊は、あまり熱心にはダイダラに結び付けられなかった。
それは、ダイダラボッチが鍛治に関わりがあるものの、
田んぼとどう関係するか、わかってなかったから、と思います。
鉄器(鍬)で耕した田んぼなんです。
そして、稲妻が落ちて、稲に種を植え付け、コメが実る。
そのイナヅマが、ダイダラボッチの巨足。太陽が大地に結ぶ蹴り。
そういう信仰を持つ人たちが、鍬で田畑を開拓した。
画期的性能を持つ鉄器をになうのは、秦グループ。
そう、いちおう呼んでみている人々(宮本常一さんの晩年の探究によりながら)。
性能のいい鉄器によって、
土木・建築・灌漑・井戸掘り、
農地開発、非焼畑の農法、新しい農作物、養蚕などを、
積極的に地方へ地方へと広めていったネットワーク。
彼らがやって来た地には、長者伝説が残ることが多い。
真野長者、炭焼長者、朝日夕日長者など。
その技術の到来で、生産が飛躍的に向上するせいだと思われます。
(あるいは「生産が向上するよ」という噂を広めるためかも。)
上の泥田坊の絵の詞書を見ると、
「もとは豊かな農民だったのに、息子の放蕩で、田んぼを取られた老人」
となっています。
長者譚も、長者になって終わるものと、さらに零落するところまで語り尽くすものがあります。
泥田坊は、後者の、零落まで語るタイプの長者譚に属しているようです。
秦グループ(仮称)の末裔の広めた、妖怪の伝承と見て差し支えなさそう。
(詞書を吉原と結びつける、すごい説もあるらしいです。それは、でも、時代的に見れば、それなりに興味深いのです。)
あと、ちょっと気になるのが、「田かえせ、田かえせ」という呼び声。
前回、引用した「播磨風土記・託賀(たか)郡の条」。
巨人の神が、いつもかがんで歩いていたけど、空の高いタカ郡に来て、はじめて高いところに出て、背伸びして歩けた、という話。
「田返せ、田返せ」=「高いぜ、高いぜ」?
赤ん坊を「高い、高い」して遊ぶ風習。
天の神である、別雷命や天目一箇神は、屋根を破って天に帰るもの。
赤ちゃんを放り上げるのは、赤子を天神の児とみなしておこなう、神話的な行為だったりするかも。
泥田坊は、天に戻りたがっているのです。
タルタルに落とされたキュクロプスが、ゼウスによる救出を待ち望むように。
(絵の背後にある道しるべの文字が読めませぬorz
「是より 右〜」の後がわからんよ。どなたか読めません?)
一つ目の妖怪というと、カラカサお化けもあります。
傘に、目ひとつ、足は片足。
ゲタ履きで落雷の爆音を再現するのは、道場法師と同じやり方。
泥田坊以上に零落が進行していて、夜道で出会うとアッカンベーするだけらしい。
傘なのは、雨神であったことの記憶によるのでしょうか。
それが、古い器物に悪神がつく、「つくも神」とも混じって。
泥田坊もそうですが、水が多すぎると、零落するんでしょうかね。そんなことはないかw
あと、カサというと、本来、傘にはウツホの役目があって、神が宿るんです。
お祭で、大きな赤い傘が出て、その下に入るとその年は無病息災…などと言われたりします。
そういうことも関係してるのかないのか。カラカサ。
ともあれ、ひどい零落ぶり。
天そのもので、瞳は太陽、足を踏み鳴らせば雷であったはずなのに。
竜や虹の面影すらなく。
神話のバリエーションがどのように作られていくかってことでは、興味深いといえばそうなのですが。
なんか物悲しいや。。
食卓作法の起源 [神話論理III] (神話論理 3)
クロード・レヴィ=ストロース
¥ 9,030 / みすず書房
( 2007-09-22 )
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by AMAZ君(改)
レヴィ=ストロースの神話論理。
アメリカ先住民の、ちょっとずつちがっている、何百という神話の群れの分析から始まる。
この「ちょっとずつちがっている」というのがミソ。
そこにある種の変換法則を見出して、数学でいう「群」の概念を擬似的に用いながら分析するんです。
レヴィさんのような超難度な大技を繰り出すのはとうてい無理としても、
ダイダラボッチも、ダイダラといい、デンデンといい、道場法師といい、泥田坊といい。
ほかにも、これから書く天目一箇神とか、賀茂や松尾の伝承、オオナムチ・スクナヒコナなど、
およそ同じプロトタイプから派生したと思われる、「ちょっとずつちがった」神話群がある。
古事記や日本書紀、また風土記などに出てくる、さまざまな神さま。
でも、読んでると、似たような、でも少しちがう話が、何度も出てきます。
ある神さまのところで出てきた神話が、「ちょっとずつちがって」、別な神さまのところにも出てくる。
いちおう年代順で、系図もたどれるような書き方をしてはある記紀。
でも、ほんとは、別な名前を持っていても、同じ神さまなのかもしれない。
別な場所で、別な人々に、「ちょっとずつちがう」バリエーションで伝承されていた、同じ神話。
ちがう名前の同じ神。
それらを朝廷中心に、しかも時代順に並べようとするのが、記紀のたくらみ。
同じ神話群のさまざまな神話が、重複して構成されることになってるようです。
ダイダラ神話群が、秦グループの開拓とともに伝わったものとすれば、開墾した隔地に同じ神話が広まっていくだろう。
神話は鍛治や農作業・土木作業とリンクしたものだから、その地その地で根づき、バリエーションも生じていきます。
元は同じだが、伝言ゲームのように、「ちょっとずつちがった」、無数の神話が、ばら撒かれていく。
それらをひとまとめにして、強引に集成しようとしたのが、記紀。
しかも、のちの実在の天皇の時代と同じように、支配や婚姻、歴史的順序に並べようとするので、ものすごいことになってしまう。
記紀に登場する神様の名前は、あとづけと思われる、すごく説明的な、長ったらしいものが多い。むしろ、神話のカタリの断章のような。
そんな名前では呼ばれていたわけではないし、また名前がないこともありえるのかもしれません。名を呼ぶ必要がないほど、日常の作業に密接して自明な神。
多くの神話はひとつのプロトタイプから派生し、
そのもとのプロトタイプは、ごくシンプルなものとして取り出せるのでは。
八百万とかいいつつ、じつは三柱くらいでカタれるものなのかも。
このごろそんなこと思ったりするんです。
天と地の結婚。雷と水を介して。
ウツホに小さ子が宿りつく。それが天(竜宮、常世)に帰る。
大きな神と小さな神の相撲。その結果に基づいて、事が決する。
…というような。ごくごく単純なプロトタイプがうっすら浮かび上がる気がしています。
まだ、続きがあるんですが、長くなったので、ここでいったん終わります。
次回あわせて、モノアイ(単眼)三部作。