先日、自転車で宇治に行く途中、知らない人から声をかけられ、これはよい子にとってはよくないことであると思いつつも、ついていくと、茄子をもらいましたヽ(´ー`)ノ
アリガト!(´▽`)ございます、見知らぬ初老の人! 何もお返しできませんが!
翁、十字路の神さまだったかしれませヌね。
これらは、なにナス…でしょか。
京都には、賀茂ナスとか山科ナスとかあるのですが、宇治ナス?
自転車走行中もらったので、アンダルシアの茄子? ワンダルシアの犬? ニャンダルシアの猫? チューダルシアのねずみ? ピャルルロミヌイックヌミックダルシアのミスタエモ…(以下略
茄子 アンダルシアの夏
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by AMAZ君(改)
あの日は、いろいろ、ものもらい日でした。
宇治でうろうろしてると、たまたま「遺跡の一般公開」というのに出くわしたんです。
太閤秀吉が作った宇治川の堰堤で、キレイな石組が発掘されたそうです。
若い学者さんがマイクで一生懸命説明してくれるんですが、あまりの暑さに、スマンが途中で休憩所に。
その休憩所でもらったお茶が、激しく美味しかったです。
宇治だからでしょうかね。お茶の本場。でも、麦茶だったんですがね。麦茶についても、やはり舌がこえてるのか、宇治人。
で、うぢ茄子、焼きました。
薬味は、ダシ醤油にショウガ、削り節、ゴマ、刻みネギ。
…って、なんかさぁ、いつも同じ味付けだな(;・∀・)
魚を焼いても、ソーメン作っても、ソバ作っても、冷麺作っても、冷やっこを食べる時も、この味ではなかったか。気のせいなのか。。
今日は、安倍さんがついに辞めてしまつた。
おなかすいてたような顔をされてました。まあ、今さらながらでも、元気出してください。あげます、茄子。写真だけだけど。
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今日はアメリカでは、911のテロから六周年。
何だったんだ。
…安倍政権じゃなくて、テロのこと。
「アメリカがひどいことしてるんです」
たしかにそういう思いを強くもつ人がいるのはわかるんです。が。
で、貿易センタービルに旅客機をぶつける。
そこが、わからん。
それとそれとは、どのように結びついているのかが、結局、やっぱり6年たっても、わからんかったです。
WTCが何がどのように、世界を滅ぼすアメリカの核であったか。死んじゃった人たちが、何が、どのように。どう。
さらに、ブッシュ。
アフガニスタンに、テロリストの拠点がある。攻撃。
まあ、それはそういうことをする人がいるのはわかるんです。が。
ついでに、イラク。
そこも、わからん。
それとそれは、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように、全然結びついてないことが今さら証明されても、どうしようもないよ。どうするよ。
表現の問題。
ビンラディンという人は、若い頃から、対ソ連侵攻の訓練を受けただけの人。それがあの髭男の受けた、唯一の職業訓練。
それしか知らない。だから、それしか思い浮かばない。
口をついて出る言葉も、体がしでかしてしまう行動も、骨髄までも戦争の言語。
だから、自分の思いのたけを表現する時も、戦争で表現した。傭兵を自爆させる。その美しい、死。インシャラー。
それが彼の言語。彼の辞書。以外に言葉なし。遺骸に詩なし。
それを教えたのはアメリカで、やっぱりアメリカもそれしか「言葉」を知らないらしい。
イラクに対するため、戦争という言葉だけを教えた傀儡の王をすげかえる…つもりが。
ところが、そうしてみたところで、「人々」がいた。「人々」は、統一できない無数のコトバでもって、「イラク」になっている。
真理でもなく、統一もめざさない、無数の無体の言語。
崩壊した塔の下の出来事ですから。
世界は無数無体の言葉で出来ている。
独裁も真理も美しさも優しさも暴力も、多数多様体ですら、単一でいる限りは、それでしかない。
無数を生かすこと、この自然をなるべく努力するのが、人の祈りに思えてならないです。当たり前のことか。もしかすると政治とも言う。
柳田国男は、戦争にいたる道を国語の問題ととらえた。
「同じ言葉」ばかりでつづられる社会情勢。世論。
ちがう考えや、ココロがないのではなく、オモイも、世界を改善するための計画すら、胸にあったとしても、それを表現する「言葉」を知らない。
オモイだけが、「同じ表現=日本は美しい」に結集。
それはそれぞれ、ほんとは微細に大胆にちがっているのに、その差異はカタチになることなく、たがいに照らし合わせ、話し合われることもなく。
「ちがい」とは、折口信夫が「もどき」と呼んだもの。。
表現の同一による、美しい単一幻想。相手を殺す時、自分を失くするような業を感じることもなく、暮らす人々。
そんな日本に「人々」がした…てことなんだろうか。
悲惨。
戦後、柳田は、自分の思いのたけを、それ自体の形に表現することを、国語教育の理想と考えた。つまり、「ちがうこと」をいうこと。それを分かち合うこと。折口が「もどき」と呼んだもの。黙ることさえ、折口は、「表現」とみなしたのに。
この提言はまったく受け入れられなかった。
それはアメリカが強いたものではなく、日本人が、かつて「美しい」のみを選んだように、「反省」という言葉だけを選んだ結果。
それを今、反対に向けてみても、どうしようもなくて。
外国語を学ぶ時でさえ、「こう表現しなければ」商売にならぬを教え、「こう表現しても」私は私は教えぬ。
そのお蔭だろうか、我々は、柳田の微細な表現を、よく読めない。感じているのに、意識できない。
たえず変化し、流れ、定着を警戒・迂回し、「何か別なもの」の可能性を、犬のように嗅ぐ、あの文体。
同じ語をちがう意味に使い、ちがう語を同じ意味に使う、あの永遠に誰にとっても、ガイコク語であるような表現。
イラクに伝えるべきなのは、茄子の作り方や料理のしかたかもしれません。
いや、「しかた」じゃなくて、自分らで作ってみることですかね。
下手でも、ダメでも、自分の手で、体で。「体得する」ことだけができるものがあるんですから。
多様で無数であるものの声を聞くこと。
お久しぶりです☆
おとといは、嵐山にも、自転車旅してみましたヽ(´ー`)ノ
そういえば、最近、徳永英明さんがまた売れてますね!
彼を聞くと、よく思い出します。
眼精疲労には、ブルーベリーが効くとかいいますが、どうなんだろう。
ブログ始められたので、ブルーベリー効果のレポートなんかを続けて書いてみるのも、面白いかもしれませんネ。