虎石、というものがあります。全国にあるらしい。虎子石、虎ヶ石、トロガイ師とも。
形が虎に似ているとか、シマシマ模様だとかいうけれど、多くはたんなるタダの石。
東海道沿いに特に多い。
江戸時代後期、好事家たちが街道のみちみち、「あっちにも虎石、こっちにも虎石」と見つけては、面白がったためらしい。
東海道の往来筋の一つの宿場の片隅に、この名の石が現われたのは、比較的新しいことであったらしく、しかも最初からこれに目を留めた好事の士が余りに多かったために、伝説は成長しかけて終に一つの形に固定する暇がなかった。浅井了意の「東海道名所記」が多分初めで、それから「一目玉鉾」、益軒の「吾妻路之記」、降っては「撃壤餘禄」や「海録」「於路加於比」、さては十方庵の「遊歴雑記」まで、この事を記した書は探せば十種もあろうが、その記述は一つ一つ趣きを異にしている。柳田国男「虎が石(とらがいし)―辞書解説原稿」
見知らぬ書名がどしどし並ぶ。
柳田国男の脳は当時(大正時代)すでに電脳化されていたといいます。
電子書籍化された内閣文庫の古書の群れを、検索できたとしか思えぬ引用ぶり。
これを調べるのはかなりたいへんだと思うんですが、柳田はなにげに数行で済ませます。
で。
虎石とは、どういう石か。
(大磯)しゅくがはら、虎が石あり、此石はよき男が挙ぐれば上がると云ふ。悪き男には少しも上がらず、色好みの虎ヶ石と旅人口ずさむなり云々。神奈川・大磯の宿川原に、虎ヶ石がある。
この石、イケ面が持ち上げれば軽がると上がるくせに、ブサイクな男だとちっとも持ち上がらん。
エロ石…と旅人は噂するなり。「諸国安見廻文之絵図」貞享3(1686)年刊
虎石。もちろん、京都にだってある。
上の写真は、京都市中京区虎石町。
ここにかつて虎石があった。
(→GoogleMap)
京都市役所の西、柳馬場御池上ル。
今は、御池中学のモダンなビルヂングの建つあたり。
御池中学ビルは地上七階建てで、中学校のくせに一階がおしゃれなカフェ。
でも、たぶん生徒同士で行ってはならないんだろうなあw
ここには、明治2年開校の日本最古の小学校があった場所なんだそうです。
石碑があります。
その最古の小学校ができるよりずっと前には、善法院があり、親鸞上人がこの地において往生なされた(とされる)とか。弘長2(1262)年11月28日。90歳。
石碑があります。(見真大師は親鸞のこと。)
と、「最古小学校」と、「親鸞往生地」の石碑はあるが、肝心の虎石はいづこ?
その件について、柳田先生の電脳をハッキングしてみると、えらいことになっていました。
(以下、詳細をたどるのは、なんぴとたりともまるで無益w ただもう、えらいことになっとることだけ見ていただければ。)
京都にも一つの虎石町があって、大磯とは無関係の虎石の話を存している。これも名の起りは形似るにありというに一致しているが、石の歴史については誠に区々の説がある。ことに奇妙なるは一向宗と法華宗とがこの石の由来を争奪していることで、本願寺側においてはこの石のある処すなわち親鸞上人の終焉の地なりとし、そのためか否か、今では東山大谷の上人廟所の上にあることになっているのみならず(「山城名跡巡行志」二)、その元あった寺は上人の舎弟深有僧都の住したという虎石町の角之坊善法院だともいえば(「都花月名所」)、その跡は今の同町の法泉寺であるともいい(「京町鑑」等)、豊太閤聚楽造営の際これを移してその築山に据え、後さらにこれを伏見城に持ち去ったと伝うるにもかかわらず、法泉寺の方には今もってその庭に一つの虎石がある(「京都坊目誌」上五)。伏見落城の後にもとの虎石は狼谷の日蓮宗某寺に引き取ったという説と(「京雀」二等)、それより遠からざる南深草宝塔寺に移したという(「山城名跡志」十二等)のと二説あり、一向門徒の方では宝塔寺のほうから大谷に持って来たと主張している。親鸞廟所再興の後、宝永六年の五月二十八日に送り届けて来たと日までわかっているが(「坊目誌所抄」、「和漢合運指掌図」)、しかもその五月二十八日が、虎の涙雨をもって世に聞こゆる曾我仇討の日であることは、看過すべからざる偶合である。それからまた妙なのは宝塔寺がやはり日蓮宗であることで、日蓮上人この石の上に踞して法を説いたという説も古くからある(「雍州府志」八等)。そこで折り合い上、伏見に行ったのは同じ虎石町でも柳馬場押小路下ルにあった虎石で後に狼谷に移り、宝塔寺の分は柳馬場二条下ルにあったものでいつの間にかこの寺に来ていると解した人もあるが(「名所都鳥」四)、実は「狼谷辺の某日蓮寺」とあるのもこの宝塔寺の噂であったらしい。しかも虎の形をした霊石が何故にそう大切であったか、別に建仁寺の境内にも岩があって、昔は怪をなし人の名を呼んだというのがまた一つの虎石である。ただしこれは虎鑑和尚の道力によって怪しみ、一名を妙徳石というたとあるから(「山州名跡志」四)、少しくこの仲間から外れている。柳田国男「老女化石譚」(『妹の力』所収)
すさまじい検索力! どうやって調べたんだ。
柳田の電脳は、グーグルより1500倍速いアルゴリズムを使っていると言われています。
しかし、衝撃はつづく一行にある。
自分は民間仏教の二大派に対する敬意から、しばらく京都の虎石を除外して、主として大磯系の虎子石の由来を考えてみようと思う。
まじっすか、先生!
こんなに調べ倒したのに、それをみすみす反故にするというのか。
普通の学者なら、この調査だけで一冊本を書くよ。それを二十行ほどに圧縮したあげく、結局打ち捨ててしまうとは!
衝撃さめやらぬ柳田電脳ですが、ともあれ、トロガイ師ならぬ、虎ヶ石というものがある。
それは江戸の好事家、仏教各派、太閤秀吉もまじえて、取り合いになるほど、人々の好奇心を集める、謎の存在。
取り合ったすえに、虎石は増殖して(笑)、あちこちに「本家・虎石」が生じる始末。
いったい虎石とは何なのか。
そして、「たら本」ならぬタラとは、いったい?
…次回から、じゅんじゅんと解明していく予定です。
(下の写真は虎石ではなく、播磨の五百羅漢で見た石の虎。)
【おまけ…柳田の検索エンジン】
柳田の検索エンジンのすごさ。
柳田の著作を読んでいると、しょっちゅう出喰わし、ビビらされますw
柳田は長生きしたので、写真などから「翁」のイメージがあり、
研究内容も妖怪とか先祖の霊が山から村を見守るとかなんで、
雰囲気的にはオキナ度が高いのですが、
じつは搭載してるCPUは最新のもののようです。
先生、もともとトップ官僚。
40歳(大正3年)で、貴族院書記官長。
これは今でいう参議院事務総長だそうです。
エリートの中のエリート。
でも、この頃にはもう、お役人は辞めようと思ってたにちがいなく、
接待ゴルフにも行かずに、ダイダラボッチの遺跡を訪ねて、
世田谷の代田をひとり徘徊したりしています(笑)
すごくヘンな人です。
しかも、逃避でなく、日本の未来がそこにあると、
明治気質の本気で考えてのことなのですから。
そして、40歳から独力でひとつの学問を打ち立ててしまう。
空前絶後の偉業です。
上に長々と引用した箇所に出てくる、京都関連の古い書物。
今だと、京都の公立図書館に行けば、
大半が「京都叢書」というシリーズで活字で読めますが、
柳田の頃はかなり珍しいものだったんじゃないでしょうか。
柳田は官僚だったので、内閣文庫に簡単にアクセスできました。
内閣文庫は明治政府が集めた膨大な古書・古文書の集成。
これが柳田のデータベースです。
柳田も最初に文庫の書棚を見たときは、
「これで何もかもわかる!」と興奮した。
でも、ネットと同じで、あまりに膨大なデータは、
検索のキーワードがないとまったく意味をなさない。
「読み筋」を持っていて、初めて役に立つデータ。
そういうこともすぐに気づいています。
情報処理能力が異常に高い人だったようです。
文書を処理する官僚として、
そうとう優秀だったにちがいない。
さきの京都関連の本で、
昭和はじめに活字本が出たものがあるのですが、
誤字脱字が多く、そのまちがいが数百箇所に及ぶと、
柳田はちょっとしたエッセイで書いています。
わざわざ調べたみたいです。信じられん素早さです。
カードを使って、情報を整理することも、
柳田は早くからやっています。
そのカードは他の人が見ても、
まずまずわかるように書かれてたみたい。
弟子筋の人がカードを元に書いた本もありますが、
みごとに柳田の思考を再現しています。
「共有」できるデータ、という考えを持っていたようです。
でも、結局は、あまりに柳田の存在が大きすぎて、
みんなの集めたデータを、
柳田が独りで利用するように見えたようですが(;・∀・)
強い「読み筋」がないと、
データは有効にあつかえないってことでしょうか。
南方熊楠とやりとりした書簡を見てると、
熊楠さんから「あの本を貸してくれ、三週間で返すから」
とリクエストがしょっちゅう出てきます。
柳田はまあお金持ちだろうし、蔵書はすごかったはず。
内閣文庫で、内容は読み込まずとも背表紙だけ見て、
こんな本が実在するのだと知っていれば、
書籍を収集する上でもたいへん有利。
熊楠も大英図書館にこもって、膨大なメモを取り、
広大なデータ空間を旅するしかたを熟知していた人。
でも、南方の引用する本は、日本からアクセスするのが難しく、
みんなで共有して、検証することができないのが、難点。
柳田は、レアな古書から引用すると、
ときどき読者に謝ったりしていますが、
南方の引用の問題点に気づいていたからと思われます。
柳田は数年後には、内閣文庫が「何もかも」でないことに気づく。
書物が持っている情報は、ごくごく氷山の一角に過ぎないし、
「書く」という行為の持つ気取りが、データを変形してしまっている。
やがて、本からの引用は、ほかに手立てがないときだけにする、
とまで極論するようになっていきます。
本の代わりに柳田が重んじたのは、
「歩く」ことだと言っていいかもしれません。
体で覚えることがある。
食べ物の味のように、それは言葉では伝えられず、
でも口にしてみれば、たちまちわかる奥義。
体得、ということが、非文字文化の肝なんです。
人を褒める時にはいつでも
「この人はよく歩いた、
つらい旅をよくした」と評した柳田翁。
晩年、もう旅はしんどいご老体になってからも、
取材に来た新聞記者にとくとくと、
旅の話をして、記者を辟易させています。
日本の海岸線全部を走破するのが、
翁の夢だったようです。