AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: タラをめぐる冒険4「東へ西へ」

タラをめぐる冒険4「東へ西へ」

written by overQ
December 30, 2007

一条の西の果て

戻り橋から出発して、一条通りを西へ西へと進む。
どこまでも、どこまでも西に進み、大将軍商店街の百鬼に出会い、仁和寺を過ぎ、立命大裏の峠をふたつ越えると、視界に広がるのは、広沢池。
夢の中のように美しい景色です。

広沢池

広沢池は秦氏の作った貯水池とも言われる。
あたりには大覚寺の大沢池はじめ、あちこちに溜め池が。地名を見てると、昔はもっといっぱい池があったらしい。

嵯峨野の入り口。「太秦〜嵐山」の秦テリトリーのすぐ北。
チンマン王国の聖地としても、一部で萌えていますw

正方形の広沢池。人工池っぽい。
こないだ通ったら、水が抜いてありました。意外と浅い。これなら人力で掘れるかも!
秦のまわりにいた土木灌漑の得意な人々。彼らの手が加わってるんだと思う。
チンマン王国がここにあるのも偶然ではなく、陽石信仰も太古から受け継がれた可能性さえ。
王国をいとなむ石屋さんは、代々この一帯に広大な敷地をお持ちの一族らしい。古墳時代までさかのぼれる石工さんなのかなあ。

ピラミッドみたいなキレイな小山が、池に姿をうつします。山も人工かと思いたくなるw
遍照寺山。別名、広沢富士。
富士というにはだいぶ小ぶりだけど、遍照寺はかつて、あたり一体に広がる大きな寺でした。(今はだいぶ小さくなって、池の南にあり。)

遍照寺山は池の乾に向ひたる山なり、
いにしへ寛朝僧正のひらき給ひし真言興降の地、遍照寺の旧跡は山の麓にあり。
本尊は十一面観世音、赤不動共に弘法大師の作なり。〔今池の裏村の草庵に安置す〕

「都名所図会」広沢池(国際日本文化研究センター)


広沢の僧正、児神社

広沢の僧正寛朝(916-998)。
遍照寺は989年、円融天皇の命を受けた僧正が建立。
寛朝は宇多天皇の孫。円融帝の祖父が、寛朝の叔父にあたる醍醐天皇です。
元三大師良源(912-985)と同時代。空也(903-972)、安倍晴明(921-1005)なども。
将門を調伏する命を受け、関東まで赴き、祈祷。千葉の成田山の開祖となります。
また、真言の声明や雅楽など、音楽のたくみでもあった。

寛朝も、元三大師や空也・晴明と同様、伝説によってカタられる。
・僧正が亡くなった時、広沢池のほとりの老松から竜と化して昇る姿が見えた。
・僧正が座禅を組むと、広沢池のほとりにいつも一人の謎の子供があらわれ、石に座していた。
・子は、僧正が亡くなると、嘆いて広沢池に身を投じた。
・大道法師の足跡池あり。おなじみダイダラボッチ伝承のバリエーション。
・「佐古曾の水」あり。サコソは、石神・宿神・式神につながる、S+K。

児神社の腰掛石

僧正座禅の際、いつもそばに出現した謎の子供。
この子をまつる、児(ちご)神社が、今も池のほとりにあります。
子供が座っていたという、じつに不思議な椅子の形の石も残り、
腰掛けると安産・健康・長寿などのご利益があるとされています。

坐禅石〔遍照寺山の半腹にあり、寛朝の坐禅し給ふ所なり〕
登天の松〔同じき山の嶺にあり、池の汀より見ゆる、寛朝此松の梢より天に登りしといふ〕
佐古曾の水〔池の西の方にして蘆原なり〕
観音島〔池の乾にあり、いにしへ遍照寺より此島に橋ありて観音堂あり〕
児(ちご)のやしろ〔池の西道の傍にあり、寛朝僧正の常に傍にて仕へし児童あり、寛朝登天の後悲泣して終に此池水に身を投て死す、其霊を祭るなり〕
児ヶ石〔坐禅石の下にある小石なり、寛朝坐禅のとき児童此石に頭をたれて眠るとなん〕
釣殿〔児のやしろの傍池の汀にあり、児童の霊此所に現しとぞ〕
釣殿橋〔池のひがしの橋をいふ〕
大道法師足形池〔広沢の巽三町ばかりにあり〕
屏風岩〔広沢より鳴瀧に至る北の山にあり〕
音頭山〔足形池のひがしの山をいふ〕
千壷の井〔音頭山に数おほく井あり、草樹繁茂して見えず、案内不知にして此山に入ると井に転ぶとぞ〕
さゞれ石〔鳴瀧道のかたはら南の山にあり〕
千代の古道〔広沢のひがし三町ばかりにあり、常盤へ通ふ細道なり〕
〔千代の古道は正しき名所にあらざるよし名所の諸書のせたり、既に定家卿為家卿をはじめ、嵯峨の詠合に古歌多し、定りたる名所にあらざるといふも其謂あらず〕
帯池〔広沢のひがしなり、路のかたはらにくぼみたる所あり、是なり。むかしはいと深くて、此池の霊帯と化して人を取りしとぞ〕
しはふが谷、的野、仙翁洞、野依より〔此辺にあるよし其所さだかならず〕
深草里〔清凉寺のひがし南なり、今八軒といふ、土器つくり住するなり。其人の氏を深草といふとぞ〕

「都名所図会」広沢池(国際日本文化研究センター)


「佐古曾の水」のS+K

広沢池のまわりは、伝説の石だらけ。
「児」は、前回述べた「小さ子」の系譜のものにちがいない。つまり、タラ(太郎)ちゃん。
池に身を投げたり、竜が出たり、ダイダラ(大道法師)の足跡池があったり。
各要素が出揃った、わかりやすいバリエーションになっています。

佐古曾(サコソ)の水」という湧き水(独鈷水)らしきものが興味深い。(今はどこにあったか不明。)
初期の柳田が研究して以来の、石神・宿神の系列。S+Kです。

秦河勝が「小さ子」となって、浪速からうつほ船に乗り、たどりついたのは播磨の坂越(サコシ、シャクシ)
風姿花伝にある伝説で、能の始まりを伝えるは、この地の大避(おおさけ)神社。
河勝は荒神(新魂、タラ)となって暴れたとも伝えられる。
のち、蘆屋道満から、播磨の土民が京を占拠する嘉吉の一揆、さらに赤穂浪士まで、「荒神」の伝統は続くのかもしれない。

大酒(おおさけ)神社は松尾にもある。
また嵐山には車折(くるまざき)神社。
そして「佐古曾の水」。
S+Kだらけ。

S+K」とは、結局、何か。
天神・雷神の必殺技は、「蹴り」。カミナリのこと。神のオナリ(鳴り、うなり)。相撲もそうだけど、「蹴り裂く」と表される。
それは男根の象徴でもあって、稲妻が落ちて、稲が妊娠して、神がこもったのが、コメ。
稲荷(イナリ)ってこと。稲荷を表すキツネは、嫁入りの時、晴れてても天が鳴り、にわか雨。そして、女性器のことも「避け」と表現される。
そういうことと思います。「結合の神秘」(ユング)を表す。天と地の結婚。夫婦道祖神。象徴としてのおまんこ。大聖歓喜。

地球がまだ平板で、地平が限りなく広がっていた頃。
古代の人びと、われらがご先祖様は、異民族に出会うと、まずおこなったのは、「Make Love Not War」(ジョン・レノン)。万葉集巻頭の、あの豪そうな雄略天皇御製でさえ、戦争でなくナンパ。
そのようにして、今、われわれはある。チンマン王国の末裔なのだ!
仏教の浸透とともに、そっと脇におしやられていったもの。

S+Kの名をもつ地は、サカイの地。
男と女が、互いを互いの神として出会う、サカリ場。
持ち寄ったモノが、神のまなざしのもと、価値となる、サカエの場。
血と商品を交換・交歓する場所であり、歌と踊り、仮面と市の、盛りと栄えの境


成田不動とダイダラボッチ

広沢の僧正・寛朝は、平将門の乱を鎮めるべく密勅を受ける。
弘法大師の刻みし不動像をもって、千葉におもむいた。
不動像は帰ることを拒み、千葉・成田山のはじまりとなったと。

成田不動の周辺は、ダイダラボッチの伝承が多く残る地。
印旛沼はダイダラが作ったとも、その足跡とも、またいだともいわれ、ダイダラのメッカ。
竜の伝説もある。
広沢池と似たり寄ったり。

つまり寛朝の周辺にいた人々が広めた伝承と思えます。
東から来たか、西から来たか。どちらからどちらに伝播したのか、ちょっとわからないのだけれど、広域のネットワークがあるらしい。
将門の近辺とも、きっと何らかのコネクションがある。
乱の平定も、祈祷は表向き、ほんとは裏の駆け引きがあったとみるのが、スリリング。 *1

以前も何度か書いた「鬼=鬼退治」。
将棋で、取った駒を味方にするように、平定する兵と平定されるツワモノは、じつはあまり区別がない。(今のテロ戦争でもそうかもしれないですが。)
将門の乱にも、その気配が見え隠れ。

前回述べた、元三大師の故郷・虎姫の伝承とも、よく似ています。
広域のネットワークの存在。もともとは弥生時代、長期にわたって渡来したさまざまな人々の結びつきだろうか。ずうっとのち、信長・秀吉がこのルートを利用して、京都にやってくる。

広沢池の伝説で特徴的なのは、「母」が出てこないことでしょうか。
子供だけがクローズアップ。竜ももとはこの子供だったはず。
「母が天の子を宿し、それが竜となって帰る」というのが、この伝説のおよそのプロトタイプ。
そこに寛朝僧正を登場させたいわけですが、仏教的配慮(?)から露骨に性的なものは排除したのかもしれません。憶測。

憶測ついでに、成田山の「ナリ」。
雷のナリ、稲荷のナリ、田植えの神嫁女ヲナリのナリ。
相撲の最手「ナリムラ」(宇治拾遺)のナリでもあり、「鳴る」「うなる」と、雷ゴロゴロな音とも関係し、もちろん「実がなる」の「成る、生る」という、神のミノリと関わる。 *2


晴明、広沢池にて式神をつかう事

戻り橋から一条通りを西へ西へたどった先が、広沢池。
戻り橋のたもとに邸を持っていた陰陽師・安倍晴明もまた、一条を西行し、広沢の遍照寺に赴いています。
今昔や宇治拾遺に出てくる有名な晴明のエピソード、「晴明のカエル殺し」は、広沢の寛朝僧正の御房での出来事。

ここで、若い貴族や僧たちから、「式神をつかって人を殺せるか」と挑まれた晴明。
「力をこめて念じれば殺せますが、罪作りなこと」と答える。
ちょうど庭にカエルが五、六匹はねているのを見て、公達らは「あれを殺して見せてくれ」
なんとも罪深いことだと言いつつ、晴明は傍の草を抜いて、なにごとか唱えた後、それをカエルの方へ放る。
草の上にさしかかったカエルは、「まひらにひしげて、死にけり」
これを見た者たちは、おそろしいことだと感じた。
晴明は、邸に人がいないとき、この式神をつかって、蔀をあげおろししたり、門を開け閉めしたりしているとか。

カエルを「まひらにして」殺すのが、何かを暗示してるようなんですが、わからんとです。
この地をを「ひろさわ」というのと、関係するようにも思う。カエルもカエルじゃないはず。
(つまり私はカエルを「灌漑池」、式神を「貴族には見えぬ土民」と考えようとしてるわけですが、無理ありすぎw)

安倍晴明の墓

安倍晴明と広沢池。なにやら関係があるようです。
晴明の墓とされるものも、すぐ近く。天龍寺。


拡大地図を表示

晴明の陰陽道の師は、賀茂忠行・保憲父子。賀茂は秦と深く結ぶことは、以前にも書きました。
かつて秦から伸びていたはずの、大きいネットワーク。
物資や技術のやり取り、婚姻を通じて、人と物の主要な流れはこの時代も続いており、晴明もここから出てくるように見えます。

嵐山から桂川を下って淀川に出ると、川沿いに秦氏の遺跡がたくさんありますが、安倍晴明の生地とされる阿倍野も、同じように淀川下流域。
晴明の母、葛の葉狐、信太妻の伝説にも、タラ(小さ子)の感あり。
稲荷は稲が天の子をはらむ(こもらせる=コメ)さまの神格で、なぜかキツネによって表される。
キツネは「来つ寝」(日本霊異記)とダジャレのように言われ、神の子を処女懐胎するマリアのようなヨリシロ。
そのキツネのウツホにはらんだ子として、晴明も伝説化されるタラちゃんのひとり。


京都、東へ西へ

東へ西へ

一条。広沢池ー戻り橋。
二条。太秦ーあははの辻。
四条。松尾大社ー空也堂。

秦のテリトリーと、京の怪異スポットとは、通りによって、東へ西へつながれている。
一条、二条、三条…と言っても、「条」の名を持つ横の通りは、縦の通りほど、「均一」な距離でへだたれていない

桂川のほとりの秦テリトリー。
そして、東の堀川の怪異スポット。 *3
堀川、および神仙苑(灌漑池群)は、平安京以前、秦グループの作りしもの。
内裏はもと秦河勝の邸の地と言われる。

秦グループの開拓地と思しき地に、全国どこでも見られるように、
ここ京都でも「粟(淡)」の名で呼ばれてた、この地。
すなわち、「あははの辻」。
(記紀の神話で、最初のほうで作られる国土が、「淡島=淡路島」であること。小さ児スクナヒコナは粟の穀神であること。)

粟田口の粟田氏と関連するはず。(能「小鍛治」)
伏見稲荷と関係深い粟田氏は、鍛冶師。鉄作りのタタラから、開拓は始まる。その鍬、釜、鎌によって。タタラがととのうまでの間、粟を植えるのか。
粟穀は太陽の色の丸粒。 *4


…と、がんばって書いてきたこのシリーズ。
年内に終わろうと思ったけど、まだちょっと記事が残ったよ。。
あと、四つか五つくらいで、完結できるはず。
結論まで達した。
残ってるのは、
「折口信夫先生の旅とおかげ参り」
「柳田国男と十字路の悪魔」
「絶対値と両義性」
「民俗学奥義」
書きにくいのばかり、残ったな…あとは来年。鬼が笑うかな。

そうだ。最後に。来年の鬼に向けて。
小さ子=桃太郎の正体。
イザナギ命は桃を放って、かろうじて黄泉から逃げ帰る。(古事記)

その桃子に告りたまはく、
「汝(なれ)、吾を助けしが如く、葦原中国にあらゆるうつしき青人草の、苦しき瀬に落ちて患へ悩む時に助くべし」


*1 : つながりは、食料や農具のような具体的な生活物資のやりとり、つまり経済的な市場ネットワークだったはず。成田周辺にも、用意にS+Kの古い地名が見つかる。
*2 : 神鳴りゴロゴロ=御霊=五郎=ゴロツキ。
*3 : 松尾社と空也堂は踊り念仏つながり…この話はまだ書いてないですが。
*4 : と書きながら気づいた。
最初に作られるのは、オノゴロ島。
雷神のゴロゴロ=タタラ?
すると、オノゴロ=御霊=曽我五郎=ゴロツキ。つまり「御霊憑き」。
クニオ・シノブ先生、タラとゴロが雷神・天神で、つながったよ! 音(楽)で!


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コメント

overQさん、こんにちは!
広沢池の写真は、今の時期のものなのでしょうか。
なんだかとっても空気が澄んでるって感じで綺麗ですね!
池にも綺麗に映っていて、見ていて清々しいです。
そして児神社の石も不思議。こんな石があったのですか!

残った記事は来年なんですね。
引き続き楽しみにしてますので、がんばって書いて下さいませ〜。
蔵書票や「過去カラ来タ未来」の記事も、のんびり楽しみにしておりますので♪

さて、今年も本当に色々とお世話になりましてありがとうございました。
色んなことを教えて頂いて、物を知らない私も少しはかしこくなれたかしら…
来年の私はもう少し深く物事を考えられるようになりたいものですが
そういうのって、心がけたからってできるものでもないのかもー…
なんて、やる前から微妙にやる気のない私。(おぃ)
でもでも、来年も引き続きよろしくお願いいたしますね。
また色々教えていただきたいです!(結局他力本願なのかっ)

ではでは、良いお年をお迎えください〜。

Posted by: Site icon 四季 : December 31, 2007 8:10 AM

広沢池の写真は、11月のなかばくらいだったでしょうか。
この日はよく晴れてて、広沢池付近の田園風景も、たいへん美しかった。
カラスの群れを見たのですが、アルピノなのか、白いカラスが一匹いて、それが群れのリーダーのようでした。
何かとても不思議なものを見たような気がしました。

広沢池近辺は、明るい魔所…という感じ。
とても静かで、のんびりしてるんですが、どこかふつうではない感じがする場所。
おばけとすれちがっても、あまり気に留めず、通過できてしまうような雰囲気がありました。

児神社の椅子みたいな石も、何か具体的な利用方法があって、そんな形をしていたのかもしれませんが、今となっては謎です。
魔界に通じるゾーンなのかもしれません。

蔵書票の記事は、近いうちにアップする予定です。これは写真だけみたいなものなので、簡単w
それ以外の記事は、どれも難しいものばかりが残ったので、どうなることやら。
今回の記事も予定よりはるかに長くなってしまった。
短く書くのが、ブログの難しいところですね。

それでは、よいお年を☆


Posted by: Site icon overQ : December 31, 2007 3:20 PM

千葉県我孫子市住民です。我孫子市にも「台田」という地名があり、隣の柏市にはダイダラボッチ伝説がかなり残っています。柳田国男が子供の頃、兄鼎がいる布川に来た後、鼎とともに対岸の我孫子に移り住み、我孫子の地名に関心を持ったことが、彼の「地名の研究」に記されています。
確かに、柳田国男が民俗学を学問として確立したことや、その知識の広さと深さに驚愕(電脳というより、超高速/高効率データベースのイメージ)させられてしまうことに、さらに、彼の業績が現代においてもさまざまな形で刺激を与え続けていることなどに、「巨人」であったことを認めざるを得ません。
しかし、「白足袋を履いた柳田」に対し「ゲートルを巻いた」といわれる宮本常一のフィールドワークも無視できません。司馬遼太郎が「日本の津々浦々までよく知っている」と評した宮本は、その思考をモノから始めています。柳田はコト(コトバ)から・・・宮本が後年、武蔵野美術大学で教鞭をとったのも、うなずけます。
宮本の著作に目を通しながら、現代における宮本は誰?を考えたとき頭に浮かんだのは永六輔でした。その後、永六輔がテレビで「自分に最も影響を与えたのは、三木トリローと宮本常一だ。」と語っているのを聞いて、
やはりとうなずいたものでした。
ところで、「柳田国男と十字路の悪魔」というタイトルをみて十字路に悪魔がいるのは世界共通のことなんだと思いました。
「ディープブルーズ」という、アメリカデルタ地帯に誕生した「ブルーズ」について書かれた本の中に「もし弾きたいものを何でも弾けて、自分で曲を作れるようになりたいんだったら、ギターを持って(中略)四つ辻<クロスロード>に行くんだよ。そこに行くときは行くと決めた夜中の12時になる少し前に着かなきゃならない。そしてギターを一人で弾くんだ。そうすると、大柄の黒衣の男(悪魔)が近寄ってきて、ギターを取りあげる。そして彼が調弦して一曲弾いてくれる。それから俺は弾きたい曲が何でも弾けるようになったんだ。」という下りがあります。同じ話が、O' Brotherという映画にも出てきます。
数年前にイギリスのローリングストーン誌が読者のベストギタープレイヤーを投票してもらったとき、史上10傑の中に入った1920年代のブルーズ歌手「ロバート・ジョンソン」も、同じ話をしていたといいます。

Posted by: ガキパパ : January 27, 2008 12:20 AM
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