人間は種々さまざまな道を歩む。そうした道の跡をたどり、たがいに突きあわせてみるならば、奇異な象(かたち)が現れてくるのに気づくだろう――こうした象は、鳥の翼や、卵の殻、雲や、雪、石のさまざまな形、凍った水面、はたまた山や、植物や、動物や、人間の、その内部や外部、さては天空の星辰、また、触れたりこすったりした瀝青板、磁石のまわりに蝟集するやすり屑、あるいは不思議な偶然のめぐり合わせなど、いたるところに認められるあの大いなる暗号文字をなすようにみえる。ノヴァーリス「サイスの弟子たち」(今泉文子訳)
ノヴァーリス作品集〈第1巻〉サイスの弟子たち・断章 (ちくま文庫)
ノヴァーリス
¥ 1,365 / 筑摩書房
( 2006-01 )
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by AMAZ君(改)
今回は「神の声の聴き方」について、妖しげな話をカタってみるのです。
まず登場するのは、19世紀ドイツ、詩人で医師である、ユスティヌス・ケルナー。
ケルナーとは誰かというと、この人は数十年にわたってインクのしみを研究していた。
手紙の端などにポトリと落ちたインクの破片が滲み出す模様に、心惹かれたのでした。
スウェーデンボリの交霊術にも親しんでいた彼は、精神世界と交信する「言語」として、インクブロットを見出します。

のちに、スイスのロールシャッハが、心理学に取り入れて、よく知られたロールシャッハ・テストが生まれる。
ケルナーはドイツでは有名な詩人。
シューマンが彼の詩に曲をつけています。
また、動物磁気についての著作もあるケルナー。
ユングは若い頃、ケルナーを愛読していたと、自伝に書いています。
*1
誰もがうすうす思っていたように、ロールシャッハテストは、その手のもの…「神の声」を聞く技法が元にある。

曖昧模糊とした文様に、「神の声」を見出す。
この手法は、べつにロールシャッハ・テストをまたずとも、太古から人類にはおなじみのもの。
占いは、たいていこの方法にしたがって、おこなわれます。
壁のしみに顔を見たり、写真のピントの外れた部分に霊を見出したり。
占い師は、水晶を覗き込んで、その曖昧にうつろう光彩から、未来を読み取る。
あるいは、手の平に刻まれた曖昧な模様。飲み干したコーヒーカップの底にあらわらるひび割れ。
天空に無作為にちりばめられた星をつないで、巨人や怪物の像を見出し、その変遷を人の生と重ねる。
ゴーストのささやきは、いたるところに満ちている。

人間の認識能力の中に、もともと備わっているものとも思われる。
たとえば、漢字の起源は、亀の甲羅や獣の骨のひび割れから、神の声をシンボライズした「文字」を読み出したものだとか。
□Oracle bone script - Wikipedia, the free encyclopedia
□History of writing - Wikipedia, the free encyclopedia
もっと身近なところでは、絵を描くときに、薄い線を何本も重ね走らせて、輪郭の正しい線を探り出しながら、描いたりします。
あれも、この方法を、誰に教えられるでもなく、応用したもの。
無数の誤謬のざわめきから、「真理=神意」を見出す。
そして、「真理」は耳打ちされるもの。
そう、視覚だけではなく、聴覚においても、この手法は用いられます。
たとえば、辻占という、古代の占い。
たそがれ時に十字路に立ち、行き交う見知らぬ人々が交わす言葉。雑踏のざわめき、蟲の音、草木のため息から、「神の声」を聞きだす試み。
現代人はそれを空耳アワーと呼ぶ。
黄昏を雀色時ということは、誰が言い始めたか知らぬが、日本人でなければこしらえられぬ新語であった。雀の羽がどんな色をしているかなどは、知らぬ者もないようなものの、さてそれを言葉に表わそうとすると、だんだんにぼんやりして来る。これがちょうど又夕方の心持でもあった。すなわち夕方が雀の色をしているゆえに、そう言ったのではないと思われる。古くからの日本語の中にも、この心持は相応によく表われている。例えばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であった。夜の未明をシノノメといい、さては又イナノメといったのも、あるいはこれと同じことであったかも知れない。
これが、神の声の聴き方。巫(かんなぎ)の技法。
神秘的でもあるけれど、ごく当たり前なものでもある。
太古から、神の声を聞く巫子たちは、このような方法で、言葉をつむいでいた。
その末裔は詩人と呼ばれる存在。どの国語でも今もこのようにして、言葉を捜しあぐねているはず。
20世紀最高の詩人ウィリアム・バトラー・イエイツは、シンボルの操作を通じて普遍的な記憶を再現する古代からの技法が詩であると考えていました。
幻想録 (ちくま学芸文庫)
ウィリアム・バトラー イェイツ
¥ 1,575 / 筑摩書房
( 2001-10 )
by AMAZ君(改)
言葉というのは、よくよく考えてみると、薄気味の悪いもの。
こうしてつづっている言葉も、母国語であるなら、次から次に湧き出てくる。
けれど、その連想をつむぐ糸車を、いったい誰が回しているのか。
自分…ではなくて、何か別なもの、のような…気がする。
歩いたり、物をつかんだりする、日常のなにげな動作。
しかし、そのメカニズムを理解してプログラムしたわけではなく、何の気なしにできる。
むしろ考えると、できなくなる…それは、ロボットのアシモの苦労惨憺を見ると、よくわかります。
あまり真剣に考え込むと、主体性の足元が崩壊する可能性さえはらんでいる。
幽霊にならずとも、我々はよって立つ足が見えない存在なのかもしれない。
数学の問題を解く時。
公式を覚えてさえいれば、その手順に沿って解けるものと、
いくら公式を知っていてもダメで、閃きによって解けるものがあること。
このふたつの区別はとても重要に思われます。
おそらくは現在知られるすべての「公式」は、誰そ彼、天才の人がかつて「ひらめいて」得られたもの。
お風呂に入っているアルキメデスから、歯痛を忘れるパスカルまで、逸話に事欠かない、「その瞬間」。
ひらめきの時、時は止まるらしい。たぶん、天使がささやくから。
今では公式が無数に見つかっているので、公式のカタログから検索すれば、「ひらめき」なんてなくても、多くの問題が解ける(ような気がする)。
*2
しかし、古代においては、ヒトは「問題」を解く時、たぶん「公式」を使わなかった。
(それは数学の「問題」だけを意味するわけではないはず。)
神話的な意味での古代、ヒトは問題に出会うたび、公式を新たに考案した。
つまり、自己のうちに備わっている「ひらめき」を信じた。神の声を。絶えず。いかなる時も。
それは科学のメソッドでは、誤解と思い込みの源とされ、ふたをされる泉。
しかし、科学のよって立つ、隠された足元でもあって、天使の通り過ぎる道があるらしい。
霊感のよぎる時、瞬間が永遠であった。名を持たず、無限に転生する生死をわたって。
問題さえ解ければそれでいいなら、べつに公式を使おうが使うまいが、どうでもいいようなもの。
でも、スポーツの愉しみ。
たんに解けば(勝てば)いいんじゃない…そこに天使がよぎらなきゃ、だめ。
だって、楽しくない、生きてる実感がわかないもの。
テレビで日本のサッカーを見てると、きわめて精密に「公式」を解説してくれたりする。
ここはこうしなければなりません。なぜならこれこれというわけだから。
ところが、公式どうりやってるのになかなか勝てなかったり、勝ったのにあまり楽しくなかったり。
また公式にあわせることはすごく苦痛をともなうらしくて、ヒトは自分探しの旅に出る。
一方で、ファンタジスタと呼ばれる、「ひらめき」の中に生きている人たち。
インタビューなんかで、ファンタジスタのみなさんの「説明」を聞くと、わかったようなわからんような、意味不明のことをよく口走っておられます。
あの手の人たちはたいてい、「語録」を作ることができる。箴言集を。
笑いをさそうか、謎。ヒューモアか、禅。
ジダンの頭突きも、そのような車輪からスピンアウトしてきたように思えます。
自分の体がしでかすことを、自分でも知らない。
それが、「ひらめき」。
練習したこともないのに。やってしまう。
「公式」によって、体のざわめきを消してしまうのではなく、ざわざわした向こうから、光が来るのを待つ。なぜだかそれが「来る」のを、信じることができる。
ベーメやエックハルトのような神秘家は、「閃光」とか「火花」とか、それを呼んでいなかったか。

□Egyptian hieroglyphs - Wikipedia, the free encyclopedia
ヒエログリフ、エジプトの神聖文字は、長く長く読み解かれなかった。
ために、ヨーロッパの神秘家は、これが神の声…アダムとイブが語っていた原初の言葉を、直接に形としたシンボルだと妄想することができた。
ヒエログリフを作ったのはヘルメス・トリスメギストス。あらゆる神秘と真理の祖。
そこには原初のコトバによって、アダムの最初の知識(prisca sepientia)が書き留められている、と。
原初の知識は、アダムからノアまで音声で伝えられた。
精神世界と直接交信するためのコトバ。事と言は未分。
しかし、霊感の不意の訪れを信じられないもの、理性の不安に耐えられない者が増え、「洪水」が起きる。
「神の声」を聴き取れず、さばえなす雑音だけが洪水のように押し寄せる。原初の知識はかろうじてノアの箱舟に再結集される。
のちにノアの子ハムがエジプトに伝え、ヒエログリフとなり、その子孫ヘルメス・トリスメギストス(モーゼ)によってエメラルド板に刻まれ、ヘスメス思想の源泉、すなわちあらゆる叡智の源となるもの。しかし、またしても、神と人との対話を信じることができない輩が現れる。
なぜなら霊感の到来は不意であり、いつどこでやってくるかわからないから。
そこで、神と人とを直接に、疑う余地のない形で結ぶ試みを思いつく。
「公式」によって、いつ何時にも、随意に再現することのできる霊感。
すなわち、天に直結する塔…バベル。奇跡を信じない輩の試みは滅び、バベルの塔は崩落する。
原初の知識を伝える言葉は四散した。
わずかにヘルメス・トリスメギストスが伝えた「言葉」を残して。
キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢
ジョスリン・ゴドウィン
¥ 3,045 / 工作舎
( 1986-04 )
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by AMAZ君(改)
アタナシウス・キルヒャーというイエズス会士は、おそらくこんなことを思いながら、エジプトの神聖文字、ヒエログリフを読み解こうとした。
キルヒャーは、読み解いたと信じた。古代から伝わる神の声を。
「言葉に訳すことはできないが、印や文様、図形を通じて、表現できるシンボル」を。
…もちろん、それは大いなる誤解で、ロゼッタ石を手に入れたシャンポリオンは、キルヒャーの集めた資料を利用して、ヒエログリフを読解し、そこにファラオの歴史を見たのですが。
科学がひとつの「学」を意味した時代の、最後の巨人キルヒャー。
世界が神の声かもしれない、いやそうであるはず…と信じられた最後の時代。
ありとあらゆる知識…その後の科学ではさまざまなジャンルに細分化されてしまうものを、彼はひとつの「サイエンス」とみなすことができた。
まるでバベル崩落以前の人間のように。

イエズス会士・キルヒャーの情熱を支えたのは、今から思えば妄想。ヒエログリフをはじめ、世界に「神の声」が記されているという妄信。
生前はヨーロッパでもっとも有力な学者だったけれど、細分化した科学の精密さ、あるいはイエズス会の没落とともに、忘れられていく。
デカルト以降の「科学」では、評価しがたい存在。
たぶん、錬金術やヘルメス学の発展からすれば、巨大なミッシングリンクなのだけれど、19世紀以降は見えなく、読めなくなってしまう。
デカルトで分岐した科学のもうひとつの道であったかもしれない。
キルヒャーという人のことを書いてみたい。
今回はその入口を作ってみたのです。
「神の声を聞く」という人類の古臭いほうの知恵…科学という新しい方法に取って代わられた(といっても本能なので、滅んでしまったわけでもない)サイエンス…それがキルヒャーにはある。
宣長の古事記研究や、柳田民俗学にも通うものがあるのです…卓見と誤謬がわかちがたく混在する点もw