ハウルの動く城、見てきました。
千と千尋に続いて、またも裏があり、ひっくり返すとスゴいことになってました。
千と千尋の裏読み=ソープランド説は、以前ご紹介済み。
その後の調査で、宮崎監督自身が、意図的にソープランドを描こうとしたこと、確認できました(日本版『プレミア』2001年6月21日号、『千と千尋』についてのインタビュー)。
裏読みじゃなくて、じつは正統だったようです…それもどうかと( ;´Д`)
(→ソープ説に関する、いちばん学術的(?)な見解は、ここ)
さて、ハウル。
表面的な見かけとは裏腹に、千と千尋以上の、邪悪なステキなジブリ作品に仕上がってます(;・∀・)
このふたつの作品、ニンゲンの七つの大罪を暴く愛の大切さを描く、欲望純愛二部作(笑)
世間の評判(肯定的なのも否定的なのも)の裏側で、宮崎駿はじつはぜんぜん別な場所に立っていて、ニッポン人を小馬鹿にしてるやもしれません(怖
誉めてもけなしても、ほんとのハヤオはそこにはいない。変わり身の術、使ってる可能性大です。
邪道を書いたつもりで、また今回も正統だったら…やだなぁ。。
[年齢認証]
●私は18歳未満で、宮崎監督を愛の人と信じています。
●私は18歳以上で、すでにハウルを見ており(ネタばれあり)、魔女と痴女をまちがえそうになりました。
表面的には、この作品、女の子と男の子、内面外面いろいろあってですね、恋が成就する様子を、魔女の呪いというファンタジーの趣向で仕立ててみせた、ジブジブしたもの。
また、前半は過去の宮崎作品からの無数の引用がつなぎ合わされ、その象徴性の微妙な読み替えが面白い。総決算になってます。
ハイジのアルプスの小屋、ラピュタの雲、宅急便のキキの町、ハク・千関係の発展などなど、関連性を考えると、とても興味深い読み方が可能ではないでしょうか(めんどくさいのでやらない)。
後半は、露悪的ならぬ、例の、ジブリの露善的な傾向が大爆発。
観客は爆風によって、「のび太としずかちゃんは、大人になったら結婚しなくちゃならないんだ」世界にまでも追いやられ、ついていけませぬ。
せっかく子供の世界を断ち切り、ようやく大人になろうとしてるお年頃の人には、この展開は許せないものがあるのでは。
もっと苦みのある終わりじゃないと、オトナの味がしないのさ。破れない恋なんて、純愛じゃないさ。。
しかし。
そういう読み方とは、まったく別な読み方が存在するかもしれません。
露善的な表面の裏には、隠された悪意が満ち満ちています。
+
千と千尋が、男性の欲望を描いたとするなら、ハウルは、女性の欲望を痛烈に批判したもの。
批判というより、小馬鹿にしてる、といったほうが、宮崎氏の悪意により近いか。
冬ソナ現象を見て、ペ氏に群がる女たちに、冷ややかな気持ちになる、あの感情の拡大版とでもいうか。
まず、今回、声優の方々が、受難されておりますw
ケンケンヒン=原田大二郎はさておき。
…さておき、いちばんわかりやすいのは、荒地の魔女=美輪明宏。
ひどい目にあっておられます。
美輪さんをモデルとしたとしか思えない、二重あごの美女風の(あくまで「風」の)魔女として登場。
しかし、化粧を落とし、化けの皮がはがれると、ボケ老女に(惨
ひどいわ。こんな仕事、よくお受けになったわね。加藤治子に負けるのも、なんか悪意をかんぐりたくなるわ。
おもろいけど、ちょっとシャレがきつすぎて、高畑勲みたい。
荒地の魔女は、ただ、ハウルの見た目ではなく、その心臓=魂を欲している。ちがいのわかる(わかりかける)ゴールドブレンドな人なの。だから、サリマンの恨みを買うのよ。
ハウル=木村拓哉。
心を入れ忘れた、美しく、魔法がうまいだけの、人形のような男(爆@ビキニ
心は体から分離され、成長を禁じられて、下働き(理系でオタクな職人性)に費やされている。それが魔法の原動力。
悪魔に売り渡されたもの。
美しければそれでいいんだ、力さえあればいいんだ、みんなからスゴいという言葉を引き出せさえすればそれで…。
やがては、底の浅い欲得によって、おおい尽くされてしまう存在。
そうなのか、キムタク。これでいいのか、こんなホスト役で。宮崎アニメの仕事が出来て、ハクさえつくなら、どんなに屈辱的な役回りでもやるのか。これが名誉なのか、名声なのか。
…そう問いかける、ハヤオの声がしませんか。幻聴かもしれません。
こんなきびしい批判、聞いてしまうと、もうフツーのスマップに戻れないもの。
+
ハウルという空虚な中心を奪い合う、三人の女の物語。
荒地の魔女、サリマン、ソフィー。
裸の王様の衣装を取り合うような空騒ぎ。
男から自由を剥奪するもの。また、それに甘んじることの出来る空虚な男たち(ハウル、王、カブ)。
しかし、ゆえに戦争は起き、世界は滅びることもありえるのだった…。
ソフィー=倍賞千恵子。寅さんのさくら。放浪者をつなぎとめるくびき。
クライマックスのシーン。
ボケ老人になってしまった荒地の魔女が、火の悪魔カルシファー(我修院達也)=ハウル(木村拓哉)の心(大切なアソコ)を握って妄執を発揮し、離そうとしない。
そんな荒地の魔女を抱き、優しい言葉をかけ、老女のかたくなさを解くソフィー。
しかし。これは。
…これは演技じゃないの?(いじわるイライザの声で
自分の欲得のために、「やさしさ」「かわいさ」「思いやり」を装って、老女から大切なものを奪い取る。
典型的な女の怖さってやつでは。
耳元で、「それは私のオトコ(の大切なアソコ)なんだよ、さっさと渡しな、糞ババァ」というささやきが聞こえた気がしました。幻聴かもしれません。
でも、すでにカルシファーやかかしクンやチククマルクルを、女の甘言で操ってるソフィーでしたから。
そもそもソフィーって女、最初のほうから、小さい嘘とかすぐつく、けっこう「ずるい女の子」として描かれてて(恐
演出的にもあのシーンのあたり、時間配分がへんで、きびきびしておらず、ハヤオのモーレツな悪意が立ち込めているとしか。
ここで、ウルウルなってる観客を見て、影でほくそえんでるとしか。
それと、サリマンが、王をあごで使ってやらせてた戦争。
どんな目的で行われてたのか、不気味です。
どうも、かかし君カブがらみ、つまり美少年がらみだったようで、気味悪いです。何と何が、何のためにどこで戦ってるのかわからないのが、とても怖くて今っぽいです(最終兵器彼女みたい)。
サリマンのものになるのを、カブ王子が嫌がったのでしょうか。ブッシュやラムちゃんの言うとおりになるのを、フセインが拒絶したように。
戦場になった町は、すっかり焼け野原。ボッシュの絵の遠景に描かれる、炎火の地獄のよう。
+
さて、呪い、解けたんでしょうか。
ハウルは、魂を取り戻し、自由になれたんでしょうか。
ソフィーは愛したり愛されたりしてるんでしょうか、ほんとに。そして、いったい、何を、何に。
なんか、サリマンの思う壺になっただけ、ハウルにあてがう女が、荒地の魔女からソフィーに替わっただけかも。魂を欲する女は厄介払いされ、単純な欲望に従う女をあてがう。
愛というより、所有の物語だったような気が。
これが、世界に冠たるニッポンアニメの実力。愛ではなく所有。
政府主導で知的財産としてのアニメ・マンガを育成するといいながら、知的財産とは商品のことで、文化とは何の関係もない。そんな絶叫が。幻聴か。
世界のハヤオ・ミヤザキ、またしても、危険なお子様に安心して見せられる映画を作りました。
お子さんをお連れの際は、ぜひ、「女の怖さ」「愛の大切さ」を教えてあげてくださいませ。
ジブリマネーという、巨大なくびきの中で、まだ死んでない宮崎駿のジタバタ、見るおもい、しました。偉大。
そして、ハンニバル・レクターのように、邪悪。
人々に手料理を振る舞い、みんなから「おいしい!」と絶賛を浴びるが、その肉は殺した人間のものかもしれません。お気をつけあそばせ。
…だめだ、またこんなことを書いてしまった((;゚Д゚)
ジブリの呪いが。ああ、腕に紫色の斑点があぁ…
++
[絵のことを少し]
そんなにくわしいわけではないんですが、絵のことを少し。
宮崎アニメの絵は、大塚康生や近藤喜文がいた時代、とそれ以降に分けられそう。
一人のアニメータの力が、アニメという共同作業の中で、そんなに強いのか不思議なくらいですが、やはり、そうと思えることが多い。
以前は、キャラクターがすごく魅力的で、生き生き動いて、子供は子供らしく、大人は大人らしく、ロボットはロボットらしく、動物は動物らしく動いてて、感情移入しやすかった。
なにより、愛らしかった。かわいくて、はつらつ。
一方、宮崎さん自身の絵となると、どこかニンゲンに対する批評的な目があって、絵にもニンゲンサマのもつ「いやしさ」がにじみ出る気がします。
「らしさ」でもって、何でもかんでも、類型的に表現しちゃうのは、差別の一種なんじゃないか、という批判的な視線がある。
近藤喜文を失ってから、ジブリは若手中心。
宮崎さんの意向がより直接反映しやすくなり、ちょっとかなりリアル路線になったでしょうか。
宮崎さんは、ハイジでは場面設計というようなことをしてます。
人物そのものじゃなく、背景も含めて、そこに置かれる小物や風、匂いまで、彼が設計した。
つまり、ちょっと引いた映像のとき、彼の真骨頂があるのでは、と思います。
ハウルも、そう。
人物にフォーカスした場面より、すこしカメラが引いて、人物が背景の中に溶け込んでるくらいのとき、いい絵が連発します。
千と千尋もそうでしたが、今のジブリ作品、美形は描けても、どこかさみしげで空虚。綺麗なのに、どこかいやしい感じがただよう。
かといって、美形以外のどのキャラも、何だかいじけたところがあって、それがリアルといえばリアルで、物語の構成上、不可欠なんですが、本気の感情移入はしにくい。
そんなこと、感じました。
「裏側」ができてしまうのは、絵のせいだと、思います。
大塚康生、近藤喜文、やっぱりよかった。大きかった。
性や人生のくびきから解放された少年を描けた(ルパンを含む)。
性や人生のくびきから解放された少女が描けた。
でも、その限界はあって、宮崎駿は、それに十二分に気づいてた。
11月17日は、シャア・アズナブルの誕生日だったそうです。
そんなわけで、ちょっと遅いですが、カクテル「赤い彗星」を作って飲んでみました。
このカクテル、私が創作した物ではなくて、実在…するんです。
ガンダム・カフェというところで、商品として出されてるらしい。
ほかにも、モノアイとか、ハロとか、アルテイシアとか、アスラン・ザラとか、いろいろなカクテルがあるようです。
ガンダム、大人飲み。
おそらく、右図のようなものも、「水割り」ではなく、カクテル「坊やだからさ」と呼ばれるにちがいない(誤
しかし。
これは、ガンダムだけに留まるものではあるまいに。
アニメ・カクテル。
そんなジャンルが確実に存在するはず。
お弁当ですら、キャラ弁というものが存在するのだから、なぜにカクテルにアニメが進出していけないことがあろうか。
パチンコでさえアニメが隆盛を極めている昨今、アニメ・カクテルは巨大な潜在市場であるはずではないか。
「月にかわっておしおきよ」
「あたたたたた」
「ふ〜じこちゃ〜ん」
「クララが立ったぁ」
「ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵」
「のび太のくせに」
「私のゴーストがささやくのよ」
「ポチッとな」
などなど、ふだんは口にできない名前のカクテルを注文することで、めくるめく別世界へアナタを拉致する、アニメ・カクテル。
勝手に作るからカクテル(やんけ)。
私の友人の父(元バーテンダー)は、そんな名言を吐きました。
作りましょう。アニメカクテル。
カクテルのアダルトでおしゃれでハードボイルドなイメージを、完膚なきまでにあたたたたする品々( ;´Д`)
#1 磯野波平(Namihei Isono)
磯野波平役の声優・永井一郎さん。
愛飲するのは、芋焼酎だそうです。
永井さんは糖尿病を患っておられるんですが、芋焼酎は、飲んでも血糖値が上がらなかったとか。
病気なら飲むなといいたいところですが、永井さん、飲まないと、波平の声が出ないらしいです(笑)
お湯割りにして、梅干に爪楊枝を一本、髪の毛のイメージであしらってみました。
#2 「人類補完計画」(別名・逃げちゃだめだ。)
なつかしいエヴァからの一品。
コンビニのお弁当に入ってたタクワンをしぼって、黄色い色を出してみました。そこに、ちょこっとカルピスをプラス。
ちょっとあわ立ったところがチャーミング(* ^ー゚)ノ
見た目は美しくポップですが、口を近づけると、色から予想した匂いとあまりにかけ離れた香りに、人生の憂さを思い出します。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ…」
禁酒したいアナタにもおすすめ。
今回は、予算上、作れませんでしたが、
ラオウ(別名・わが生涯に一片の悔いなし)
も、ぜひ一度は味わいたいカクテル。
ワイン・日本酒・ウィスキー・ウォッカ・ブランデー・ウゾ・焼酎・テキーラ・紹興酒など、世界のありとあらゆる酒類から、最高級のものだけを厳選しブレンド。
超高額のめくるめく世界が一口にして味わえます。細木数子とか、毎日飲んでおられそうです。
前のエントリーに引き続き、ガンダム話。
BSアニメ夜話での岡田斗司夫さんの「深読み」です。
ザビ家の長兄ギレン。
ガンダム全話中で、ギレンの演説シーンが、三回出てきます。
・最初は、テレビ中継もされ、ジオン国民の前での大演説。(第12話「ジオンの脅威」)
・二回目は、「綺羅星のごとく居並ぶ高官達の前で」(第37話「テキサスの攻防」)
・三回目は、前線の兵士たちの前で。(第42話「宇宙要塞ア・バオア・クー」)
演説の調子は同じなのですが、聴衆がちがっている。
国民→高官たち→前線兵士、とだんだん規模が縮小。ジオンが追い詰められ、疲弊していくのにシンクロしている。富野喜幸が、大河ドラマを描く、心憎い手法。
また、岡田氏は、シャアについても。
復讐を果たすため、シャアことキャスバル兄さんは、友人だったはずのガルマを策にはめ、殺す。
左遷され、酒場で、ストレートを一気飲みするシャア。
「ジオン公国の掲げる人類一人一人の自由の為の戦いを神が見捨てる訳はない。私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。なぜだ?」
テレビから流れるギレンの仰々しい演説に答えるように、シャアがつぶやく。
「坊やだからさ」
この言葉は、疑うことを知らないお坊ちゃまのガルマに向けられたものであると同時に、自分自身に向けられたもの。福井晴敏によれば、シャアの名セリフはたいてい、自己確認のための独り言です。
もし父がデギン・ザビの裏切りに遭わなければ、シャアがまさにガルマと同じような「お坊ちゃま」になっていたにちがいない。もう一人の自分を殺してしまったシャア。
最終話で、キシリアを殺害するシャア。母殺しのような。そのときのつぶやき、
ガルマ、私の手向けだ。姉上と仲良く暮らすがいい
もはや、製作者の演出意図など、はるかに踏み越えてます。思い過ごし思い入れは病的精密に鍛えられ、妄想性整合性が与えられています。まさに深読み・大人読み(゚ー゚*)v
ガンダムに限らず、富野アニメで特徴的なのは、「移動」かもしれません。
ロボットアニメでよくあるのは、「侵略される」というもの。
マジンガーZからエヴァンゲリオンまで、主人公のロボットは「基地=中心」にいます。敵は、外からやって来て、都市を侵略する。
ところが、ガンダムは、移動する。転々と移動する。
移動した各所で、完結したエピソードが語られ、一話が作られる、ということも多い。
この由来は、富野喜幸のいわゆる「絵コンテ千本切り」にあるのかもしれません。
富野さんは一時期、いろんなアニメの絵コンテを描きまくるということをやっていて、それが誇張され、伝説化されて、富野の千本切りと呼ばれいるとか。
侍ジャイアンツ、ハイジ、ラスカル、アン、ペリーヌなど、いろんなところで、富野さんの名前が見えます(ガンダムでは、富野さんは、絵コンテ・斧谷稔というペンネームを使っています)。
いろんなところで、いろんなアニメの、個別な一話ずつの絵コンテを描きまくった、富野喜幸。
このやり方を、ひとつの大河ドラマでも踏襲してみてはどうか。
主人公たちは、一話ごと、数話ごとに、別な世界に移動し、別な物語を生きる。しかし、それらは少しずつ関連して、主人公たちの運命を形作っていく。
絵コンテマンだった富野氏自身が、いろんなアニメの断片エピソードを描きながら、作家として成長していったように、主人公たちも、断続するストーリーのあいだを横断しながら、大人になっていく。
トミノ式移動作劇術。
これはとても画期的で、また応用範囲の広いものかも。
一ヶ所にとどまらない。各所を横断していく。それが、「成長」の条件。
富野アニメの特徴は、従来の善玉悪玉式の勧善懲悪ものを壊してしまった点にある、といわれます。
すでに、アトムの青騎士をやったときから、この傾向は出てました。
勧善懲悪をやるためには、主人公が中心にいて、そこに向かって外から敵が攻め込んでくる、という形が必要。
でも、トミノ式移動作劇術では、主人公は移動していく。中心はない。だから、「外」もないし、敵もない。
富野作品は、地図を書くことができ、その上を物語はジグザグに移動していきます。
富野作品は、終わり方がいつも微妙です(笑) 終わりのほうが来ると、急に話の展開が早くなるw 番組制作上の都合もあるんでしょうが。
あるいは移動はずっと続くので、終わりを形作れないものなのかもしれません。
スピンアウトとでもいうか、主人公たちが死ぬ(ザンボット)、狂う(カミーユ)、向こう側へいく(イデオン)、というのも多い結末。
移動に決着をつけようとすると、加速して離脱してしまうしかないのでしょうか。
先週やってたBSアニメ夜話。28日はついに「機動戦士ガンダム」が取り上げられてました。
司会の岡田斗司夫さんはもちろん、ゲストの皆さんも、ガンダムを何度も何度も見て、自分の成長に合わせあれこれ思いを重ねた結果、本気の「大人読み」に到達されているようで、おとなげないたいへん面白かったです。
斬新な見解をいくつかメモっておくと。
まず、第17話「アムロ脱走」。
「ガンダムの操縦者をアムロではなく、リュウにする」
という、ブライトとミライの話を偶然聞いてしまったアムロ。
ホワイトベースを脱走します。ガンダムに乗ってw
こういう「ボクのことわかって」風の男は嫌い、という小谷真理(SFファンタジー評論家)の発言もあり。
さて、ガンダムに乗って家出しちゃうアムロ。そのシーン、背景がまっ黒。星ひとつ出てない。
これが、衝動的に家出してしまって、あてどないアムロの不安な気持ちをよく表している、と(岡田斗司夫説)。
まっ黒の背景。
演出効果としてやったのか、どうか。
じつは、このカットのあとで、もう一回、逃走するガンダムのカットが出てきます。
ちょっとだけ角度がちがってて、上のほうに地平線が見えます。つまり、背景は空ではなく、夜の大地。だから、まっ黒だった。
じゃあ、最初のカットで、黒一面にしたのは、演出かどうか。
…うーん。わからん。何ともいえん。演出家の発言など、こまかくチェックしてると、わかるかもしれませんが。
ともあれ、ガンダムでは、こういうことがママあるような気が。
読み手のほうが、成長しすぎたんです、きっと。深読み、大人読み。製作者らの意図をはるかに超えた、しかし明らかに「そう読んだほうが面白い」という読みが成立している。
ほんとに愛された作品にしか、起こり得ない現象ですヽ(´ー`)ノ
今回、ゲストでいちばん飛ばしてたのは、福井晴敏(作家)さん。『亡国のイージス』のあの福井さんです。
ひょっとすると、テレビ初登場でしょうか。
かなり、緊張されてましたが、ガンダム読みはすばらしかった。
村上春樹の弟、というようなルックスにしゃべり方。とつとつと。深く刻んでいくような話し方。
ターンAのノヴェライズも書いてる福井氏。
ゲストそれぞれの好きなシーンを選ぶ、という趣向だったんです。
で、福井氏→ミハル。
ミハルですかー!(第28話「大西洋血に染めて」)
幼い弟妹のため、アルバイトみたいな形で、スパイとして送り込まれたミハル。
ミハル: この仕事が終わったら、戦争のないところに行こうな、三人で。カイが、そんなミハルを、スパイと知りつつ、ホワイトベースの自室にかくまう。そして、ほのかな恋仲に。ミハルは、「見張る」です(脱力
幼い妹: 姉ちゃん、かあちゃんのにおいがする。
そのミハルの最期のシーン。
海上を飛行しする機体から、ミサイルを手動で発射させるミハル。ミサイルは見事に命中しますが、ミハルは爆風で飛ばされる。
カイは、操縦席にいて、そのことに気づかない。
ミハルは、空中に飛ばされ、死んでいく。その瞬間、髪の毛が空に広がる。空の青を背景に、まるで水死するオフェーリアのように、一瞬、女になる。
あまりに無残な、無意味な死。
作戦として何の意味もないし、戦局への影響もまったくない。誰も誉めないし、気づかれもしない。
戦場での死とは、大半が、こういうものだ、と福井氏は力説。
と、同時に、セクシーだったと。こんな無残な場面に、性的なものを感じるのは、まったく倒錯的なんだけど、子供心にも、このシーンは官能的だった、と。
ミハルといえば、それまでのシーンでは、そばかすで、化粧もせず、幼い弟たちのため必死で働くばかり。髪は後ろで留めて、女性として、正直、何の魅力もなかった。
それが、死の瞬間、生の束縛から解き放たれ、「女」になる。髪が広がり、風に流れる。
福井氏もこれが製作者の演出意図として成立したのか、偶然そうなったのかわからないようでした。
でも、とにかく、そう読める。そう読んだほうが、はるかに物語は深い。
とんでもない作品としての機動戦士ガンダムは、こうしてファンによって発掘されていく。
黒背景のシーンも、ミハルの最期のシーンも、ほんの二三秒の世界です。
記憶の中で、反復され、増幅され、改変され、意味づけられ、動かしがたいものに鍛えあがられていったにちがいないのです。
…ちょっと長くなったんで、いったんここで切ります。もう一回、このエントリーは続きます。