AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: 猿田彦幻視行 アーカイブ

やすらえ、花

written by overQ
April 13, 2008

やすらい祭

よーほい。やすらえ、
花。よーほい。

昨年同様、今年もやすらい祭に行ってきました。
花よ散るなと、赤い、ざんばら髪の鬼たちが、鼓を打って、舞い踊る。
(写真は、去年より大幅に増殖して、なんかエピデミックって感じになってます…汗。)

鬼は疫神。
花の散るころ、疫病がはやることが多かったため、
この祭りによって、鬼を鎮めるもの。

花(=この世を櫻花するもの)と鬼が同格で、散る(=死ぬ)と疫神になるというのは、御霊信仰と同じ思考。
祇園祭も同じ囲いにあり、夢幻能でのあの世この世の取扱いも、
たいていこのパターンに属しています。
春の陽光の中で薄紅色の花であるものが、
常闇のうちにおいては血の色の鬼となる…というビジュアルな変移。
黄泉のイザナミの憂い。(同じ赤なのに。)
日本人の元思想…というより、むしろ人類にとっては
馴染み深い「祭りのキホン」というべきものでしょうか。

今宮神社が有名ですが、すこし南に下がった玄武神社や、
ずうっと北に上がった西賀茂の川上大神宮でもおこなわれる、やすらい祭。
中世には各所でおこなわれていたこともあったようです。

「川上ー今宮ー玄武」のみっつの社は、だいたい南北に一直線上。

三社をハシゴするつもりだったんですが、
川上大神宮のやすらいは、日にちがちがうんだそうで、
行ってみたら、11日に終わっていました( ;∀;)

でも、川上大神宮は、たいへんいいお社でした。
むしろ、ひとけのない時にお参りできて、よかったかもw
村の中にほっこり存在し、大きくはないけれど、気品あり。
起源とかあまりよくわからないみたいで、
天照大神がまつられていますが(だから「大神宮」)、
もとはとくに名前もなく、ただの「神様」が祭られていた…と思わせる。

川上大神宮社

祭りのあとの川上社。
立て砂がこんもり三つ立ててあり、それぞれのてっぺんに、
長石がのっけてありました。
モノリス…を思わずにはいられない。
先日、大往生をとげたアーサー・C・クラークですが、
モノリスの発想はたぶんストーンヘンジなどの、
イギリスの巨石文明が原風景としてある。
ロマン主義がSFに残響してる…「神の声」が。

決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF)
アーサー・C. クラーク

早川書房
1993-02
在庫あり。

by AMAZ君(改)


「北」をめぐる妄想


大きな地図で見る
で、川上大神宮から、まっすぐ一本道を南に下がると、今宮につく。
完璧に南北のライン上にあって、何か意味はあるのかもしれない。

玄武神社は今宮からすこし南で、商店街を抜けて、歩いて20分ほど。
「玄武」は、玄武・白虎・青龍・朱雀の四神の玄武で、「」を意味し、
やっぱり北に何かあるのかなあ。
疫神は北からくる…という考えがあるんだろうか。

北というと、北面の武士と、北政所を思います。
北政所は、太閤さんの正室ねねが有名ですが、
もとは親王や公卿の正室のこと。

財産が女に受け継がれる母系社会、
男は女の住む邸宅に通った。
その名残りで、貴族の邸のの方には、
女の取り仕切る別棟がある…というようなことらしいです。

もとは巫女のような存在だったんじゃないでしょうか。
母系社会で相続される財産は、物質でもマネーでもなく、霊。
(「お宝」のほんとうの意味。)
に陣取る、シンボルとしての女。
菅原道真公の正室も北政所。
道真が歌に読む「梅」さんは、彼女のことでしょう。

天神になった道真は北野天満宮にまつられますが、
それは大内裏の真にある。
御霊を鎮める位置としての、「」。
シンボルとしての女の胎から、荒神が登場する。
それはヒーローであり、死をくぐるものであり、再生するもの。
やすらえ花からキリストまで。
北とは、死と再生の産屋のように思えます。
カマドを置く場所が、たぶん北の離れのはず。
(この話はずいぶん考えているので、
ちょっとこの短いスペースでは書ききれないw)

…と、わけのわからんことを書き付けてきましたが、
どんどん神秘主義にはまってるようだ(;・∀・)
神秘主義ってのは、そこらで手に入るものを、
手当たり次第に利用して、
プリミティブ・アートっていうんでしょうか、
リタイアした元郵便配達人が私材を投げ打って、
得体の知れない彫刻を一面にほどこした巨大な城を、
何十年もかけて、アリが蟻塚を作るように、
生み出したりすることがありますが、
あれと同じ。
ブリコラージュってやつですね。
手近なものをシンボルとして、
手前勝手に意味づけて、マイ宇宙論をカタる、イリュージョン。
ポーのユリイカとか。
そういう方向へ行きつつある気がする(  ゜ ▽ ゜ ;)
アトランティスとかUFOとか空中浮遊とか言い出す日も近いのか。。

うき世にはとどめおかじと 春風の
散らすは花を 惜しむなりけり     西行

花命

花命 posted by overQ2.0

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天の露

written by overQ
April 3, 2008

たら本43では、赤毛のアン、ブラウニング、ジョン・レノンのことを書いたのですが、
ちょこっと付け足し。

DEW、について。
dewは、露。朝露。
そして、デウス(神)と韻を踏む。

「赤毛のアン」では、最初(アルファ)と最後(オメガ)に、ブラウニングの詩が引用されます。

扉言葉として、

The good stars met in your horoscope,
Made you of spirit and fire and dew.
BROWNING

良き星々が天空でめぐりあう時、精霊と
炎と露から、あなたを作ったのです。

そして、最後の一節は、アンがブラウニングの次の詩の一節が静かにささやく。

The year's at the spring
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearled;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in his heaven -
All's right with the world!

"Pippa Passes"

季節なら春。
春なら朝。
朝なら七時。
丘には真珠の露。

雲雀はその翼に。
蝸牛はその角に。
神様はその天にあり、
天の下には世の泰平。

対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)
ブラウニング

岩波書店
2005-12-16


by AMAZ君(改)


蝸牛の角

ここで本題とはちょっとズレるけど、
上田敏先生以来の歴史的誤訳かも、と思える点に気づいたので、
まずは、その話。

Snail-thorn1.jpg上の詩の、

The snail's on the thorn

という箇所。
上田敏は、「蝸牛枝(かたつむりえだ)に這(は)ひ」と訳す。
平井正穂は、「蝸牛、棘の上を這う」。
松本侑子さんは、「かたつむりはサンザシに這う」。
松本正司さんは、「蝸牛山査子にありて」。
最新の岩波文庫版だと、「かたつむりは茨を這う」。

でも、このthorn、カタツムリが乗っかってる草のトゲじゃなくて、
カタツムリの角のことじゃないでしょかね?
ツノ出せ、ヤリ出せ、アタマ出せ、の、角。

だって、この行の前には、

The lark's on the wing
「ヒバリはその翼に」

それに続くんだもの。
次の行のsnailだって、「カタツムリはその角に」と読むべきでは。
翼がヒバリのものなら、同じ文型なんだから、トゲはカタツムリのもの。
詩人は、蝸牛がピンと角を勃ててる様に、春を見た。

ちがうのかなあ。。
みんなそうは読んでないしなあ。。
蝸牛とthornで、何か慣用句とかあるんですかねえ。。

「鳥+on the wing」
というのは、空を飛ぶ様を表わすこなれた表現。
それに無理にシンクロして、
「カタツムリ+on the 角」
という見慣れない形にしたせいで、
誤訳が生じてるんだと思うんですが。

カタツムリの「角」は、ふつうは鹿や牛の角と同じく、
hornで表わすけど、thornも不可能というわけではないはず。
鹿・牛より、もっと植物的なものとして、詩人はカタツムリを見ていると思う。

そもそも、なんで「thorn=刺・茨」というような、
固くて否定的なイメージのあるものが
春をやわらかに讃えるこの詩に混じるのか、
不思議には思ってたんです。
ここに、茨の人生を平然と這う蝸牛のイメージから、
何か深遠なものを見出そうというのが、
従来の「読み」だったかもしれませんが。
…でも、そういう反対物をあえて合一させた深い寓意じゃなくて、
たんにカタツムリの角だったかもしれない。

詩って、やっぱり難しい。
横の語のつながり以上に、縦の韻を踏む言葉のつらなりから、
隠れた意味が現れる。
英語を母国語にする読者たちも、
ここはやっぱり「角」とはなかなか読まないかもしれないけれど、
たぶんブラウニングは「角」のつもりだったと思う。
竹下景子に1500点くらいのオッズで(^_^;)

対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)対訳 ブラウニング詩集―イギリス詩人選〈6〉 (岩波文庫)
ブラウニング

岩波書店
2005-12-16


by AMAZ君(改)


天からの露

さてと、本題の dew に戻ると。
「dew=露」は、神さまが天から授ける、恵みの甘露のイメージがある。
それは聖書にたくさん現れ、定着したイメージ。

God give you of the dew of the sky,
of the fatness of the earth,
and plenty of grain and new wine.
-Genesis 27:28

どうか神があなたに、天の露と、
地の恵みと、
あまたの穀物と新しい葡萄酒を
与えてくださいますように。
「創世記」

Israel dwells in safety,
The fountain of Jacob alone,
In a land of grain and new wine;
Yes, his heavens drop down dew.
-Deuteronomy 33:28

イスラエルは安らかに住み、
ヤコブの泉がひとり
実りとワインの大地にある。
そう、天が甘露をしたたらす地。
「申命記」

Your people offer themselves willingly in the day of your power, in holy array.
Out of the womb of the morning, you have the dew of your youth.
-Psalms 110:3

あなたの力が現れる日、あなたの民は喜んであなたに身を捧げ、聖なる列をなす。
朝の母胎から、若さの露がもたらされる。
「詩篇」

やわらかく、慈悲に満ちた、天の露。
若さや再生とも関係してて、
また地に落ちて、実り(穀物とワイン)をもたらすもの。
天露(天ぷらが食べたくなるw)。
(上の「詩篇」の一節は、おまんこから垂れる露(業界用語でいう「マン汁」)を、どうしても思わせてしまう、性的ニュアンスが熱い。)

カバラでいうところの「上位の水」…ですかね。
グノーシスでは、「天の原始の水」。
世界霊魂は流出し、露となって大地に達し、男性である硝石と女性であるアルカリに凝縮し、このふたつが結びつくことで、酸性のアルカリ塩が生まれます。
…自分でも何を書いてるのか(電池のことを現代人は思い浮かべる)わかりませんが(;・∀・)、
ともかく錬金術でも非常に重要な物質である、DEW。
ラテン語では「露」は、ros。薔薇を思わせるもの。

この露は、正しき者をうるおすマナ。選ばれし者らは、それを求め、天の畑で、両手でそれを受け止める。
ゾハール

日本だと、年の初め(=一年の朝)に汲んだ水を、若水といって、
霊妙な神性をそこに見出します。
月のもたらす聖水であり、月夜見の持てるをち水(変若水)。
飲むと若やぎ、永遠の命を得る。
…霊感商法の口上みたいになってきましたが(;´Д`)
神聖水「若水」、一リットル三十万円で、会員様だけに特別にお分けしています(爆

変若水 - Wikipedia

ともあれ、「若水」と dew が、シンボルとして同じものだというのは、たいへん重要なポイント。
鍛冶師=錬金術師…が伝えたもの、なんだろうなあ。
インド〜エジプトにいたる範囲で発生し、その後、ちょうど柳田国男(蝸牛考)の周囲説を世界大にしたように、周辺に伝播して、ヨーロッパと極東に残ったもの。


シンボルの操作

さて、「赤毛のアン」の扉に刻まれた、ブラウニングの詩では、精霊と火と露が結びつく。
もともとは、エヴリン・ホープという、亡くなった少女への思いをつづった詩。
転生の果てにこの世界ではない場所で結ばれるというもの。
少女エヴリンは、ホロスコープの中でよき星々がめぐり合うとき、精霊と火と露から作られた存在。
すでに死んでいて、肉体をもたないため、土は出てこない。
霊と火と露のみでできている。

Caduceus.gif火と露の合体、というのは、神秘主義では常套句。
とくに錬金術では、男性原理と女性原理、
硫黄と水銀、太陽と月、火の鳥とペリカンの合一、
からみあう蛇として表される(=隠される)もの。
メルクリウスの杖
二匹の蛇(火と水)が杖(霊魂)にからみつく。

 ダビデの星も見ときますか。
ナチスがホロコーストの際に用いたのが今では有名だけど、
もともとは神秘主義に広く見られる聖なる記号。
(そもそもナチスの鉤十字だってそうだ。)
その解釈は多種多様ですが、よくいわれるもののひとつは、
上向きの三角△が火、
下向きの三角▽が水、
そのふたつの組み合わせとして、対立物が調和した聖なるシンボル。

錬金術だと、○に縦線が入ったのが、露(硝石)。
世界霊が流出したもの。天から降る露。
そして、○に横線の入った塩と結合して、
○に十字のシンボルを作る。
これが、テラを表わす、とか。
まあ、これは一例で、錬金術のシンボルは、
ものすごいことになってて、何でもあり。
全然わからん。。

Alchemical symbol - Wikipedia, the free encyclopedia


アンの赤毛、あらたま、荒神

「赤毛のアン(Anne of Green Gables)」では、扉言葉の「精霊と火と露」がもう一度、本文中にあらわれます。
つまり、アンが「精霊と火と露から作られしもの」だと。

For Anne to take things calmly would have been to change her nature. All "spirit and fire and dew," as she was, the pleasures and pains of life came to her with trebled intensity. Marilla felt this and was vaguely troubled over it, realizing that the ups and downs of existence would probably bear hardly on this impulsive soul and not sufficiently understanding that the equally great capacity for delight might more than compensate. Therefore Marilla conceived it to be her duty to drill Anne into a tranquil uniformity of disposition as impossible and alien to her as to a dancing sunbeam in one of the brook shallows.

というのもアンが物事をおだやかに受け容れるようになれば、彼女の性質は変わるであろうから。まったく「精霊と火と露」から出来た彼女のこと、人生の歓びも痛みも、とてつもない激しさで受け止めてしまうだろう。マリラはこう感じて、そのことをぼんやりと気に病んだ。こんなに激しい魂だもの、人生の浮き沈みがどんなに過酷に感じられるだろう、とマリラは気づくのだが、しかし、それと同じくらい歓びもまた大きく、補って余りあるほどであることが、わかってはいないのだ。そのためマリラは、アンが平静で安定した気分になるよう教育するのが、自分のつとめだと感じたが、それは小川の浅瀬できらめく陽光(=精霊+火+露)にダンスをやめさせるのと同じくらい、できそうにもないし、やり方もわからないことだった。

じつに面白い、複雑な色彩をもつ文章(そして、悲惨な私の訳…汗)。
たわめることのできないアンの気性が、「小川できらめく光のダンス」(=霊+火+露)にたとえられる。

それは、私の知る用語では、
「荒神」
と呼ばれるもの。
若水を吸い、あらたに生まれ出た魂は、手のつけようのない、お転婆。
名もなき日本列島の民は、これを「荒神」と呼んで、神と祀る。アラタマ。

どのようにしずめればいいのか、それは、「impossible and alien(=不可能で、未知)」。

しかし、この赤髪の外来者(alien)が、結局は、グリンゲイブルズに光をもたらす。
マリラ・マシュウの不毛な兄妹に、人生の意味を取り戻させる。
ルシファ。鬼。
それを神と祀ること。
価値の転覆。「壊す人」。ハンマーによる哲学(=錬金術、鍛冶)。

日本列島に棲んできた名もなき民の原思想と同じであり、
別な言葉で言えば、「自由」ということ。
神の実在、魂の不死、そして意志の自由。
この三本が、錬金術のカマドを立てる、根本の柱。


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柳田国男の小さな家

written by overQ
August 22, 2007

日本一小さい家

柳田國男の生家

お盆に帰郷してるあいだ、民俗学者・柳田國男の生まれた家を見てきました。
兵庫県神崎郡福崎町。姫路市の北どなり。
辻川という地域。
北に上ったので涼しいかと思ったけど、やっぱり暑かったι(´Д`υ)

辻川は、生野銀山へと北に伸びる道と、播磨を東西に貫く道の交差する地点。
古くから交通の要所で、往来の足しげく、宿場や車場があったそうです。
辻川の「辻」は十字路、交差点ということ。
旅芸人がキャンプする場所もあって、國男の通う小学校にも旅芸人の同級生がいたんだとか。


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とはいえ、辻川は、すごく小さな町。
自伝「故郷七十年」には、柳田の少年時代の思い出の場所がいろいろ出てきますが、
それらをすべて回っても、15分とかからないかもしれない。
子供の領分とはいえ、ほんとに狭いです。ちょっと驚きでした。

柳田は自分の生まれた家を、「日本一小さい家」と呼んでいます。
今残されてる家は、だいぶ改装されてるらしくて、また場所もちょこっと移動していますが、やっぱり小さな家でした。

柳田にとって、この家の思い出は特別に大切なものだったようです。
改装されてからは家に入ることはなく、ちょっと離れた宿屋から、家のわら屋根を眺め、少年の頃をしのんだ、と書いています。

柳田国男全集〈21〉故郷七十年・海上の道柳田国男全集〈21〉故郷七十年・海上の道
柳田 国男

筑摩書房
1997-11


by AMAZ君(改)

兄たち、弟たち

「日本一小さい家」
…縦長に二、三間ほどが続く家。
ここに三世代、8人の兄弟が住みました。
國男は六番目の子。

上の三人は他処へ出、二人は他界していたから、長男のような形。
柳田國男「後狩詞記
「故郷七十年」は、「日本一小さい家」の話から始まります。
小さな家ゆえの、小さな悲劇があった。

一番上の兄さんがお嫁さんをもらうのですが、この小さな家に同居する。
結果、姑との仲がこじれて、出て行くことになる。
長兄は、そのストレスでしばらく酒に溺れたりした後、家を出て、関東で医者になります。

私は、こうした兄の悲劇を思うとき、「私の家は日本一小さい家だ」ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささ、という運命から、私の民俗学への志も源を発したのだといってよいのである。
柳田國男「故郷七十年」

國男からは十五歳も年上の長兄、鼎。
この人がやがて茨城県布川で医者をして、弟たちの経済的な支えとなる。
弟たちはみな驚くほど出世します。

この家は、そもそも松岡という姓で、國男は、マツオカの「クニョはん」。
辻川には松岡姓の家が今もいっぱいありました。
國男は、大学に入る頃、両親が相次いで亡くなり、27歳の時に柳田家の養子になります。次兄の通泰も、井上家の養子。

長兄の松岡鼎は、茨城県布川で医者となり、のちには県議員や町長もつとめます。
次兄の井上通泰は眼科医で、やがて国学・歌人。
柳田国男は、もともとは高級官僚で、のちに民俗学者。
弟の松岡静雄は軍人、のちに言語学者。
末弟の松岡輝雄(映丘)は、画家。

社会的に高い地位を得るのだけれど、人生の半ばで道をはずれ、文人めいた生活を始めてしまう人たちが多い。
不思議な兄弟です。
(「はずれ」におもむく感性。民俗学の真髄。知的理解ではなく、体得すべき何かなのかもしれない。修験のような。)

辻川にいた頃はそうとう貧乏だったので、思えばみなたいへんな出世。
当人たちの能力の高さもあるのだけれど、特別な運命をもった兄弟たちのようです。

柳田國男生家・記念館


兄嫁、初恋

日本一小さな家での、小さな悲劇。
長兄・松岡鼎の最初の妻は、姑との折り合いが悪くなり、家を出て行く。

子供の頃のことで、いつもしきりに思い出されるのは、長兄の許に嫁いで、母との折合いが悪く実家に帰った兄嫁のことである。辻川の灌漑用の貯水池であったが、ある冬の日、二、三人の友人たちとともにそこで氷滑りをして遊んでいた。子供のことで気づかなかったが、池の中心の方は氷が薄くなっていた。家を出された兄嫁は土堤からみつめていたのであろう。忘れもしない、筒っぽの着物を着て、黒襟をつけた兄嫁は、いきなり家から飛び出して来て私を横抱きにすると、家へ連れて行ったものである。
実家に帰ってもやはり姉弟の情愛があったものであろう。私はいつも帰郷するたびにそのことを思い出し、一度は昔の情愛を述べようと、再婚先の伊勢和山の寺を訪ねたことがある。兄嫁は折悪しく留守で、その気を失してしまったことが、いまも悔やまれる。
「故郷七十年」

このエピソードは、ほほえましくも、自伝の中で、3回も4回も繰り返し語られます。
兄嫁に「横抱き」された瞬間が、國男少年の初恋なんだと思う。
兄嫁が再婚したのは奈良のお坊さん。
非常に美男子だったと、なぜか得意げに柳田は兄嫁のその後をつづるのです。


犬のいた場所

國男少年は、家の裏手のお堂の床下で、犬を飼っていました。
犬が子供を産んだときの喜びについて、柳田は著作のあちこちで、何度も書いている。
よっぽど嬉しかったみたいです。そのときの「におい」を今でも思い出すと。

犬は、村全体で飼っているような形で、國男少年はその養育係。
そのお堂にも行ってみました。すぐそこです。少年の足でダッシュすれば、25秒くらいで行ける範囲。

犬を飼ってたお堂

小さい!
床下なんて、20センチくらいのすき間しかないです。子供の頭じゃないと、入れない。(しかも、今じゃあ、コンクリートで固めてあるw)


このお堂は、在井堂という名前で、薬師様をまつってあり、井戸があります。
この井戸は「峰相記」という、足利時代の本に出てくるらしい。

在井堂に関する一条が「峰相記」の中にあることから、じつはこの本が偽書であろうと推定しつつもそう断定するのに忍びない気持ちがする。

と柳田は書いています。
「この空井戸のある薬師堂は、私がいつまでも忘れえない思い出の場所でもある。」と。

薬師堂の床下は、村の犬が仔を産む場所で、腕白大将の私が見に行くと、いやでもその匂いを嗅ぐことになった。そのころ犬は家で飼わず村で飼っていたので、仔が出来る時はすぐに判った。その懐かしい匂いがいまも在井堂のたたずまいを思い起こすたびに、うつつに嗅がれるようである。そこから一丁ほど北の方に氏神の鈴森神社があり、おおきなやまももの樹があった。またを明神様ともいい、村人は赤ん坊が生まれると、みなその氏神に詣でて小豆飯を供えていた。その余りを一箸ずつ、集まって来た子供たちのさし出す掌の上にのせるのがならわしであり、村の童たちの楽しみでもあった。前もって、その日を知って、童たちは神社へ集まってくるのであった。母親が「よろしくお願いしますよ」と、いいながら呉れる一箸の赤飯に、私は掌を出したことがなかった。親に叱られるからでもある。私は後年この氏神様を偲んで、こんな歌を作ったことがある。
  うぶすなの森のやまもも高麗こま犬は懐かしきかなもの言はねども

うぶすなの鈴森神社

鈴森のやまももの樹

鈴森神社のコマ犬さん。國男少年はここに登って遊んだ。

ずずだま。「海上の道」のはじまりは、近所に自生していたズズダマの記憶。

鈴森神社のそばの石神。柳田の民俗学は、石神の探究から開始される。この地域は古墳もたくさんにあって、石の神秘に日常触れる人々が古くから住んだのです。

長々と引用してしまいましたが、自分の思い出じゃないのに、なぜだかとても懐かしい気がして。
なんでもない、ありふれた日常であり、過ぎ去った日々。
誰もが似たり寄ったりの思い出を持っているし、それらは忘れられていく。
でも、柳田国男は、こうした、なんでもない、ありふれた、「日本一小さい」日常に目をむけ、耳を傾け、匂いをかぐ。
民俗学…おどろくべき価値の転倒。
日本一小さいものを見出すことから、日本一大きな学者が生まれたということ。
天下国家の大説を論ずべき官僚であったにもかかわらず、「日本一小さい」場所に回帰しつづけた、不思議な大学者。
民主主義より「民主」の重さ軽さを知り、科学より「本当にあった事実」に拘泥し、小説よりも小さい日常を語る「文学」を工夫する。
「日本一小さい」ことから始める柳田の民俗学、その開く世界は目もくらむほど広大。この地平をしずしずと「日本」と呼んでみることもできるのでしょうか。


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兄者と妹者 後篇

written by overQ
May 26, 2007

田植えをする乙女

のバカ力」の記事では、怪力女たちの系譜をたどりました。
富士山から琵琶湖までの地域に出現し、道場法師という怪力僧の血を引くという女たち。

そのひとりは、名だたる相撲取り・光遠の、その妹。
つまり、兄者と妹者。
妹は天下に名を知られた相撲取りの兄に、2倍まさる力持ち。
丹塗矢ならぬ、矢の束を30本つかんで、床板に押しつけ、バリバリ折ってしまう怪力。
神が依りついている。

そう、このお話は、「神の妻である妹+その兄者」の類型。

別な怪力女、大井子。
彼女は寡女、つまり独身の女。
神と結婚したがゆえに、現世では独身である女。

大井子のエピソードは、ふたつ。
・古今無双の(はずの)相撲取り氏長の特訓のため、握り飯を握る。
・田に水を引く引かないで村人と争い、巨石を投げる。

握り飯と水田。
これはじつは、田植えの行事と関係があるらしい。
説話の時期はちょうど今頃。梅雨前の田植えの季節。
無双の相撲取り・氏長は、七月の京の相撲節会に出かける途上で、大井子に特訓を受けているのです。

田植え

植えは、女の仕事でした。
早乙女と呼ばれる処女が、田植えをした。そうでなければならなかった。
今でも儀礼的に残っている地方はあるんじゃないでしょうか(葵祭の斎王代も、間接的な名残り)。
田植えは、稲の苗に、神を依りつかせる神事。神の依りついた「神の妻」にしか、出来ない仕事だった。 *1
私の憶測の筋道では、田植えの時点では、すでに「処女」は神の子をはらんでいます。

前篇」で登場した、今昔の兄妹の話も、田植えにまつわるものだったことに注意。
「田植え女を雇おうとする」「鎌など鉄器を用意する」というのがポイント。

また田植えの際、お昼ご飯を出すのも、乙女らの役目。
彼女たちはオナリと呼ばれた。
カミのミタマをこめて、むすんだのがオニギリ。
柳田国男「玉依彦の問題」に引用されている民謡では、

今日のおなりの姫をやとふには、
兵庫の町の中の町
(かけ)おなりの姫様をやとひ取るにはな、
あまたのよせいで駕籠で迎へたりな

(さげ)おなりどが十二の釜をとぎ上げて
(五月女)さんばい様の飯を炊く

オナリは、神の依りましとなって、神のミコト(御言=御子)をはらみ、「うなる」ことから来ている…と柳田は言います。
沖縄にはもっとはっきりと、ヲナリと呼ばれる神の依りしろとなる乙女たちがいる(伊波普猷「をなり神」)。
また沖縄にも前回記事の今昔「妹背島」説話とそっくりな話があることも紹介しています。
島々では、兄者の船を守る妹(の髪の毛、陰毛)という伝説があるようです。
柳田はさらに、朝廷に捧げる女たち「釆女(ウネメ)」も、オナリと関わりがある、とも。

大井子が握り飯をにぎり、水田の水引きに躍起なのは、彼女がオナリだから。 *2
田植えの斎王さま。
怪力女は、神のよりつく妹たちなのです。 *3

どこの誰だか、道場法師

fujinraijin.jpg

力女のご先祖とされる道場法師とは、何者?

道場法師は、雷さまの子供。
日本霊異記・上巻「雷(いかづち)のむかしびを得て、生ましめし子の強力ありし縁 第三」。

敏達天皇の御世。
尾張の国阿育知(あゆち=愛知)郡の片輪の里に、ひとりの農夫がいました。
小雨の降る日、田に水を引こうと、木の下で金の杖を突き立てました。
すると雷が落ちて、小さな子の姿で立っています。
農夫が金の杖で突こうとすると、雷さまは、
「いたいし、やめてよ。なんでも望みを叶えてあげるからさ」
「何をしてくれる?」
「子供を授けてあげるよ。だからボクのために、楠で船を作って、その中に水を入れ、竹の葉を浮かべて下さい」
言われたとおりすると、雷は煙とともに天に昇っていきました。
その後、子供が生まれた。頭には蛇が2匹巻きついていたのです。

じつはこの「頭に蛇2匹」は、賀茂の若神さま・別雷命(ワケイカヅチノミコト)が生まれてくるさまと、まったく同じです(柳田「雷神信仰の変遷」)。
道場法師=別雷命。

やがて、雷さまのくれた子は少年となり、都に出て、力比べをしました。
都で一番という力持ちと、巨石の投げ比べ。
もちろん少年が勝ち、彼が巨石投げに立ったところには、
足跡が深々と掘り込まれていたといいます。

その後、少年は元興寺の童子となり、
鐘撞堂の鬼を退治し、その髪を引っこ抜きます。
その肉つきの髪は、寺の宝として伝えられています。
さらに、元興寺が朝廷と田の水争いをしたとき、
怪力で巨石を投げて、寺の田に水を引きました。

別雷命たち賀茂の神さまの伝承は、記紀と山城風土記では、ひどくちがっている。
正直なところ、記紀にはちゃんと取り上げてもらえなかった。
でも、賀茂の神さまのカタリは、田植えと深く結びついているので、なくなりようもない。
仏教の下に身を隠し、神の名じゃなく「道場法師」という名前で、生き延びてきたようです。
朝廷と寺が水争いして、朝廷を打ち負かすというのが、なかなか勇ましい。

(鉄器の伝来をめぐって、中臣に負けたんじゃないかなぁ、賀茂さんの神話。中臣鎌足のカマは、鎌=釜のカマ。でも、ほんとは鉄器のカマは、賀茂のカモかも。弥生、あるいは縄文末からの、小競合いなのかもしれません。
鎌足の話はまたいずれ。鍛治師さんたちは、熱い鎌足マニアなんです。)

どこの誰だか、ダイダラボッチ

柳田国男全集〈21〉故郷七十年・海上の道柳田国男全集〈21〉故郷七十年・海上の道
柳田 国男

筑摩書房
1997-11


by AMAZ君(改)

異記は、
第一話が「雄略天皇の御世、雷の子、少子部栖軽(ちいさこべすがる)をとらえる話」。
第二話が、「狐が産んだ子供の話」。
三話目が、さっきの「道場法師の話」。

一話目と三話目はつながってるようなもの。
また、二話目のキツネの子は、「妹のバカ力」で出てきた、怪力女・美濃のキツネを思い出させます。
事実、「美濃のキツネ vs 小さい女」の力比べ話は、霊異記・下巻に出てくる。
その舞台は愛知の片輪の里。
(ちなみに、四話目は、聖徳太子の話。)

霊異記が、どうしても「道場法師」にまつわるエピソードを書いておきたかったのが、よくわかります。
怪力女たちは、雷神の子・道場法師(別雷命)の子孫であり、またその妻でもあるはずです。
田植えの時期、その怪力が現われるのは、雷神を活性化して、雨を降らせるため。
朝廷が怪力女を実際に中央に召し上げていたのは、釆女のようなものとしてですが、
地元に田んぼ(膂力婦女田)を与えているのは、膂力婦女子が田んぼの巫女だから、というわけです。
…すべての謎は解けましたヽ(´ー`)ノ

さらに、もうひとつ。
道場法師が巨石を投げようとして踏ん張った足跡が、深々と残っていること。
かつて、滋賀の石山寺にも、そんな伝承を持つ足跡石があったそうです。

剛力の足跡。
これはダイダラボッチ(=大道法師)の伝説と同じ。
ダイダラボッチは、まあいえば、富士山を築いた怪力男で、そのために土を掘った跡に水がたまったのが琵琶湖。
琵琶湖のそばの石山寺に「踏ん張った足跡」が残されていたのは、そういうわけです。
誰がニッポンを作ったのか。

富士山から琵琶湖にかけてのカタリなのです。


*1 : 「処女で結婚する」「女が家事をする」という迷信は、神が見失われ、この風習が意味不明になったあと、わけもわからず固定した因習かもしれません。
*2 : 相撲取り氏長の腕を大井子が脇にはさんで、放さない…これは、セックスの暗示。氏長は、「姿なき雷神」の役回りで、彼の種によって、大井子は「処女懐胎」するのです。光遠の妹も、束ねた矢をおしつぶす時点で、強盗から「種」だけ奪っているのかもしれませんw
*3 : 小野篁と紫式部の墓がとなり合わせなのは、兄者・妹者パターンによるのではないか、と疑い始めてるのですが、まだちょっとわからんですw もちろん、歴史的事実としては、篁・紫に血縁もないし、時代もずれています。カタリの中で、どう扱われていたか。
紫野は北野天満宮がある雷の聖地。

投稿者 overQ : 8:00 PM | トラックバック


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