百鬼夜行の横行する、平安京の「あははの辻」。
二条大宮、今の二条城入口あたり。
「あはは」という不可思議な名称。
従来は「あはひ(合わい)」の転かと言われてきた。
しかし、播磨風土記に「鴨波」と書いて「あはは」と読む例あり。
粟を植えたから「粟々=あはは」の里と地名説話。
宮本常一の説では、粟は秦氏のような地方開拓民にとって重要な農作物。
鉄器で新たな土地を開墾し、定畑を作る。
どうやら日本各地で粟の名をもつ地名、弥生から古墳時代、鉄器による新規開拓地が多いように見える。
日本文化の形成 (講談社学術文庫)
宮本 常一
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さて「あははの辻」のあたりは、神泉苑の池の北辺。
堀川と太子道が交わる「辻」でもある。
太子道とは、秦氏の根拠地、太秦から平安京に東進する道。おそらくは平安京より古い。
堀川も平安京以前の秦氏による灌漑用水と見られ、神泉苑の池をはじめ、灌漑用の満濃池がこのあたりに点在したらしい。
内裏はもともとは秦河勝の邸があった場所とも(「拾芥抄」)。
かくして、「あははの辻」は、太子道と堀川の交わる辻、河勝邸の南べりにあった「粟々の辻」であったか、と推測。
また、粟田口・粟田神社に名を残す粟田氏、平安京以前から山城国に住む氏族と関係するだろう。
(粟田氏は鍛治師でもあり、能「小鍛治」に見られるように、伏見稲荷と結ぶ。伏見稲荷は深草の秦氏の社。)
秦は、松尾神社や賀茂神社の由来にもあるように、山城北部の氏族・加茂氏と、婚姻を含め、深く結ばれる。粟田氏との関係にも似たようなものを想定したいところ。
それが平安京以前の地勢図であるかと。
このど真ん中に、平安京は築かれる。実作業にあたった土工もまた秦のグループのはず。
賀茂と秦の結びつきは山城国だけでなく、全国の開墾地に広く見られるようだ。
例えば、滋賀・高島は、「鴨川」が流れ、賀茂神社・松尾神社が祭られる…というように。
播磨の「鴨波の里」も今の加古川東、賀茂社のあるあたりであったか。「あはは」に「鴨波」という字を当てたのは、「鴨=加茂氏」「波=波多氏」を思わせ興味深い。
こうしてみると、「あははの辻」は、粟田の「粟々」であるとともに、秦と賀茂が出会う「あはひ」であったか。
鉄器を中心に諸氏族がネットワークした、平安京以前の社会。灌漑用水=堀川と、その水のリザーバである神泉苑。そして、太秦と結ぶ太子道の辻。
本来はそのあたりで市が立ち、物と物が交換され、男と女が交歓したのではないか。
そういえば、賀茂社のシンボル・葵は、「あふひ」と古典仮名遣いで書く。
もうひとつ、このところ追ってきたのが、「一つ目の巨人」。
こちらも、あははの辻と結んでみる。
そのリンクを通じて、百鬼夜行に戻っていきましょう。
火をともして過ぐる者どもを見給へば、手三つ付きし、足一つ付きたる者あり、目一つつきたる者あり。「早く鬼なりけり」と思ふに、物もおぼえずなりぬ。「古本説話集」第五十一・西三条殿若君遇百鬼夜行事
場所は「あははの辻」のすぐ東、内裏の美福門。
西三条殿(藤原良相)のドラ息子・常行が、女のもとに通おうと禁夜に出歩き、百鬼夜行に出くわすエピソード。
「夜歩く」シリーズの最初のほうで、「今昔物語集」のバージョンで取り上げたやつです。
今回は「古本説話集」のバージョンを引用してみました。
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古本説話集は、昭和17年に個人の蔵書から発見された説話集。
いつ誰が書いたのか、もともとの書名もわかっておらず、「古本説話集」は仮題。
今昔など他の説話集と一致する話も多く、最近、講談社学術文庫にも入った。
「今昔」との大きな違いは、百鬼の描写。今昔では素っ気なく、
「火燃(ともし)たる者共過ぐ」
となってるところを、「古本説話集」では、
「手三つ付きし、足一つ付きたる者あらい、目一つつきたる者あり。」
と、おどろおどろしさ311%増。
とりわけ「足一つ、目一つ」というのは、ダイダラボッチ(=天神のなれの果て)していて私には興味深いのです。
このエピソードの類話は、ほかにもあって、こんな具合になってます。
手三付テ(足)一付物有、面ニ目一ツ付物有。
「打聞集」 第二十三・尊勝陀羅尼事或隻眼一手三目二頭奇形異類甚可怖也。
「元亨釈書」
いろいろバリエーションがある。
説こうとしている方向は、この列島の各地に鍛治や農耕と結びついて存在していた天神信仰が、大和朝廷の出現で「天皇」に一本化される過程で、いろいろいざこざを起こす。そのひとつとして、平安京の百鬼夜行を見ようとするもの。
かなり大掛かりな仮説です。そしてさらに、道真=天神や義経伝説にも、同じ方向で検討を加えようという展望を持っている。
「古本説話集」のダイダラボッチな描写が、すぐに天神信仰のあかしになるわけではなくて、ごく弱い傍証にすぎないのだけれど、ちょっと気になったので引いてみるんです。
この説話をかなめに、「あははの辻」と、ここんとこ熱心に見てきたダイダラボッチ=天空神信仰を、ゆるく結わえておく。
このゆるいむすびは、しかし、古代と中世、さらにはるか太古と現在をつなぐ橋かもしれない。
それは歴史学・民俗学・神話学・京都学を円環する、ミッシングリンクになる予感がある。
あははの辻。
ここで京の碁盤目状の通りの平行線が交わる。人類の謎への扉が開かれる。
次回は、神話学的にアプローチする、三本足のこと。

片目片足の神を追って、今回で四つ目。
ギリシャ神話のキュクロプスもまた、片目の鍛治の神。
ダイダラボッチや天目一箇神に、驚くほどよく似た神さまです。
片足であることも多く、上の絵も意味ありげに、右足で正八面体を踏みし姿。
■Cyclops - Wikipedia, the free encyclopedia
サイクロプス(Cyclops)は、サイクロンの語源。
なるほど台風の目も一つ。天に開いた円(つぶ)らな瞳であり、お天気の神さまとして、まさに天神でもある。
サイクルとも縁語で、もとをたどるとクルクル回る車輪のこと。
あるいは、「日輪」つまり太陽のことであったか。
(wikipediaで見つけた上の絵は、薔薇のごとき台風も日輪も。意図的?)
英語読みでは、サイクロプス。
Xメンに登場する目からビームの超人が、この神に由来するキャラ。
ビームは太陽を思わせ、キュクロプスの瞳が太陽であるという説(私にはもはや確実なことに思えるのです)は、もしかして密かに伝えられてるのか?
(サイクロプスは、最初に追っていたサイの神のS+K(Y)に完全に準拠することも、そうっと言い添えて。ずっとこの神を追ってきたんだ。)
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キュクロプスは、一人の神の名ではなく、キュクロプス族。
片目の神の種族です(ひたいに目をもつ三ツ目の場合も)。
天神ウラノスと大地母神ガイアの三人の息子。
アルゲス(Arges)、ステロペス(Steropes)、ブロンテス(Brontes)の三兄弟。
どの名前も雷と関係があるそうですが、ブロンテスは雷にしても、アルゲスは「銀 argent」で月を思わせ、ステロペスは「星 star」と縁語に見えるがどうなんだろう。日月星の三兄弟。
ともあれ、天ウラノスと地ガイアの交わりから生まれること、雷神であり鍛治の神なのが、ダイダラ度、高し。
キュクロプスは、父ウラノスにより奈落タイタロスに落とされます。
太陽の役を剥奪された、と見ておきましょう。
実際、天ウラノスは、元来は星空の神。そこに太陽はないのだから。
やがてゼウスによって幽閉を解かれたキュクロプス。
お礼にゼウスに雷の剣を贈る。
これが、鍛治神とされる由来。
ポセイドンには三叉矛、ハデスには隠れ兜を贈ります。
隠れ兜というのは、ちょいと興味深い。なぜなら鬼の持つのが、隠れ蓑。鬼を斬るのは、雷公の剣。
どこまでもそこはかとなく山鳥の、しだり尾のように長々と妖しげに、一つ目どうしで和洋がつながる。
ところでキュクロプス、なんで三兄弟なんでしょう。
古代ギリシャには三つの太陽があったのだろうか。
そういや、泥田坊は妖怪人間のような三本指だし、あははの辻に出る片目片足の鬼の腕は三本らしい(「古本説話集」)。
なんでも、古代のカマドは、三つの立て石で出来ていたらしい。
北九州、八幡神の始まり、宇佐の山上にある、三つの石神。
それが、大昔のカマド(あるいはタタラ、溶鉱炉か)、すなわち火の神だったと、柳田国男は推論しています(「炭焼五郎が事」)。
三つ石を立てて、カマドとする。
天で三つというと、太陽・月・星を思わせますが、ここはもう行き止まり。ほのめかすのみ。秘数は三。(のちは口伝で。)
エジプトには、ホルス。
もっとも古い神さまのひとり。
何千年にもわたって、その神話は、さまざまに習合・野合。脱線転覆を繰り返した結果、無数の顔と名前を持つ。
■Horus - Wikipedia, the free encyclopedia
太陽と月をふたつの眼とする、天の神。
また、ホルスは天駈ける鳥ハヤブサの姿で表される。(前回、日本書紀で出てきた「天日鷲神」をふと思います。)

翼のある日輪(winged disc)はホルスから始まって、メソポタミア、ユダヤ、ゾロアスター、ギリシャでも用いられるシンボル。
ナチのシンボルも、この影響下にあるのでしょうか。
■Winged sun - Wikipedia, the free encyclopedia
もともとはエジプトのファラオが不死であること、とりわけ王位の継承を正統化するものだったらしい。
沈んだ太陽が再び昇る、死と再生のイメージを用いたのです。

よく知られた伝承では、ホルスは、王の中の王であるオシリスと、その妹イシスの子。
(→オシリス・イシスの夫婦道祖神のように仲むつまじい姿。18禁。)
父オシリスがその弟セトの謀略で殺された後、息子ホルスはひそかに復讐を近い、やがて王位を奪還する。
…そんな物語性の強い神話になっていきます。
べつな言い伝えでは、ホルスは、オシリス(父)・イシス(母)・セト(叔父)と兄弟。
また、敵役の兄セトを倒したのち、母か姉妹かであるイシスと結婚したりします。
そもそもが「オシリス=ホルス」だと言いたい神話なので、差異がつぶれて同一化しがちのようです。
ホルスは最初は、太陽神ラーの息子であったらしい。
すると、「ラー=ホルス」な同一化原理が働いて、ラー・ホルアクティ(Ra-Horakhty 「地上のホルスたるラー」)に習合。これはファラオの御祖の神。
賀茂社の別雷神の伝承と、よく似た構造になっております。
王子が王の転生であり、ゆえに王位継承は正統な、王の同一性の保持。
死によって刻まれる絶対の差異を解消、再生による同一性の復帰をおこないます。
兄と妹、姉と弟の婚姻が隠されているのも、賀茂の神さまたちと似てる。
あと、兄弟セトが敵役で、これが父と子の差異を解消し、「同一物」としてつなぐための媒介になる。
自分とよく似た存在と争って(あるいは自身の光と影との戦い)、勝ったほうが「正統」となるんです。
これも、神話によくあるパターン。日本神話ではオオナムチとスクナヒコナ。相撲の起源もじつはこれだと思います。占石・力石を持ち上げて、婿を決めるのも。
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また、ファラオの祖であるホルスの伝承は、キリストの伝説群にも影響しているのではないか、と言われるそうです。
父・子・精霊の三位一体や、聖母とヨセフ、父である神の関係に通じるものがある。
ホルスは、母イシスにいだかれた「子」の姿で像になっていて、これがイエスとマリア、チャグムとバルサな聖母子像の起源だと言う人もあります。
「死と再生」をめぐる構造が、さまざまなレベルで似てはいます。
キュクロプスが天と地の結婚から生まれるのもそうだし、日本の天皇制も、もともとはよく似た継承構造だったのではと思われます。
エジプトの文明が長々と続いたせいで、じわじわと伝播したのか。
あるいは、それはヒトにとって、たいへんナチュラルな思考法なので、伝わりやすかったのでしょうか。
どうやら人類は、ひとつのシンプルな神話を、ちょっとずつ変化させて、使い回しているだけのようです。

セトと争ったとき、ホルスは片目を傷つける…というバリエーションもあります。
傷ついた片目は、夜を生み、月となる。暗い太陽。明るくなったり闇に呑まれたりを繰り返す。
天照大神は、イザナキが黄泉から還った時、左目を洗って生まれた神さま。
当然もう一人、右目から生まれる姉妹神がいる。
それが月読命。
ここに左の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、天照大御神、次に右の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、月読命。
次に御鼻を洗ひたまふ時成りし神の名は、建速須佐之男命。「古事記」
鼻も洗ってしまうのが面白いです。
神話としても右目左目から太陽と月が生まれるのは多いが、鼻はめずらしいとか。
すでに荒神、風邪の疫神のニュアンスもある、スサノオ。
ツクヨミの「よみ」は、黄泉と通じるんでしょうか。
闇に開かれた、もうひとつの瞳。
秦氏の松尾大社のとなりに、月読神社あり。
松尾の大山咋神、もとは太陽神・天神であったか。つまり、月読社とペアだったのでは。
天照大神つまり朝廷に遠慮し、やがて曖昧になってしまったのかもしれません。
*1
闇に呑まれた、もうひとつの瞳。
この考えは魅惑的。漫画「蟲師」の主人公ギンコは、片目を闇に呑まれ、ために「もうひとつの世界」を見ることができる、という設定。
こういう思考も、きっと太古からあるものにちがいない。
小豆や麦などの葉で、神が片目を傷つけ、そのせいで村では小豆を作らない(あるいは逆に小豆ばかり作る)という伝承が、日本各地にあります。
この話は、神さまがなぜ片目になったかや、夜はどうしてできたか、という謎々とつながるはずの、神話の断片と思ったりします。
残念ながら、そうした「つづき」は今のところ、見当たらないのですが。
上の目の絵は、「ホルスの眼 Eye of Horus」と呼ばれる、魔よけのシンボル。
古代エジプトといえば、このマークを連想される方も多いはず。
「ラーの眼 Eye of Ra」、「月の眼 Eye of the Moon」とも呼ばれます。
失われたほうの、ホルスの眼です。
自己の影、ダークサイドであるセトとの戦いで、失われし眼。
闇に啓かれた瞳。
ツクヨミ(月読)は、月夜見。そして、憑く黄泉。いつく闇。
上目遣いの三白眼。天が恋しい。
それは「もうひとつの世界」を眺める目であり、神秘主義の奥義をしるす象徴=道標(みしるし)となる。
■Eye of Horus - Wikipedia, the free encyclopedia
というわけで、「片目で片足の巨人、なあに?」という謎々から出発して、ホルスの眼までたどり着きました。
おそらくこの神話、もとからナゾナゾの形で伝えられていた。
長く見失われていたその答えを、ふたたび見出したかもしれません。
片目片足(単眼単脚)の巨人、ダイダラボッチ。
その一つ目玉は、後の時代には零落して、一目小僧や泥田坊、カラカサお化けになるのでした。
しかし、もともと、このモノアイ(単眼)の正体は、太陽であった。
足は雷で、片足飛びしながらデンデン、ダイダラと、地団駄踏んでやってくる巨人。
天そのものを神格化した、巨大な神さまなのでした。
これまでの二回では、そのことを書いてきました。
□AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: 一つ目の巨人
□AZ::Blog はんなりと、あずき色☆: 泥田坊のこと
ダイダラボッチにつらなる片目片足の巨人の伝承。
その古い記述をたずねると、播磨風土記・託賀(たか)郡の天目一箇神に行き当たります。
すでに取り上げましたが、もう一度、見ておきましょう。
託賀は、昔、巨人がおって、いつもかがんで歩いておった。南の海より北の海に至り、東から巡行した時、この地にやって来た。
「他の土地は低くて、いつもかがんで行かねばならなかったけど、この地は高くて、背を伸ばして行くことができる高さだよ」
だから、託賀(たか)郡という。その跳んだ足跡が、数々の沼となった。託賀郡
託賀者、昔在大人、常勾行也。自南海到北海,自東巡行之時、到來此土云「他土卑者、常勾伏而行之、此土高者、申而行之.高哉。」故曰、託賀郡。其踰跡處、數數成沼。
荒田は、ここに神がおった。名は、道主日女命(ちぬしひめのみこと)という。
父の無いままに子を産んだので、うけひ酒を醸すため、七町の田を作った。七日七夜で、稲が成熟しおわった。
そこで酒を醸し神々を集め、その子に酒をささげさせて、神に奉らせた。すると、その子は、天目一箇神に酒をささげた。そして、これが子の父とわかった。
後にその田は荒れてしまったので、荒田村と名づける。荒田者。此處在神、名、道主日女命。無父而生兒、為之釀盟酒、作田七町。七日七夜之間、稻成熟竟。乃釀酒集諸神、遣其子捧酒而令養之。於是、其子、向天目一命而奉之。乃知其父。後荒其田。故號、荒田村。
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足跡として池を残すダイダラな巨人。
そして、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、「天の一個の目」。
つまり、太陽のこと。目玉が太陽であるモノアイの神です。
すると、その数行前にある文、
「南の海より北の海に到り、東から巡行の時」
とは、夏から冬になって、日の出の時。
つまり、冬至かお正月かの朝ということになるでしょうか。
*1
宮廷では冬至に近い、十一月の寅の日、鎮魂(みたまふり)祭をおこなっていた。
日の御子としての天皇の霊力を更新するもの。その年の収穫を賞め味う、新嘗祭の前日におこなうんだと。
(講談社学術文庫版「古事記」の解説文)
左義長…トンドのことを思います。
でっかい棒を立てたり、東日本ではワラの巨人を作る。それをダイダラともサイの神とも呼んでるところがあるはず。
神が背伸びする季節。
*2
今も、タカ郡のこの場所には、天目一神社があります。「数々の沼」もある。
「荒田」の由来とされる、酒をささげさせて処女懐胎の父神を知る話は、賀茂社の別雷命にも同じ話が伝わります。もう何度も引いてきたもの。原文つきはこう。
玉依姫(たまよりひめ)が、石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が、川上から流れ下ってきた。拾って床のそばに差し置いていると、やがて男の子をはらんだ。
その子が成人した時、外祖父の建角身命(たけつのみのみこと)は、八尋の家を造り、八つの扉を固く閉め、八腹を満たす酒を醸して、神を集めに集め、七日七夜、遊宴をもよおした。そして、子に語って言ったことには。
「お前の父と思しきものに、この酒を飲ませるんだよ」
すると、子はたちまち、酒盃をかかげ、天に向かって祭りたてて、屋根瓦を分け破って、天に昇ってしまった。すなわち外祖父の名によって、賀茂の別雷命(わけいかづちのみこと)と名づける。丹塗り矢は、乙訓郡の社におられる、火雷命(ほいかづちのみこと)である。玉依日賣、於石川鷂小川、川遊為時、丹塗矢、自川上流下、乃取插置床邊、遂孕生男子。
至成人時、外祖父建角身命、造八尋屋、豎八戶扉、釀八腹酒而神集集而七日七夜樂遊,然與子語言、
「汝父將思人、令飲此酒。」
即舉酒坏、向天為祭、分穿屋甍而升於天、乃因外祖父之名、號可茂別雷命。所謂丹塗矢者、乙訓郡社坐、火雷命在。「山城風土記逸文」
こちらは「目=太陽」じゃなくて、「足=雷」のほうに、お姿を見るようです。
屋根を突き破って、天に帰還する激しさも、雷ならではの蹴り裂き技。
神が背伸びをする季節。
それは、神が天に変える季節なのかもしれない。
賀茂の「神の子」は、成人した時に、天に酒をたてまつる儀式をして、昇天する。
イエの子ではなくなり、母のものでもなくなって、カミになる。
クリスマスのこと、なぜか思います。ドストエフスキーが、アリョーシャは成人の頃、きっと死ぬんだと予言したことも。
神は没落する。そして、闇の中で正体を顕し、昇天する。
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太陽と雷の関係については、前回も触れたように、柳田国男が見抜いてたこと。
この美しい錦の小蛇という想像の起りも、私たちには略々わかっている。これは今でも稲妻の名をもって呼ばれる電光の形から、これを太陽がこの世に通おうとする姿と、考えるに至ったので、或いは黄金の箭とか丹塗りの矢によそえたこともあったが、実際に天から人界に降って来る火の線は、蛇のようにうねり又走っていたのである。次にはその光の蛇が妻をもとめんとした目的も、日本でならばまだ跡づけ得られる。即ち人界に一人の優れたる児を儲けんが為、天の大蛇を父とし、人間の最も清き女性を母とした一個の神子を、此の世に留めようが為であったらしいのである。「桃太郎の誕生」
天目一箇神、つまり天の一ツ目である、太陽。
そして、別雷命の雷は、天の片足。
雷か太陽か、ということではなく、
こうして「天」という巨大な、片目片足の神が立ち現われます。
各所で、同じ神話のちょっとずつちがうバリエーションができる。
神の名前をちがっていて、目か足か、注目する部位もちがうのだけれど、プロトタイプとしては同じもの。
天目一箇神は、「日本書紀」や「古語拾遺」(忌部氏が述した神話の別バージョン)にも出てきます。
どちらも天の岩戸にアマテラス大神がおこもりになり、アメノウズメが踊りだす直前。
いろんな神さまに、それぞれの職分を与えるシーン。
*3
即ち紀国の忌部(いみべ)が遠祖(とほつおや)手置帆負神(たおきほおひのかみ)を以て、定めて作笠者(かさぬひ)とす。
彦狭知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬひ)とす。
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)とす。
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆふつくり)とす。
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たまつくり)とす。
及ち太玉命(ふとたまのみこと)をして、弱肩(よわかひな)に太手襁(ふとたすき)を被(とりか)けて、御手代(みてしろ)にして、此の神を祭らしむるは、始めて此より起れり。
且、天児屋命(あまのこやねのみこと)は、神事を主(つかさど)る宗源者(もと)なり。故、太占(ふとまに)の卜事(うらごと)を以て、仕へ奉らしむ。
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天目一箇神は、作金者。鍛治の神さま。
ここではもう「天」や太陽に直接関わるカミではなくなってる。
それは当然のこと。アマテラス大神がいらっしゃるもの。
天照大神(天皇)に太陽の役を統一するのが、記紀の目的。
興味を引かれるのは、このあたりに登場する神様の名前。
よく見てみると、どれも天や太陽みたいです。あるいはその宿りつくメディア。
・天目一箇神
・天日鷲神(ホルス?!)
・櫛明玉神
・太玉命
・天児屋命(屋根を突き破って天に達する神児を連想。)
・手置帆負神(帆は穂? 手置=田植?)
・石凝姥神
各地方で同じ型の神話があり、名前はちがうが、同じ役割をもった神さまなのかもしれません。
つまり、天や太陽をあらわし、稲などの作物、鍛治の鉄に宿る天神さんたち。
鉄器を用いた農業とともに、各地に伝わった神話。
鉄器作りや農作業と結びついた神であり、それぞれの地方でまつられて、ちょっとずつちがったバリエーションが出来ていく。
記紀の記述では、これを再統合する。
しかも、天神(稲に宿る太陽、神ノリ=実ノリをもたらすもの)は、天照大神だけとする必要がある。
それで、各地各氏族で天神であったものが、アマテラスのこもられた岩戸の前で祭りをする役に回ったのでは、と。
こんなふうに、もとは同じ型の神話の神様たちを、重畳させていく、リダンダントな作成方法が、記紀ともに見られる、と思いはじめています。
同一神話のバリエーションを、無理から一つの統一的神話にまとめていく。
天皇に「天」の字を冠するのは、「天神が地上のウツホ(空穂)にやどりつく」という思考が、稲の民の根本原理であったからかもしれません。
平安貴族の時代になると、すっかり忘れ去られ倒されてようですが。
だから、菅公が天神さんとして出現することになるんだよ。
記紀ではこのように記述され、やがて中央では忘れられても、地方ではもちろん、稲作といっしょになって、この信仰はつづく。
自分たちの名前でそれぞれに呼び、自分たちの神として、名前さえないかもしれない。
かくして、タカ郡には天目一箇社が残り、ダイダラボッチの伝承も絶えることなく。
ところで、天照大神が「宿りつく」のは、稲穂でも、鉄の坩堝でもなく、岩戸。
(そう、天岩戸もウツホにこもりつく型のバリエーションです。太陽の更新。)
天神がこもりつくのが、穀物・鉄のほかに、石であるということ。
こういう石を、トラ石っていうんですが、それはまたのお話に。
引用が長くて、ちょっと難しくなったので、今回はここまでのこと。
まだ、もう一回、つづきます。四部作になっちゃった。
次回は、日本を離れ、キュクロプス。
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妖怪、泥田坊。
鳥山石燕「今昔百鬼拾遺」に描かれた姿。
詞書によると、
むかし北国に翁あり。
子孫のために、いさゝかの田地をかひ置て、
寒暑風雨をさけず、時々の耕作おこたらざりしに、
この翁死してより、その子、酒にふけりて農業を事とせず、
はてにはこの田地を他人にうりあたへければ、
夜な夜な目の一ツある、くろきものいでゝ、
「田かへせ、田かへせ」とのゝしりけり。
これを泥田坊といふとぞ。
前回の記事で、片目片足の巨人、ダイダラボッチの正体を書きました。
太陽を目とし、雷を足とする、天そのものである、と。
この神が、大地と交わることで、農作物や、あるいは鉄器生産が出来る、という神話。
イナヅマとなって地上の稲穂(ウツホ)に種付けをし、「小さ子」であるイナダマが宿る。これが実りであると。
泥田坊。田に現われる片目の怪物。
思いっきり零落していますが、ダイダラボッチのなれの果てでしょう。
「泥田坊」という名も、もとはダイダラボッチから来てるはず。
これまで泥田坊は、あまり熱心にはダイダラに結び付けられなかった。
それは、ダイダラボッチが鍛治に関わりがあるものの、
田んぼとどう関係するか、わかってなかったから、と思います。
鉄器(鍬)で耕した田んぼなんです。
そして、稲妻が落ちて、稲に種を植え付け、コメが実る。
そのイナヅマが、ダイダラボッチの巨足。太陽が大地に結ぶ蹴り。
そういう信仰を持つ人たちが、鍬で田畑を開拓した。
画期的性能を持つ鉄器をになうのは、秦グループ。
そう、いちおう呼んでみている人々(宮本常一さんの晩年の探究によりながら)。
性能のいい鉄器によって、
土木・建築・灌漑・井戸掘り、
農地開発、非焼畑の農法、新しい農作物、養蚕などを、
積極的に地方へ地方へと広めていったネットワーク。
彼らがやって来た地には、長者伝説が残ることが多い。
真野長者、炭焼長者、朝日夕日長者など。
その技術の到来で、生産が飛躍的に向上するせいだと思われます。
(あるいは「生産が向上するよ」という噂を広めるためかも。)
上の泥田坊の絵の詞書を見ると、
「もとは豊かな農民だったのに、息子の放蕩で、田んぼを取られた老人」
となっています。
長者譚も、長者になって終わるものと、さらに零落するところまで語り尽くすものがあります。
泥田坊は、後者の、零落まで語るタイプの長者譚に属しているようです。
秦グループ(仮称)の末裔の広めた、妖怪の伝承と見て差し支えなさそう。
(詞書を吉原と結びつける、すごい説もあるらしいです。それは、でも、時代的に見れば、それなりに興味深いのです。)
あと、ちょっと気になるのが、「田かえせ、田かえせ」という呼び声。
前回、引用した「播磨風土記・託賀(たか)郡の条」。
巨人の神が、いつもかがんで歩いていたけど、空の高いタカ郡に来て、はじめて高いところに出て、背伸びして歩けた、という話。
「田返せ、田返せ」=「高いぜ、高いぜ」?
赤ん坊を「高い、高い」して遊ぶ風習。
天の神である、別雷命や天目一箇神は、屋根を破って天に帰るもの。
赤ちゃんを放り上げるのは、赤子を天神の児とみなしておこなう、神話的な行為だったりするかも。
泥田坊は、天に戻りたがっているのです。
タルタルに落とされたキュクロプスが、ゼウスによる救出を待ち望むように。
(絵の背後にある道しるべの文字が読めませぬorz
「是より 右〜」の後がわからんよ。どなたか読めません?)
一つ目の妖怪というと、カラカサお化けもあります。
傘に、目ひとつ、足は片足。
ゲタ履きで落雷の爆音を再現するのは、道場法師と同じやり方。
泥田坊以上に零落が進行していて、夜道で出会うとアッカンベーするだけらしい。
傘なのは、雨神であったことの記憶によるのでしょうか。
それが、古い器物に悪神がつく、「つくも神」とも混じって。
泥田坊もそうですが、水が多すぎると、零落するんでしょうかね。そんなことはないかw
あと、カサというと、本来、傘にはウツホの役目があって、神が宿るんです。
お祭で、大きな赤い傘が出て、その下に入るとその年は無病息災…などと言われたりします。
そういうことも関係してるのかないのか。カラカサ。
ともあれ、ひどい零落ぶり。
天そのもので、瞳は太陽、足を踏み鳴らせば雷であったはずなのに。
竜や虹の面影すらなく。
神話のバリエーションがどのように作られていくかってことでは、興味深いといえばそうなのですが。
なんか物悲しいや。。
食卓作法の起源 (神話論理 3)
クロード レヴィ=ストロース
¥ 9,030 / みすず書房
( 2007-09-22 )
在庫あり。
by AMAZ君(改)
レヴィ=ストロースの神話論理。
アメリカ先住民の、ちょっとずつちがっている、何百という神話の群れの分析から始まる。
この「ちょっとずつちがっている」というのがミソ。
そこにある種の変換法則を見出して、数学でいう「群」の概念を擬似的に用いながら分析するんです。
レヴィさんのような超難度な大技を繰り出すのはとうてい無理としても、
ダイダラボッチも、ダイダラといい、デンデンといい、道場法師といい、泥田坊といい。
ほかにも、これから書く天目一箇神とか、賀茂や松尾の伝承、オオナムチ・スクナヒコナなど、
およそ同じプロトタイプから派生したと思われる、「ちょっとずつちがった」神話群がある。
古事記や日本書紀、また風土記などに出てくる、さまざまな神さま。
でも、読んでると、似たような、でも少しちがう話が、何度も出てきます。
ある神さまのところで出てきた神話が、「ちょっとずつちがって」、別な神さまのところにも出てくる。
いちおう年代順で、系図もたどれるような書き方をしてはある記紀。
でも、ほんとは、別な名前を持っていても、同じ神さまなのかもしれない。
別な場所で、別な人々に、「ちょっとずつちがう」バリエーションで伝承されていた、同じ神話。
ちがう名前の同じ神。
それらを朝廷中心に、しかも時代順に並べようとするのが、記紀のたくらみ。
同じ神話群のさまざまな神話が、重複して構成されることになってるようです。
ダイダラ神話群が、秦グループの開拓とともに伝わったものとすれば、開墾した隔地に同じ神話が広まっていくだろう。
神話は鍛治や農作業・土木作業とリンクしたものだから、その地その地で根づき、バリエーションも生じていきます。
元は同じだが、伝言ゲームのように、「ちょっとずつちがった」、無数の神話が、ばら撒かれていく。
それらをひとまとめにして、強引に集成しようとしたのが、記紀。
しかも、のちの実在の天皇の時代と同じように、支配や婚姻、歴史的順序に並べようとするので、ものすごいことになってしまう。
記紀に登場する神様の名前は、あとづけと思われる、すごく説明的な、長ったらしいものが多い。むしろ、神話のカタリの断章のような。
そんな名前では呼ばれていたわけではないし、また名前がないこともありえるのかもしれません。名を呼ぶ必要がないほど、日常の作業に密接して自明な神。
多くの神話はひとつのプロトタイプから派生し、
そのもとのプロトタイプは、ごくシンプルなものとして取り出せるのでは。
八百万とかいいつつ、じつは三柱くらいでカタれるものなのかも。
このごろそんなこと思ったりするんです。
天と地の結婚。雷と水を介して。
ウツホに小さ子が宿りつく。それが天(竜宮、常世)に帰る。
大きな神と小さな神の相撲。その結果に基づいて、事が決する。
…というような。ごくごく単純なプロトタイプがうっすら浮かび上がる気がしています。
まだ、続きがあるんですが、長くなったので、ここでいったん終わります。
次回あわせて、モノアイ(単眼)三部作。