播磨のピラミッド(亀石から眺める「もうひとつの日本史」)

written by overQ

トンガリ山はピラミッド?

播磨にはところどころに「もうひとつの日本史」が顔をのぞかせます。
例えば、姫路の北西、峰相山に鶏足寺という寺があって、ここは日本の仏教発祥の地…という見知らぬ日本史。
神功皇后の時代に、新羅の王子が草庵を開いたのが創始で、秀吉の命により、黒田官兵衛が焼き討ちにするまでは、大いに勢力を誇っていました。
(このあたりは各時代時代にいろいろ不思議なものがあるゾーンで、現在も太陽公園白鳥城というギョエーッ(©大阪府知事)というシロモノが聳えており、個人的には姫路城よりおすすめ。)

この峰相山のつらなりでトンガリ山というのがあって、ここもまた「もうひとつの日本史」の舞台。
名前の通り、山頂が偉容にとんがったピラミッドのような山で、亀石と呼ばれる巨石あり。
鶏足寺があった頃には、ここに稲根明神の祠が祀られていました。

「稲根」というのは、どうやら、この亀石、稲作発祥の地らしいのです。
そんな、「もうひとつの歴史」の話。

亀石―穴のあいた神さま

亀岩には、窪みがあって、そこにはつねに水がたまっており、どんな日照りの時もけっして枯れることはない、と伝えられます。
私が見に行った梅雨の始まる直前で、たまった土にわずかに湿り気が残る程度。
ほとんど枯れていて不吉な気がしないでもなかったのですが、もうだいぶ雨が降ったので、またたっぷり潤っていることでしょう。

峰相山の麓、その名も「石倉」という地域から、急傾斜の登山道を一気に登って20分、亀岩に到達します。
岩は、二十畳敷きくらいの大盤石。
ここがじつに不思議な空間で、トンガリ山のピラミッド状の頂の直下、巨大な水平の石が置かれ、眼下には田園が広がっている。
じつに神秘的なロケーションで、ちょっと神さまになった気分(笑)
古代から特別な場所と見られていたことは、まちがいないでしょう。
亀岩はおそらく「神石」のなまりのはず。
全然有名じゃないんだけど、隠れた名所です。

さて、亀石のくぼみ。
そこはかつて、香稲(かいね、かえね)が四本はえていた、といいます。
崇神天皇の十三年、秋九月のこと。
これが全国に広まった、と『峰相記』という室町期の書物にあります。

岩に窪みがある、というのは、以前書いたことのある「穴のあいた神さま」の一種。
播磨では、穴のあいた石を神として崇める風習が濃厚にあります。
イラチの聖徳太子の杖痕が残る檀特山の頂岩、神馬の蹄あとが地名の由来となった神爪、御着にある穴ボコだらけの神石「サイトクさん」、イササ王という大鹿の神が残した壺穴などなど、いくつも類似の伝承があり、社寺に置かれた名も無き聖石にも、不思議の穴があることが多いのです。

播磨は稲作発祥の地?

さて、亀石のくぼみに生えたという「香稲」。
『峰相記』の記述は、普通の稲じゃなくて、「香稲」という種類の稲が広まった、という意味にとることもできるのですが、もともとは、稲作がここから始まった、という伝承があったと読みたがえてみます。「もうひとつの日本史」の愉しみ。
香稲というのは、原生種の稲の意で、これが全国に広まった、と。

そう読み取ってみるのには理由があります。
このトンガリ山、もともとは稲積山と呼ばれていました。
形が稲積に似ているからですが、この名はすでに播磨風土記に現れる。

播磨風土記 揖保郡
「稲種山。大汝の命・少日子根の命、二柱の神、神前の郡ハニ岡の里の生野の嶺にいまして、この山を望み見て、「その山は稲種を 置くべし」といひて、稲種を造りてこの山に積みき。山の形もまた稲積に似たり。かれ、号けて稲積山といふ。」

国土開発の、巨人・小人の凸凹コンビ、オオナムチ&スクナヒコナ。
掛け合い漫才をしながら、日本の国土を作り上げていったふたり組の神さま。
播磨風土記では、神功皇后・応神天皇の聖母子と並んで、ほとんど主人公ですが、ここトンガリ山では稲種を置いたことになっている。*1
風土記の記述は、これが稲の始まり…とでも言いたげな気配で、この伝承と亀石の窪みの香稲は、もとは同じ源泉から流れ出たかもしれません。

播磨は古くから開かれた土地で、文物の往来が激しく、時代時代に大刻み小刻みな変遷がある地。
大規模な水田耕作や、あるいは仏教寺院の原型のようなものの創始地であったとしても、まあ、ちっとも不思議ではないのですが。
よほど幸運な発掘でもないと「証明」するのは難しいところですが、興味がおもむくのは、ほんとはもう少し別な方向。
ここにたゆたっている、古代の神秘的なものの見方。

稲の産屋

風土記によれば、トンガリ山は、稲種、稲積とふたつの呼び名があった。
植える前の稲種と、刈り取った後の稲積。
このふたつは同一視されがちであった、と旧岩波文庫の風土記の注釈にあり。
いわば、胎児と母胎、あるいはキリストとマリアのような関係で、死と再生の場所。柳田国男「稲の産屋」。
主体と客体が同一化してしまうのは、古代ではおなじみの思考でもあります。

そもそもが、岩の「穴」もまた母胎のアナロジー。そこに神の子たる「稲種」が宿り、萌え出る。
香稲が四本(三本という説もある)というのは、抜穂の儀を連想させます。
初穂を神にきこしめす(食べてもらう)儀礼。これも最初に実った稲穂を、四本ほど抜くのが定型らしい。
ここでは、食べる主体と食べられる客体は同一化していて、ともに穀物の神格化した「神」である。

神に捧げる飯は、トンガリ山や稲積(とんど)のように高く盛る。
ひとつのモノが他の多くのモノと関係付けられていくのが、科学とはちがう、もうひとつのヒトの思考法(「魔術」という)。

そして、母胎のアナロジーは、人類が異常に好きな思考パターン。
太陽と、穀物と、鉱物が、母胎のアナロジーでたがいに通底していて、勇み足に踏み込んでおけば、太陽(ファラオ)の死と再生の穴としてのピラミッドや、前方後円墳と天の岩戸、イエスとマリアの伝説も、この派生物と見える。

あなたはイナヅマのように

母子関係はそういう感じなんですが、さて、では、神の父は誰なのだろう。

それは、イナヅマ
稲積は母胎である一方で、その八重垣の妻隠りを犯す、天からの侵入者のことでもある(ここでも、主客は合体しています。まあ、「合体」するんですが。)
イナヅマのツマは、「妻」だけではなくて、「夫」のほうをも表す。
なぜわざわざ山の頂上の大岩に、稲の種を置くのか。
それは、このトンガリ山に雷が落ちるから…というのが、私の妄想しているところ。
まさに避雷針みたいな(人工のピラミッドみたいな)山なのです。

この際に乗じて妄言を連ねておけば、雷神は片足の神で、穴に落ちる。
それは例えば別なバリエーションでは、井戸に落ちる、桑原の神。「小さ子」として生まれ落ちる(父と子が一緒になってしまっているのです、イエス=神であるように)。
稲のアナロジーに話を戻せば、案山子が元・雷神かもしれない。片足の神で、「かかし」という名前は、「輝く足」(と古代史の醍醐味である胡散臭い語源説もかませつつ)。道のサカイに、一足だけの巨大わらじを祀る風習は、いくつもの変遷を経た、この名残り。
天に帰っていた「父」は、雷として地上の「穴」に受胎し、再び「子」となって再生するわけで、これが桃太郎やカグヤヒメ(輝姫)のずうっと大元の原型。
秋になれば、天井を突き破って、また天に帰ります(京都の賀茂神社の伝承や、それとそっくりな播磨風土記の記述、あるいはなぜかヨーロッパにも「うすのろハンス」としてあり、これら炭焼き小五郎パターンは、金属加工=錬金術の伝播と一致する)。

稲と陰陽師―古墳時代の名残りかしら?

どんどん風呂敷が広がってしまいましたが、ついでにもうひとつ重要な(と私だけが思っている)ことを。
京都にも、「いなづみ」の名を持つ場所がいくつかあります。
そのひとつは、南区の稲住神社。ここには魔王が祀られている。
魔王とは、陰陽師・安倍晴明のこと。
もともとは稲積に宿る神の子が魔王で、その死と再生の稲積信仰であったはず…というのがここまで書いてきた話の流れですが、これが安倍晴明と同一視されている。
もっと著名な伝説の中では、晴明の母が狐(=稲荷)であることも想い合わせておきましょうか。

知られているように安倍晴明のライバルは、芦屋道満。
播磨からやって来て、播磨に追い返される陰陽師で、平安末には播磨がどうも陰陽の拠点であった気配。それはけっして「主流」になれず、文献にもかすかにしか痕をとどめていない、というのが、道満法師の命運の意味するところ。

法師陰陽師などと揶揄されて、仏教のような邪教のような、あいまいな毛坊主たち。
ここまで妄想してきた稲にまつわる神秘主義は、古墳時代にピークを迎えたはずのもので、陰陽師というのはその成れの果てではないかと。
古墳時代の神秘思想を、断片的に伝えるものたち。

日本史は、学校の歴史のような各時代で分断されたものではなく、細々ながらも、まるで「不死の人」のように、死と再生を繰り返し、同じひとつのことが貫かれている。
稲作もそのひとつだし、それにまつわる神秘的な世界観も(断片化しているとはいえ)そうだった。
古墳時代に組織されていたチームは急激に仏教に転向していくのですが(だから日本の仏教は「独特」の民話的色彩を帯びる)、その流れにうまく乗れなかった連中がいて、陰陽師もその類か…という方向。
もう、古墳を作った人たちのような、土木や巨石運搬の技術もなかば失っていて、「神秘主義」(実質的には「暦」)のほうばかり残っているため、実効性が薄くて、うさんくさくなっていく。
「もうひとつの日本史」を生んでいるのも、この人たちなんだと思う。

京で一旗揚げることにしくじり、播磨に追放された道満法師は、佐用に落ち延びていく途中、峰相山の神石の上に立って、不死の人として、古墳時代のことに思いを馳せながら、「昔はよかったなあ」なんて感慨を持った(フィクション)。
とはいえ、道満の次の時代、佐用からは赤松の一党が現れ、再び京都で大暴れ。まるで道満の野望が再生したかのように。(高度な稲作の技術を持っていることがやっぱり大きいんでしょうね。)

…これでうっすらと、日本史のもうひとつの方向が描けたでしょうか。民俗学がヒットしているのも、この部分なんです。歴史的イベントをつなぎ合わせた日本史の陰で、ただ恒常的にたゆたう目前の日常としての「日本」。

¶ Footnotes:
  1. 出雲國風土記で「多禰(たね!)の郷」は、「天の下造らしし大神、大穴持(オオナムチ)の命、須久奈比古(スクナヒコ)の命と、天の下を巡り行でましし時、稲種ここに堕ちたりき。故、種といふ。」 []

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