鵺塚と牛頭天王

written by overQ

鵺=秦河勝

国芳の鵺図前の記事「魔所めぐり #02」で取り上げた、鵺神社。

能の「鵺」で、ヌエの屍骸がうつほ舟で流されること。
そして、その作者・世阿弥は、「風姿花伝」において、うつほ舟で流されるのが、能の始祖・秦河勝としていること。

さらに、鵺神社のある場所は、平安京以前から祀られていたという「園神・韓神」の社のあった場所だということ。
そして、平安京以前、河勝の邸があったという伝承があること。

これらをつないで、「秦河勝=鵺」という仮説を立ててみました。
そして、思い切った推論として、鵺の正体である園神韓神とは、蘇民将来の神「婆梨采女・牛頭天王・王子」の聖家族ではないか、とも。

こっそりお知らせしておけば、千年以上にわたって封印されていた京都の謎が、今ここに解かれつつあります。内緒です。

(梅原猛さんは、能の「鵺」が世阿弥の最高傑作であるといい、ほとんど「鵺=河勝」一歩手前の見解を述べておられます。→第6回 哲学者 梅原猛氏 : 日本文化の源流を求めて : 大学新時代 : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

鵺塚

さて、鏑矢で射られた鵺。
落下した場所が鵺神社でしたが、その鵺が飛び立った場所がある。
それは「鵺塚」

じつのところ、鵺塚はもう跡形もないんです。
「魔所」として取り上げようもない、消えた魔所。
ま、しょーがないか(なぜダジャレ)。

鵺塚の正体は古墳。
平安京以前の京都ではきわめて重要な場所だったはず。
そして平安期以降、「鵺」としてひそやかに伝承されるようになってからも、京の歴史に暗然と巨大な影を落とし続けた、と。

古来より憚られる道


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鵺塚があった場所は、現在の岡崎公園のグラウンド。
岡崎公園は、巨大な鳥居の平安神宮をはじめ、動物園、美術館、図書館、京都会館、勧業会館。
広大な敷地に大きな公共施設がひしめく区画。
もとは六勝寺と呼ばれ、平安後期、六つの大寺院群があった場所です。
そして、この六勝寺が、「鵺塚」の上に建っていました。

藤原定家「明月記」に、六勝寺のひとつ・法勝寺への御幸のようすが書かれています(建保元年四月二十五日条)。
そのルートはこんな具合(京都市考古資料館作成図に基づく)。


より大きな地図で 鵺塚を迂回して法勝寺に御幸 を表示

二条大路をズバッと東進すればすむものを、わざわざ迂回する。この寺に行くときは、いつもこの迂回ルートをたどっていたらしい。
その理由は、

前陣は二条を東行す。この路は仰せ下さる所かと問う。本は冷泉を東と承るに今はかくの如し。二条東は古来より憚(はばか)られる道なり。今仰せらる所は又冷泉と。急ぎ還御せらるべし。

「古来より憚られる道」。
それは二条大路を東進し、「鵺塚」に至る道。
平家物語では「東三条の森の方より、黒雲一むら立ち来たって」と記された、鵺の棲む森*1

鵺塚のあった場所は、今はテニスコートになってるあたり。グラウンドの南東の区画。
昭和30年、グラウンド工事の際の発掘調査で、直径20メートルの円墳、6世紀中期から後半のものと推定されています。
明治には後高倉太上天皇御陵伝説地に指定されたこともあるのですが、のち結局陵墓参考地となって、グラウンド整備の際、遺物ははるか遠く、伏見区深草の月輪陵に移されました。

蛇塚、神泉苑、鵺塚

岡崎という場所は、平安京以前には、どんなところだったか。
ここは、蘇民将来の神・牛頭天王の聖地、といってもいい地所。
祇園八坂、瓜生石、粟田神社、岡崎神社のある天王町、そして北白川の瓜生山。
播磨からやって来た牛頭天王は、このあたりに祀られたとされている。*2
そのど真ん中にあったのが、鵺塚。

鵺塚と牛頭天王

鵺塚に至る二条大路。
定家は「古来よりはばかられる道」と記し、恐れられていたらしい。
「古来」とは、平安京以前…とするなら、二条通とはいったいどういう道なのか。

鵺塚から二条を西に進んでいくと、「あははの辻」(二条大宮)、神仙苑を抜けて、太子道へとつながって、太秦に至る。
「太子道」とは、聖徳太子の道の謂で、平安京以前からの重要な道。
この路が、古道と思われます。東の端、鵺塚まで続いていた。
鵺塚と牛頭天王 – Google マップ

太子道は、太秦から川勝邸(?)に至り、さらに鵺塚古墳へとつながっていた…ということなりそう。
いっそ、太秦の蛇塚古墳と鵺塚古墳を結ぶ東西のルートで、その中間に、のちの神仙苑となる池があったと。
そういうシンプルな配置を想定してみたいところ。
それは、しかし、平安京以降には、失われた信仰…といいつつ、祇園祭をはじめとして、民草のあいだにその断片は強く生き残っていた。

牛頭天王の通い路

鵺のルートが気になる。
鵺はまず、東三条の森から出没。
頼政に射落とされて、NHK南の鵺池を血に染める。

この鵺のルートが、祇園祭とよく似ている。
祇園祭のルートは、祇園社の荒神・牛頭天王が、神仙苑の水の女神・婆梨采女(少将井)と出会い、その母胎から王子として再生する…という物語をなぞるもの。
あるいは、おおもとは、太陽が沈んで、また現れることを模したものかもしれません。
鵺は三本足の黒い鳥(=太陽)であってもよく、それは再生する不死の鳥。
祇園祭の星の王子さま | AZ::Blog

シンプルに考えると、粟田の瓜生石から神仙苑の池に行くルートが、プロトタイプとして想定できる。
鵺塚があったなら、鵺塚から出発すれば、もっと端的に、一本道を西に進むことができる。
つまり、「古来からはばかれる道」である二条=太子道を進んで、母なる「池」に至る。

さらには、頼政の矢。
その矢は、武器というより、鉾と同様の、祭の神具。
「山鳥の尾を以て作いだりける鋒矢(とがりや)二筋」
「大鏑(おおかぶら)、小鏑」

興味深いのは、占いの気配もあること。
鵺は、夜闇に姿なく「声」のみの存在で、辻占のように、そこに託宣を聴きとることができる。
弓は、びんびんと鳴らして魔を祓うといいつつ、これも「音」から占い。
そして鏑矢が「音」をなして、叫ぶように闇をつんざく。
鏑矢=鵺?…つまり、いつもの「鬼退治=鬼」。

鵺の伝承の正体は、荒神の祭ではないか…そう考えようとしてるんです。
鵺の伝説に、祇園祭のプロトタイプを見出そうとする。
…かなり、思い切った仮説です(~_~;)*3

頼政、摂津源氏

世阿弥たち、能の人々は、秦河勝を始祖とあがめる。
秦氏の周辺にいた人々の末裔で、基本的には渡来系と思われる。

鵺を討つ、源頼政。
摂津源氏、鬼退治で有名な頼光の裔。
保元・平治の乱で、親族をかえりみないような形で、平氏につき、清盛の信任を得る。
昇進するのは最晩年。源三位入道頼政、七十五歳。(しかし、太平記だと、このあと、鵺を討った褒美に、美少女「菖蒲の前・15歳」を嫁にもらう。)
結局、以仁王の乱で平氏と戦い、平等院で敗死する。
平家物語・巻四「鵺の事」の末尾では、これが鵺を討ったたたりのように記される。

由なき謀反起いて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も、亡びぬるこそうたてけれ。

さて、伝説をよく見てみると、たいていどれも、鬼を討つものと鬼自身が、そこはかとなく一致する。
「鬼=鬼退治」の原則。将棋で、とった相手の駒を、自分の味方として使えるみたいに。

頼政と鵺においても、等号で結べるだろうか。

鵺は鴨川から流されて、うつほ舟が寄りつくのは、摂津のあたり。
つまり、摂津源氏の故郷。
また、秦河勝の墓のある寝屋川の川勝町も、ほど近い。
源氏の配下に仕えた人々は、秦のグループなんだろうか。
これは、源融など嵯峨源氏を見てもそう思うところ。
ここから頼光の片腕・綱の渡辺氏出る。その配下も秦周辺の人々の末裔だろう。
そもそも、鵺の伝説は、この名もなき人々が噂を広めていたんだと思う。
源氏は、天皇の子息のうち、皇太子となれない方々が、各所の渡来民と結んでいくことで生じた氏族…と言ってもいいかもしれないです。
源がさまざまな末流に分化していくのは、各所に散らばった秦グループ、渡来民の分散と大体一致しているのではないか、とも。

うーん。
「鵺=河勝」説。けっこう成り立ちそうな気配が出てきました。
トンデモじゃないんだ\(^▽^)/(ホントに?)
世阿弥は、鵺という怪物の姿でしか世に現(=非現)れえない祖霊・河勝に自らを重ねつつ、その技能や功績のわりには重用されることのなかった渡来人の悲哀を「荒ぶる神」として、能に表現したように思われます…呪術的な希望と確信をこめて。
そして、世阿弥自身、佐渡に流される、鵺。

¶ Footnotes:
  1. 中京区二条西洞院町あたり、藤原兼家の建てた東三条院の森、という説もあります。ここだと、あははの辻に近くて、百鬼夜行と同系の感じになってきます。 []
  2. 北白川という、縄文・弥生から続く古い、そして広い一帯の人々に信仰されたらしい。文献でなぜか正確に明示されている「伝播年代」より、古くから祀られていたかもしれません。 []
  3. じつは、あははの辻に向かう百鬼夜行も基本的にそうだと思ってるんです、ほんとは。あと、空也の伝承も。
    なんでもかんでも…という感じになっていますが、実際、牛頭天王の牛、太秦の牛祭の牛、菅原道真・天神さんの牛、さらに義経・牛若丸の牛…それらが同じ源から派生したヴァリエーションではないかとさえ、考え始めています。 []

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