狼男、ベルセルク、赤ずきん – 秘密結社について

written by overQ

だいぶ間があきましたが、前回の続き。

前回はフロイトの患者「狼男」について書きました。
幼児の頃、木の上に群れる、尻尾の長い白狼たちの夢を見て発病し、「狼男」と呼ばれた神経症患者。
毛むくじゃらのホラーの狼男とは無関係…のはずなんですが、なぜか不可解な関係がほのみえる、という歴史家ギンズブルグの指摘を紹介しました。
狼男の伝承では、胞衣にくるまれて生まれてくる子供は狼男になると言われていて、フロイトの患者もまた、クリスマスに胞衣に包まれて生まれた子供でした。

かいじゅうたちはどこにいるか

さて、フロイトの「狼男」が見た、樹上の白い狼たち。狼に見つめられたのが怖くて、彼は動物恐怖症に陥る。
最近、それとよく似たものを見つけました。センダックの絵本「かいじゅうたちのいるところ」。
いっけん、何の関係もないはずのこの絵本が、表面的にも本質においても、なぜかフロイトの「狼男」とよく似ています。
そして、ちがった「選択」をおこなっているのが、非常に興味深いのです。

「かいじゅうたちのいるところ」はこんなお話。
悪戯っ子の少年は、胞衣ならぬ白い狼の着ぐるみにくるまって、いつも大暴れ。
母親に叱られ、部屋に閉じ込められますが、少年の空想の中で、部屋は深い森と化し、かいじゅうたちに出会います。
少年はかいじゅうたちの目を覗き込むことができたため、彼らの王となる…というもの。

ほんの数ページの絵本ですが、野放図なまでの獣性(自由性?)にあふれた、センダックの代表作。最近、スパイク・ジョーンズによって映画化された作品も素晴らしかった。
教訓的な絵本とは真逆の、子供の凶暴さを肯定した作品として、発表当時は教育者サイドから苦言を呈された問題作でもありました。

「かいじゅうたちのいるところ」で、少年はけものたちと木にぶら下がって、カーニバルのように遊ぶ。
フロイトの「狼男」がケモノたちから逃れようとしたのに対して、「かいじゅうたち」の少年はケモノの群れに積極的に参入していきます。
つまり、彼は自身の獣性を肯定的にとらえることができた。抑圧することなく、主体化できたのです。「かいじゅうたち」と放縦に戯れることを通じて、森の中に自分の居場所を作ることができた。

実際、少年は白狼の着ぐるみを着ていて、彼自身がかいじゅうたちの一員であることを示しています。
かいじゅうは、けっして外から強迫的にやって来て、自我を拘束することはなかった。
教育者の反対を越えて、このフィクションが世界で広く受け入れられたのには、ちゃんと理由があるんだと思います。

ひょっとするとフロイトの患者も、狼の群れに自発的に飛び込んでいれば、病の形はずっとちがったものになっていたのではないか。
神話が生きていて、われわれはその一部なのだということを、あらためて思わされます。*1

狼男と戦士結社

さて、狼男の伝承は、どうしたわけか、1930年代のドイツ語圏で非常によく研究されていました。
研究者たちが狼男の源として注目したのは、男性の秘密結社、戦士集団でした。
インド=ヨーロッパ語族に広く見られる、狂戦士集団。
ナチス台頭の時代と共鳴するものがあって、微妙な問題をはらんでいます。
神話学者デュメジルの有名な三機能説(とりわけ第二機能=戦士)も、30年代の神話学の高熱を経なければ、錬成できないものでした。(ギンズブルグが慎重な手つきでこの件を論じています。1938年がデュメジルにとって、重要な転回点であること。)
デュメジルは、ゲルマン神話にたくさんの神々が存在することについて、支配民族の神と被支配民族の神の融合の結果ではなく、社会で機能する権力・戦闘・生産といった要素が反映されたものと見る。この観点は現在進行形の社会にも向けることが可能です。

30年代の男性結社研究については、田中純「政治の美学」が詳しいです。そこに引用されている、カイヨワの「秘密結社論」がこの時代の気分をよく伝えています。
若いカイヨワは、デュメジル、バタイユ、コジェーヴ、クロソウスキーといった連中と、まさに「結社」を組んでいました。
神話がいかに人の心を捉え、現実への侵食を果たすか。

社会は錆だらけだ。友愛団体の騒乱がそれに若さと活力を与える。放縦さの期間のただなかに仮面の大群がなだれこんでくること(カーニバルを想起せよ)。社会の重い要素(師、統治者、老人、聖職者)が軽やかな要素(若者、奴隷など)によってくつがえされること。恐怖喚起の要素。

熊の皮をかぶった戦士

ベルセルク

インド=ヨーロッパ語族に広がるという狼男=戦士結社。
センダックも、フロイトの「狼男」も、そんなに詳しく、狼男や戦士集団の伝承を知っているはずはないのですが、不可解なくらい、この伝統に沿っています。

例えば、ベルセルクというもの。三浦建太郎の有名な漫画でもおなじみの、狂戦士。
ベルは熊(bear)、セルクはシャツやコートのことで、熊や狼の皮をかぶって、戦場で狂暴な力を発揮した戦士たち。狼男につながる、戦士結社の一変種。

オーディンの軍勢は鎧もつけず進軍し、犬か狼のように狂暴で、楯を噛み、熊か牡牛のように強壮、ひとなぎで敵を打ち倒し、火も鉄も彼らには効かなかった。彼らはベルセルキルと呼ばれた。

「ユングリング家のサーガ」

この凶暴な戦士軍団は、森の奥、沼や湖の向こうに、結社のお社、修行の空間を持っているらしい。
神話の中では、それは現世ならぬ場所、死者の世界とみなされています。
プリニウスは博物誌のあちこちで、狼男のことを(不信をまじえて)記しています。

アルカディア人の伝説では、ある氏族から選ばれた男は着物を楢の木にかけて、沼地を泳いで荒涼たる地に渡り、狼に変身して9年間、狼の群れと暮らし、再び泳ぎ戻って人間になる。

水を隔てた場所にあるというのは、まるで三途の川。
結社への入会者は奪衣婆に身ぐるみ剥がれるように、生まれたままの姿になる。
センダックの絵本でも、かいじゅうたちのすむところは、海原の彼方に設定されています。*2

胞衣にくるまれて生まれてきた子供が思春期に達するころ、けものの姿をしたものたちがやって来て、結社への入会を勧誘する。
秘密結社の入会儀礼がいつもそうであるように、恐怖(死)を克服することが、イニシエーションとなります。
社会から追放されて「死んだ生者」となったものが、森の奥で秘儀を通じて、「生ける死者」となってよみがえる。

オーディンの館ヴァルハラ、永久戦闘空間

言語学者エミール・バンヴェニストは、インド=ヨーロッパ語族の中に、死者の軍団の痕跡を探ります。

古い神話に出てくる呼称を手掛かりとして、ゲルマン語派の語義を明らかにしようとするのも、あながち不可能なことではない。
たとえば大神オーディンの名前ないし異名である古アイスランド語のHerjanであるが、この名称は形成過程自体に特徴がある。《長》の呼称について…(略)…《軍隊の長》に基づいて作られる。
オーディン自体の名前であるWotanもまた同じようにして形成され、そこにはwoda-nazが《Wadの長》すなわち狂気ないし狂暴な軍隊の長の謂いとなっているのだ。

オーディンとして、彼は自分の名の下で悪行の限りを尽くす暴虐非道な群の長であり、Herjanとしては、その神話名がやはりわれわれにわかっている集団、つまりヴァルハラに住み、彼の命令によって戦う死んだ兵士たちEinherjarの長とされているのである。こうして表されるオーディンとは、何よりも死者たちの王であり、彼の麾下にある群こそがまさに子飼いのHeer[軍隊]を構成しているのだ。

地上のheerの行為と彼岸のHeerのそれとの間には対応関係があり、地獄と地上界とに分かれた軍団は、いずれも成員と長との間に同じ関係を持っていた。

Walhalla_(1896)_by_Max_Brückner

オーディンの率いる、死者の軍団エインヘルヤル
北欧神話にかたられる結社のお社は、ヴァルハラと呼ばれ、高山の頂、森の奥、音を立てて流れる大河の向こうにある、死者たちのための、オーディンの館。
そこでは、戦場で、女神ワルキューレに愛でられた幸運な戦士たちが集められる。
来たるべき世界の終りラグナロクに備え、死んでも死んでも蘇って、永遠の戦闘訓練を繰り返すといいます。

戦士結社の伝統が、神話的にかたられているのを、文献の中に見出そうとしているのです。

神話においては、森の奥、沼の向こうにあるのは、永遠戦闘空間ヴァルハラ。
ヘヴィメタル鳴り響く、地獄の如き、不死戦士たちの極楽。*3

valhallaセンダックの「かいじゅうたちのすむところ」は、ヴァルハラと同じ時空にある。
ヴァルハラにいたるには、音を立てて流れる川を渡り、死者の門ヴァルグリンドを潜っていく。その先、森の奥に、社が築かれている。
(12世紀に建てられた、ノルウェー、ボルグンドの教会は、まだまだ異教的雰囲気を残す、ヴァルハラのイメージ。)

フリーメイソンでは集会所をロッヂといいますが、結社にとって山荘、森の小屋のイメージはきわめて重要なもの。
インド=ヨーロッパ語族にとどまらない、神秘主義の根幹をなす空間。
私はいつも、ツイン・ピークスに出てくる、赤いカーテンで仕切られた、チェス格子の床を持つ空間を連想します。結社のロッヂは、死者が再生する子宮のような場所。

森の奥、沼の向こうの結社のお社は、神話的な存在であるのみでなく、実在してアジールとして機能し、歴史の中でしばしば逃亡民の逃避先になっています。

ソクラテ山の麓には、Hirpi Soraniすなわち「ソーラの狼たち」が棲息していた。セルヴィスによって保存されることになった伝承によれば、ある一つの信託がHirpi Soraniにむかって、「狼のごとく生きよ」と奨励したもうたのだという。それは、とりもなおさず、掠奪によって暮らしを立てよ、という意味だった。事実、彼らは、租税および兵役を免除された。

プリニウス「博物誌」

社会から追放されることは「狼になる」と表現され(旧約聖書のネブカドネザルやリュカオン王がすでにそう)、また追放者を「狼頭 wolfhede」、絞首台を「狼頭木」と呼んでいました。
ロビンフッドなんかもそうで、ルーマニアの伝説ではロビンフッドは十二夜のあいだ、狼の姿となって、村を襲うとされています。
神話と現実が混ざり合ってしまう領域であり、19世紀のカルボナリ党が森の中のアジトに、反対勢力をかくまうさまを、結社の伝統と見る向きもあります。

この話をここに書きつけるかどうか迷うのですが。
私はヴァルハラについて調べながら、連合赤軍の浅間山荘や、オウムのサティアンを思い浮かべていました。
山荘=ロッヂで、左翼の信条とはかけはなれた、おどろおどろしい呪術儀礼めいたリンチが行われていた不思議。神話の再創造です。
もっと明白なのは、オウムのロッヂ「サティアン」。まさに社会からはみ出たものによる、戦士の秘密結社と化してしまった。
やっぱり、この話は怖いなあ。くわばらくわばら。

戦士は何と戦っているか

フェンリル狼とチュール

戦士結社はいったい何と戦っているのか。
この問いがつきまとうのは、戦士たちの自意識の中では、神話と現実がごっちゃになっているから。
彼らは神話の中を生きていた。極端な場合は幻覚性の薬物も使用されています。
それが実際にあった歴史的事実なのか、空想としての神話なのか、儀礼として演じられていたものか、区別をつけかねる。

ヴァルハラは神話の中の館なのか、実際にあった結社の修行場なのか。ウプサラの神殿でさえ、歴史と幻想の交錯するゾーンに建っています。
修行している当人たちにとっては、そこは死者の世界だったでしょうし、沼に生贄をささげるとき、ヴァルハラへ送り込まれていたかもしれない。
時代時代の状況に応じて、神話と現実がさまざまな形でごちゃごちゃになっている。*4

戦士たちは自分自身を神話的に捉えていますが、「敵」となるとそれ以上に神話化されています。
これはあるいは、「敵」をイメージする際の、普遍的な現象なのかもしれません。
敵を自分たちと同じ人間と見ていたのでは、戦争になりませんが、もっと不思議なのは、人間でないものと戦うとき、戦士は人間でないものになる必要があり、だから狼になるのですが、その姿を鏡に写してご覧なさい、そこに「敵」の姿が写りますから。

実際、ヴァルハラの戦士集団エインヘリヤルは、自分たちを狼にたとえながら、その敵となるものもまた、狼です。
フェンリル
世界の終りに解き放たれて、オーディンを食らうという狼。
オーディンの選抜した戦士が狼であるのに、その敵もまた狼。
敵との鏡像関係は「鬼=鬼退治」といういつものパターン。*5

神話的な思考においては、主語と目的語は融合しがちで、これらを引き裂くイメージ、フロイト=ラカン的にいえば去勢が、かならず伴います。
これが結社の最後の試練。想像界を離脱し、象徴を通じて、自他の区別を知る。

最初にフェンリルを捕らえたとき、それと引き換えに、腕を食いちぎられるテュール。
最終戦争ラグナロクでオーディンを呑みこんだ後、オーディンの子ヴィーザルによって、ふたつに裂かれるフェンリル。
去勢、欠如の導入によって、世界は安定を取り戻します。

フェンリルとヴィーザル

狼はその習性から夜のケモノ。
狼が、夕暮れに太陽を呑みこんで闇をもたらし、東に走って太陽を吐き出すと、朝になる…というのをプロトタイプとみるべきかもしれません。闇と冬をもたらす狼の伝承群。

北欧神話はとにかく時間空間ともにハイパーインフレ状態で、何でも世界大・宇宙大なのですが、思いっきり割り引いてから眺めてみますと、世界終末戦争でオーディンを呑みこみ、顎を裂かれるフェンリルは、日没と日の出のことのようにも思えます。
夜明けは、夜の顎を裂いて、そこから太陽を引き出しているんです。素晴らしく詩的なイメージ。一日一回、ラグナロク。

そういえば、同じインド=ヨーロッパ語族で、バビロンのマルドゥークは、ティアマトの獣を倒し、その体を裂いて自分自身を引き出します。
よくわからん、トポロジーですが。(これってエリアーデで読んだんだろうか。要出典。)
しかし、これを父と息子という形に分離すると、わかりやすくなり、オーディン=ヴィーザルと通いあいます。
そもそも、父なる神とその子イエスが、そんな関係にある。
「かいじゅうたちのいるところ」の主人公マックスも、最後は獣を裂いて、自分自身をそこから取り出すことになるんじゃないでしょうか。

赤ずきん、狼男の血族、神話の再創造

赤ずきんちゃん

このように狼男=秘密結社を追いかけてくると、例えば赤ずきんちゃんがちがったふうに読めます。

赤ずきんちゃんの赤い頭巾。これが、血のりのついた胞衣に見えてくる。
実際には、ずきんを赤く色づけたのは、ペローの創作であるらしく、この憶測はまちがっているのですが、奇妙に辻褄が合います。神話の再創造の現場がここにある。(しかし、デンマークの沼から引き上げられたミイラは、赤い頭巾をかぶっていたかもしれない。)

さらに悪乗りして神話を再創造していくならば。
おばあさんは祖霊であり、「生きている死者」として、森の奥の小屋(ロッヂ)に住む。
つまり、赤ずきんの物語は、結社への参入儀礼であり、祖母こそが実は狼。狼男ならぬ狼女。
森の奥で祖霊は、けものの姿になって、死を生きている。

グリムやペロー以前の赤ずきんでは、赤ずきんは針の道を通るという試練を越えます。入会儀礼。
死者の世界に入り、祖母の肉と血を食べて、黄泉の一員となる。
「死んでいる生者」となった赤ずきんは、狼に食べられたあと、通りがかった猟師によって、その腹から取り出されて新生します。

じつのところ、この「狼の腹からとり出される」というのも、グリムがべつな民話からとってつけたもの。しかし、ぴったりとはまる。死と再生。祖霊の胎内での復活。
日本では、猟師が山奥でお産する山の神に出会い、それを助けることで長者になる話があります。
赤ずきんはこの後きっと、はいだ狼の皮を着ぐるみにし、一人前の狼女となるのです。めでたし、めでたし、と。

心理学者のフロムがおこなったような精神分析的な(現代的な)解釈よりも、結社の入会儀礼と見るほうが、たぶん歴史的には本当に近いかもしれません…と書くともっともらしく聞こえますが、この解釈は今作られたもの、神話の再創造なんです。
これが神話研究の罠であり、同時に面白さ。
この罠を完全に脱してしまうと、今度はそもそもの研究の動機が薄らいでしまうというジレンマがある。

狼男といえば、銀の弾丸だけがその命を奪うことができることになっています。
これも映画に描かれるようになってから付け加えられたエピソードらしいのですが、非常にうまくはまっていて、人と狼のあいだの苦悩が象徴化される。
人が神話を考えるのではなく、神話が人を考える。
神話というものは生きていて、機会を捉えては、みずからを再創造しているようです。

余りもので、まかない飯

結社。
男は男で、女は女で群れるのは、教室でよく見られる風景だけど、人間よりもむしろ、ほかの哺乳類で観察される性行動かもしれません。鹿も狼もそうじゃないだろうか。あるいは人間にも同じ本能があるのか。
するとだ、結社の修行期間の次に続くのは、戦争ではなく、夜這いや歌垣のように思える。
天の香具山で衣を干すといいいますが、例えばあれが天女の羽衣と同様、「交わり」のしるしのように感じられます。「衣を木に欠ける」系はもっと考えてみたい方向。

ギンズブルグは歴史家なので、神話ではなく、異端審問の文書を調査するうちに、ベナンダンテに出食わしたのですが、この入射角から見ると、結社は男性戦士というより、女性もありえるもの。
上の赤ずきんちゃんも、女の子であること、お母さん、お婆さんと、三段式になっていることが気になる(しかし、それも「神話の再創造」だが)。
それにベナンダンテは、敵も、冬や疫病や不作といったものを象徴していて、農耕的。
神話学ではデュメジルの説が大きいので、戦士結社が零落し農耕儀礼の形になったように考えるようですが、異論の余地はあるのかもしれません。

今回はあまり日本に戻ってこれませんでしたが、役行者や、空也・皮聖など、初期の民間仏教には、じつは狼男結社の匂いがあります。日本だと、狼より、狐かもしれませんが。
もっとも大胆な神話の再創造である、馬琴の南総里見八犬伝も、アーサー王と円卓の騎士たちがオーディンと狂戦士軍団と重なるように、犬士たちが狼男結社、伏姫をヴァルキューレと見ることができる。
最後に登場する最強戦士、犬江親兵衛は、伏姫じきじきに育てた秘密兵器で、童子の姿。
再生者が子供の姿をしているのは、結社儀礼の中核をなすもので、今でもお祭の結社で童子を神として祀る風は根強く残っています。

¶ Footnotes:
  1. 奇妙なことに、このくだりを書きながら、ふと浅田真央のことを思った。「教訓的な絵本」ばかりを与えられ、無意識に広がる森への道を閉ざしてしまうと、抑圧されたものは怪物になって帰ってくる。自己表現とは訓練で獲得するものではなく、「かいじゅうたち」との戯れを通じて獲得される。 []
  2. もうひとつ思い起こしていいのは、デンマークなんかの沼で、泥の中からミイラが大量に発見されること。ゲルマンの生贄。戦利品はことごとく、捕虜も含めて、沼に沈めたようです。ヴァルハラ送り。勇猛な敵兵には、拷問と同時に敬意の痕跡がある。「沼の向こう」ではなくて、沼の底、神話で語られる死の戦士は、文字通りの死者でもありました。神話と現実、比喩と実行がごっちゃになっています。 []
  3. オーディンというリーダーが実在するというより、戦士集団エインヘルヤルをひとかたまりと見て象徴するとき、オーディン=ヘルヤンが現れるのかもしれません。
    研究者たちは、結社が年齢階梯制を持つことを指摘していますが、いちばん若い、入会儀礼を果たしたばかりの少年は別格で、死と生を円環にして切り結ぶ結社にとっては、童子は新生者として祀られます。
    男性結社は同性愛的な雰囲気を陰に日向に宿しますが、童子崇拝は秘密結社の奥義のひとつ。 []
  4. しかし、これを昔のことといって、笑って済ませない。ナチスもオウムも、じつは同じ問題の中にある。
    その上、否定的側面だけではなくて、センダックの絵本が示すように、人が生きる活力とも深く繋がっています。これは本当に難問なんだ。 []
  5. 厳密にいうと、エッダの中でフェンリルと戦うとき、軍団ではなく、オーディンとして単一化し、狼という属性は、敵側に委譲される。狼vs狼という、ウロボロスな同語反復を回避するメカニズム。 []

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