袖もぎ地蔵
姫路のレッドクリフ…こと「小赤壁」からほど近い、
潮風に瀬戸内の海の香りがする坂の途中に、
袖もぎ地蔵という石地蔵あり。
この地蔵の前で転ぶと、死ぬ…と言われています。
死にたくなければ、袖をもいで、地蔵様にお供えしてからお行き。
…そんな伝承のある、袖もぎ地蔵。
折口信夫の推理
袖もぎ地蔵は、じつはわりとよくある伝説で、
検索してみると岡山や小豆島の「袖もぎさん」がヒットします。
京都だと、清水の三年(産寧)坂で転ぶと、三年以内に死ぬとかいいますが、
このバリエーションかもしれない。
(三年坂で転んだ場合は、坂の途中にある瓢箪屋さんで、瓢箪を買うと免れます。)
◇芭蕉の小径 三年坂・二年坂 コラム
袖もぎ地蔵については、思わぬところで折口信夫が謎ときをしてて、
冴えわたる霊界探偵ぶりを発揮してます。
折口が着目するのは、日本霊異記の聖徳太子のエピソード。
太子が路傍に倒れ伏す乞食(かたゐ)に、自分の衣を脱いで、かけてやります。
あとで戻ってみると、かたゐの姿はなく、残された衣を太子はふたたび身にまとう。
賤者の触れた衣ですからと従者が言うと、太子は、
「とどめよ。汝らは知らじ。」
乞食はやがて別の場所で死に、太子の命で入木墓という墓所が作られる。
しかし墓所はいつの間にか、入口をあけた形跡のないまま空になり、聖徳太子を称える歌が残されていた、と。
鵤 の富の小川の絶えばこそ わが大君の御名忘られめ
旅の路上で死んだものは、神。
「行路死人」への信仰があり、その骸には衣を掛ける風習があった。
その簡略な形として、袖をもいで行路神にささげる。
行路死人が神であることが忘れられていく中でだんだん変化し、
「衣をかける」という動作の主語と対象も混同されて、
転んだら死ぬから、地蔵に袖を納める、という形になった、ということのよう。
青空文庫から、折口の原文をコピペしておくと。
袖もぎ地蔵というものと、霊異記の太子のエピソードがわかってないと、この文章はちんぷんかんぷんw
こないだ道すがら「袖もぎ地蔵」というものをはじめて知り、
折口全集をぱらぱら眺めるうち、たまたま折口の言及に出くわした…というわけ。
折口の推理の鋭さに、改めて気づいた次第。
聖徳太子が、傍丘に飢人を見て、着物を脱ぎかけて通られたといふ話は、奈良朝以前既に、実際の民俗と、その伝説化した説話とが並び行はれてゐた事を見せてゐる。而も其信仰は、今尚山村には持ち続けられてゐる。此太子伝の一部は明らかに、後世の袖もぎ神の信仰と一筋のものであると言ふことは知れる。行路死人の屍は、衢・橋つめ、或は家の竈近く埋めた時代もあつた、と思うてよい根拠がある。山野に死んだ屍は、その儘うち棄てゝ置くのであらうが、万葉びとの時代にも、此等の屍に行き触れると、祓へをして通つた痕が、幾多の長歌の上に残つて居る。歌を謡うて慰めた事だけは訣るが、其外の形は知れない。唯太子と同じ方法で着物を蔽うて通り、形式化しては、袖を与へるだけに止めて置いた事もあらうと思ふ。
みてぐらとぬさとの違ひは此点にある。絵巻物の時代になると、みてぐら・ぬさを混同して、道の神にまでたむけて居る。ぬさは着物を供へる形の固定したものであらう。着物が袖だけになり、更に布になり、布のきれはしになると言ふ風に替つて、段々ぬさ袋の内容は簡単になつて行つたものと思はれる。山の神の手向けとして袖を截つた事もあつたのは「たむけには、つゞりの袖も截るべきに」と言ふ素性法師の歌(古今集)からでも知られる。而も、かうした精霊が自分から衣や袖を欲して請求するものと考へられる様になつて来る。此が袖もぎ神である。道行く人の俄かに躓き、仆れることに由つて、其処に神のあつて、袖を求めて居るものと言ふ風に判ぜられる様になる。壱岐の島などでは、袖とり神の外に草履とり神と言うて、草履を欲する神さへある。袖もぎ神は、形もなく祠もない。目に見えぬものと考へられて来た様である。
「餓鬼阿弥蘇生譚」は、浄瑠璃で知られる
(といっても戦後生まれの我々はあまり知らないんですが)
小栗判官のグロい伝説の謎を解き明かすもの。
◇小栗判官 – Wikipedia
オグリは、思いを残して死んだ後、閻魔の裁定で蘇生。
しかし、再生した姿は瘡に被われた「餓鬼阿弥」という醜い姿だった。
やがて、判官とお供の十人の遺体を切り貼りして、元の姿を取り戻す
(というのが、折口が蘇らせたいらしい、元のおどろおどろしいストーリー)。
…と、ちょっとフランケンな、手塚治虫「どろろ」みたいな雰囲気。
全体として、蘇民将来タイプのストーリーですが、この線を追うのは、また別の機会に。
サバの大師
「餓鬼阿弥蘇生譚」は、旅の途中で突然のだるさに襲われる、ひだる神のことも出てきます。
折口は無謀な山旅をよくしたので、ひだる神につかれたことも幾度かあるらしい。
コピペした続きの部分に、「散米=サバ」のことがちらっと出てきます。
行路の神にたむける供え物としての、サバ。
じつは京都北部の鯖街道の「サバ」も、本来はこの意味であったようです。
海岸部から山に入っていく道すがらに、魚などを供える風習が広くあって、あの青い魚を「サバ」と呼ぶのは、お供え物の意があったらしい。
海岸の住民が魚を捕って、これを内陸の農産物と交易に行くには、昔は境の神を祭り魚を供える風があった。その場所は大抵道の辻、森の下、その他ある特別な感じを起こすような隘路などで、そこには魚を載せる為の石が置かれ、それがまた霊地の目標ともなって、次々に変化していく伝説を支持していたのであろう。
柳田国男「鯖大師」
神の食事
すごい推理の展開ですが、旅するものに食べ物を与えることは、
平たく言えば、その神を味方につける技法。
「よもつへぐい」といって、黄泉の世界で食事を取ってしまうと、もうこの世には戻れない
…逆もまた真だとするなら、神をとどめおくには、この世の食事をさせればよい…ということなのでしょうか。
仏教のほうに引き寄せると、餓鬼に食を施す風となって、それは折口の論文「餓鬼阿弥~」のタイトルがたぐる糸のひとつ。
道中でひだる神に取り憑かれたら、「米」の字を手のひらに書くとよい…というのも、サバのテクニックが簡略化したもの。
食事を取るという行為自体が、内と外、あっちとこっち、この世とかくり世のサカイを作り出します。
鬼は外の豆もこの系に属してそう。
もっと時代がくだって、お蔭参り。
江戸に奉公に出ている丁稚さんは、抜けがけでお伊勢参りしても、無事に帰って来ると、おとがめを受けることはない。
道中は、手持ちの路銀がろくすっぽなくとも、道々の家々で、参詣の旅人をもてなす風習がある
…いや、もてなさねばならなかった、旅人は神であるがゆえ。*1
あるいは、渡世人と呼ばれる、旅をすみかとする輩。
宿をもとめるとき、例の「てまえ、生国とはっしますは…」てな名乗りをして、うずたかく山盛りにした丼飯を一気食い。
その一宿一飯の恩義によって、宿の用心棒となる。
渡世人が真にもとめているのは死に場所であり、神として再生する機をうかがって旅している。
架空の話のほうが、その神話的な佇まいが綺麗に出ています。
黒澤明監督の「用心棒」「椿三十郎」の主人公・三十郎も、この手の輩。
とくに「椿」では、一宿一飯の恩義が精密に踏襲されています(敵側の飯は食わない)。
三十郎は、牛頭天王と同じような「旅する神さま」。
でも、黒沢や脚本家たちがこうしたことを意識していたようには思えず、
神話がどのように再生するかのリアルタイムな例と考えてみると面白いんですが、
これも話は長くなるので、また別な折に。
それに、寅さん。
一宿一飯の恩義は、かえって迷惑な形で果たされる。
そして、それはむしろ神さま(疫病神さま)らしい。
その上、寅さんは恋する神さまであって、小栗判官が照手姫との、牛頭天王が竜宮の姫との逢瀬の旅の途上にあるのを思わせる。。
と、こんな長々と書くつもりはなかったのですが、
「袖もぎ地蔵」のもぎもぎする袖は、思いのほか、深いようです。
次回は、この続きで、隠れ蓑のことを。
それと、最後に…「袖」をユズだと思っている人がいるかもしれない…。
参上る 八十氏人の 手向けする
畏の坂に 幣奉り 我はぞ追へる…「万葉集」巻六



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