「荒涼館」のお岩さん
ロンドンのディケンズ、ロシアのドストエフスキー
「カラマーゾフの兄弟」「白痴」
といったドストエフスキーの大作が、
ロシア民話「イワンのばか」を下敷きに、
その象徴性を深読みして、巧みな変更を加えたもの
…ということを書いてみた前回。
民話を元に、つむがれた近代小説。
これをさらにディケンズにも適用してみると、
深みにはまって面白いかも
…というのが、今回のお話です。
ドストエフスキーはディケンズが大好きでした。
「ディケンズでまだ読んでない作品があるなら、
それは君の人生の幸福が残されているということ、
なぜならまだ新しいディケンズを読むことができるんだから」
…そんなことを言っています。
ドストエフスキーの長編小説は、
ディケンズのロンドンをロシアに移植したもの。
そう言ってもいいくらい。
ディケンジアンは多いんです。
ドストエフスキーがディケンズをロシアに移植したように、
カフカはプラハに、
ジョイスはダブリンに、
フォークナーは南部アメリカに、
マルケスは南アメリカに、移植してみせた
…そんな文学の系譜は成り立つはず。
どこでも育つ強い根を持つ小説。*1
神に愛される子供、回心、価値の転倒
「神に愛される愚か者」こそが小説の主人公。
ドストエフスキーはこの考えを、イエスとドン・キホーテと
ピクウィック(ディケンズの最初の小説の登場人物)から学んだ。
ディケンズの作品の多くは、
「貧しい子供が、無垢ゆえの受難ののち、富を得る」という筋。
財産相続。結婚の主題。
「炭焼き長者」…愚か者の若者が
長者の娘と結ばれ、黄金を掘り出し大長者になる
…という民話と、
とてもよく似たモチーフになっています。
富とは何か、価値とは何か。
マネーとはちがう、価値の本当の意味を取り戻す
…「回心」といっていい、価値の転倒が起き、
キリスト教的な大団円が予定されています。
(クリスマス・キャロルの長者=スクルージが有名。)
もちろんディケンズは、「炭焼長者」なんて知らないですから。
民話を意図的にモチーフにしたわけでもないはず。
でも、なぜか似ている。
そもそもディケンズの生い立ちそのものが、
すでにオリバー・ツイストのよう。
貧しい子供が大作家になる。
資本主義が強大化するロンドンで、
マネーと価値の問題は生活の中心課題でした。
長者譚と形が似てくる理由はあるのです。
ディケンズは読み終えたあとから、
本当に「読む」ことがはじまる作家。
「ネルやエスタやドリットちゃんならこんなとき、どうするだろう」
読み終えたあとから、人生の折節に伴走するキャラクターたち。
登場人物の造型が的確なんですね。鋭く深く突き刺さる。
書かれなかったエピソードが無限に広がる。
作者の意図などはるかに越えて、読者が生きて育てていく物語。
ディケンズ「荒涼館」
日本の読書っ子は、ディケンズをあまり読んでこなかった。
それは例えば、ウィキペディア「荒涼館」の項目の、
日本と英語の極端な温度差にも現れています。
(日本の解説を書いた人は、たぶん「荒涼館」を読んでないですw)
しかし「荒涼館」は、小説というジャンルの最高の達成のひとつ。
□荒涼館 – Wikipedia
□Bleak House – Wikipedia, the free encyclopedia
□ディケンズ・フェロウシップ日本支部 ディケンズ:Bleak House:梗概
ディケンズの魅力は筋の面白さ、キャラクターの端的な造型、
そして文章の曲折(あや)にある。
限りなく浅く読むことも、
限りなく深く読むこともできるあやうさが、ディケンズ作品にある。
その象徴性をどう読み取るかで。
読者の生きてきた生の深さまで測られるか知れない。
後期ディケンズは中年以降の読書と言えそう。
「荒涼館」は遺産相続をめぐる裁判
「ジャーンディスvsジャーンディス」から始まる。
何世代にもわたってうち続くこの裁判。
あまりに複雑化し、もはや誰もその全貌を知らない。
数万ページに及ぶ裁判書類は、発狂者や自殺者を派生し、
裁判に関わったものの心を汚していく。
カフカの「審判」はおそらくここから由来しています。
この裁判はきわめて象徴的なもの…として読むことができます。
(裁判の終わり方も、カフカ的にシンボリック。)
この長大で複雑な作品のあらすじを、
紹介するわけにもいかないのです。
無垢な子供たちの受難、アダルトチャイルドのスキムポール
…書いてみたい話題はたくさんある。
人体自然発火現象の異様な描写が続く文章は、
ナボコフがものすごい勢いで誉めちぎっています。
ともあれ主人公のエスタ・サマソンは、
話の途中で天然痘をわずらい、顔にあとが残ります。
でも、彼女は本当の美しさを知る男と結ばれ、
最後は幸せになる…というのが結末。
ひとつひとつのエピソードのあらすじを取り出すと、
民話のようにシンプルで、
神話的な何かに触れていることを感じさせます。
そして、それらが複雑に絡み合って、深い象徴性を獲得する。
じつは「筋」だけ追うと破綻してるところもある。
ミステリーとして読もうとするのは、ちょっと方向が違っている。
おそらくそれは後期のディケンズが、
象徴性ということをより重んじたため。
だから、カフカはディケンズや
フロベールのよい読者になれたんです。
深読み病をわずらうフランツ☆
「荒涼館」のお岩さん
あえて思い切った誤読をしてみようと思うのです。
「荒涼館」の主人公エスタ・サマソンと、
四谷怪談のお岩さんが、同一人物なのではないか、と。
岩は、神話の段階では、イワナガヒメ(磐長姫)であったもの。
美人の妹・コノハナサクヤ姫と、醜女の姉・イワナガ。
東アジアに広く知られた神話によれば、
男が木花咲耶姫をめとることで、
その子孫である人類の命は、花のように儚くなった、と。
もしイワナガをめとっていれば、
命は石のように永遠であったものを。
逆に、イワナガを嫁にした男
…炭焼き長者がじつはそうなんですが、
彼の一族は永代にまで富栄える。
お岩さんは、関東地方でダイダラボッチとともに、
形を変えながらかすかに伝承していたイワナガヒメの物語が、
かすかに残響しています。
「岩」という名前の不思議、*2
そして片目がつぶれた一つ目の姿で描かれること。
(これは、たぶん新説。かなり長い説明を要しますが、今は略…(;・∀・)
価値の転倒。
それが主題です。
醜女を嫁に迎える男が幸福になる。
「炭焼長者」では逆に、長者の娘が
ヘタレ男のところに嫁に来る、
というバリエーションを持っている。
嫁が家から持参した大切な小判を、
池の白鳥に投げつけて遊んでしまう、
物を知らないにも程がある、愚かな炭焼の若者。
でも、彼は「黄金」を宝とも知らず大量に持っていて、
やがて長者になる。
美と醜、黄金と幸福をめぐる、価値の転倒。*3
四谷怪談も本来は、価値の転倒と
ハッピーエンドが予定されているはずなんです。
でも、伊右衛門は、岩ではなく、
いわば、コノハナサクヤヒメのほうになびいていく。
ために、物語は不幸な結末を迎える。
岩は怨霊として、永遠の生命を得る。
赤穂浪士の討ち入りが、民衆の心のうちでは肯定されながら、
公には否定されてしまう社会での出来事。
八犬伝と維新は、まだ。夜明けは遠い。
京極夏彦は「嗤う伊右衛門」で、
あえて伊右衛門の態度を変更し、岩に寄り添わせた。
ぎりぎりのハッピーエンドが手向けられています。
フォークナーの「エミリーに薔薇を」のように。
ハッピーエンド
「荒涼館」は、
「even supposing でも、もしかしたら」
というエスタの独白で終わります。
何が「もしかしたら」なのかというと、
その直前の、「元の顔」をめぐる、夫君との対話を受けています。
“My dear Dame Durden,” said Allan, drawing my arm through his, “do you ever look in the glass?”
“You know I do; you see me do it.”
“And don’t you know that you are prettier than you ever were?”「ねえ、ぼくのかわいい小さいおばさん」とアランは言いました。私の腕を引きよせながら。「君は鏡を見ないの?」
「知ってるじゃない。私が見てるところを、あなたも見ている」
「じゃあ、君は自分が前よりきれいになったことを知らないのかい?」
「前よりきれいになったことを知らないのかい?」
エスタは自分を省みず、他人のことばかり考えて、
働きまくる娘としてずっと描かれてきた。
彼女のあだ名は、「小さいおばさん Dame Durden」なんです。
家政婦として登場し、浮浪児を助けて病気に感染する。
周りのことに一生懸命で、「自分自身を見ない」。
この小説の語りは、三人称の客観視点と、
エスタ・サマソンの一人称のふたつが、交互に現れる。
そして、「自分自身を見ない」エスタの出生の謎が、
大きなミステリーになっている。
彼女の顔がその鍵。
しかし、エスタは自分を見ない。
裁判にかかわる人々が、
「自分ばかり見る」病気に冒されているのとは対照的に。
たぶん、エスタの出自は、小説の語りそのものにある。
その点で「探偵」と似ています。
例えば金田一耕助は、事件を止めることにおいては無力であり、
ほとんど客観視点のように事件を眺めるばかり。
しかし、「正義」に対する感触が、
彼(三人称客観であるべきもの)を事件の現場の内に登場させる。
何もできないにせよ、彼は見る。謎を解く。泣く。
まるで神が無力な子供や、
みすぼらしい流浪人の姿でこの世に関与するように。
エスタは最後に、「もしかしたら」と自分を見る。
この世界に形あるものとして存在する。
みんなから見られるものとして。
お岩さんのように幽霊としてではなく、
この世のものとして永遠となる。
正確には彼女は、夫や子供たち、親しい人々が
こんなに美しいのだから、それだけで満足…
最後の最後に「でも、もしかしたら」と考える。
ナボコフは「荒涼館」の語りを分析して、
最後に三人称客観と一人称エスタが合流する、と述べています。
他人の世話ばかり焼く「小さいおばさん」として、
それはこの世界に実在するのです。
物語っていうのは、こんなふうに読んでいいんじゃないでしょうか。
というか、そんなふうに読んでしまっている私(;・∀・)
本を読み終えて閉じたあとから、ほんとの読解が始まる。
それは自分の人生といっしょに育っていくものであるはず。
神話や民話はそのように語りつがれてきたのですから。
イワナガヒメの断片は、このようにさまざまな場所に、
さまざまな仕方でうめこまれ生きてきたし、
これからも生きていく神話なんだと思います。*4
「鏡よ、鏡。
ほんとうに、美しいのは、
誰?」
でも、もしかしたら
…いちばんみにくく、みすぼらしいものが、そうなのかもしれない。
それは受難を経た、無垢なるものであるのだから。
わわ、面白いですね。
「荒涼館」は未読なので半分から下は記事を読まないようにしたのですが、上半分だけでも興奮します。そんなにすごいんですね。「二都物語」と「大いなる遺産」と「クリスマス・キャロル」を読んだことがあります。overQさんの書かれたように浅く読めるし、僕は今思い返すとやはり浅い読み方で楽しんだようなのですが、それでも筋の面白さだけに終わらない何かを感じました。それは作品の世界の中の濃密で重たい空気感などという感覚的な言葉でしか語れないのですが、「ニ都物語」を読んだときには、暗雲垂れ込めるといった暗く重いイメージが常に頭から離れませんでした。
そんな読書をしたのもやく15年前の二十歳前後のとき。あの時は純粋にすごい作家だと感心できたのに、その後よけいな雑音を耳にするにつれてどうも大文学などと呼ばれるものからは一段格下に見られる大衆娯楽作家というイメージを植えつけられてしまい、反発しながらもどこか醒めた目で見てしまうようになりました。
確かディケンズを読んでそしてそれを契機にイギリスの文学に親しみを持って、ヘンリー・フィールディングなども読んで大変楽しかった記憶があったのになぜかそのことを忘れていました。
なんだか色々大切なことを思い出せて良かったです。
ありがとうございましたヽ(´ー`)ノ
ディケンズは、20世紀に入ってからは、むしろライターズ・ライターとでもいうか、
作家が読んで喚起されるものが多い作家になったようです。
もともとは国民的人気作家だったことを思うと、不思議な読み替え。
ディケンズの魅力は語り口(ナラティブ)にあり、プロの作家はディケンズの驚くべきたくみさに気づくんですね。
シェイクスピアとは異なる英語の駆動原理を見つけたと言ってもいいかしれません。
ディケンズを日本語で読むときも、ほんの二、三ページだけでも英語の原文を読んでから読むといいかも。
原文はネットにたくさんあるので。
日本語を読みながら、原文ではこんな感じかなと、なんとなく想像できるように。
日本の長編漫画と、よく似た特徴を持っています。
書きながら話を作っていくので、全体としてみると破綻があるとか。
極端に誇張されたキャラクターとか。
センチメンタリズムに安易に流れるところとか(笑)
でも、そういうのは弱点というより、むしろ長所であり、必然でもあるかもしれません。
でも、まあ、日本の長編漫画よりは、筋の破綻は少ないです。
小説はもっと短期間で書けるせいもあって。
いなくなっちゃう登場人物とか、無駄になった伏線とかは、漫画ほど大量ではないのですw