UFOや幽霊から、メアリー・セレスト、コティングレーの妖精、
スカイフィッシュやチュパカブラに至るまで。
いわゆる、超常現象。
信じるか、信じないか…と問いつめられたりする。
でも、こうしたものに心惹かれる思い。
それが真実か、本当はべつなトリックがあるのか、
というところに、核心があるんだろうか。
謎の解かれる前の、あのあいまいな気分。
むしろ、そこに、心惹かれる「何か」の核心が脈打っているのではないかと。
幽霊の正体見たり、枯れ尾花。
だって、そんなこと、はじめから、わかっているもの。
ロールシャッハ・テストは、紙にできたインクの染み。
占い師の覗き込む水晶は、光の屈折・乱反射が見せる模様。
探偵さんがすばらしい推理で、「謎」を解いてくれても、
「はいはい、よかったね」と、結局、人々は、
またぞろ次の「謎」へと向かっていくばかり。
それが錯覚であるということは、ほんとは初めからわかっている。
問題は、それがそれ自体でなく、べつな「何か」に見える。見えてしまうということ。
それが本当は何であるか…ということは、まあ、どうでもいいこと。
べつなものだと言いきられてしまえば、
「錯覚可能」な他のメディア(霊媒)を見出すだけ。
なぜ、見えないはずのものが、見えているのか。
「べつな何か」それは何か。
この現象は、ニンゲンにだけ起こることではないらしい。
ある種の蛾の羽根の文様は、天敵である小鳥や小動物には、
目玉のように見え、恐れを呼び起こす…と言われる。
たぶん、まず研究者の目に、それは「目玉」に見えているのですが。
擬態…は自然選択による紋章。
いったい、何に見えているのだろう?
何が、怖いの? 懐かしいの?
飛んで火にいる虫。
子供の頃、お化けと思っていたものが、
じつは壁に映る影であったり、窓の隙間から風が吹き込む音だったり。
そんな「発見」をして、恐怖が克服される。
すごく心に焼きつく体験。
ちょっと大人になった瞬間の刻印。いつまでも覚えているもの。
霊とかUFOとかネッシーとか、怪奇現象を扱うサイト。
その半分は、それらが「枯れ尾花」であることを
「科学的に」示そうとするもの。
縷々繰り広げられる実証の言説。
まったく他人事として眺めてみると、
そんなどーでもいいことの否定に躍起になるのは、
なんだかとても不思議な感じがします。
子供の頃、恐怖を克服できた記憶が、体に刻まれていて、
それを再現しようとしているのかしれない。
逆に言えば、それはまだ「恐怖」の感触が残っているということ。
そう。
まだ、「恐怖」の中にあった、子供の心持。
郷愁と恐怖が一体になった、あの気持ち。心細さ。夕暮れ。一人ぼっち。
怪奇現象に「興味」を惹かれるのは、
それを科学的に否定する気持ちと表裏一体で、
子供の頃のある気分を再現しようとしている。
この道は、どこに続いてるんでしょうねえ。
詩人でも絵描きでも音楽家でも。
アートに携わる人は、いつもこの妖しい気分と、
科学的方法論のはざまで、創作をしているはず。
表現。それはどこからやって来るのだろう。
わかった時にはいつでももう、わからなくなっている、
あの場所。かの岸。*1
なお、冒頭の写真には、緑色の妖精が
…って、しまった。この記事はもともと、
「信じる人」に思われたくなくて、書き始めたものだったのに。。
¶ Footnotes:
- でも、「向こう」に行ってしまっては意味がなくて、
どっちつかずの「あいだ」に立つのが、創作のポイント。 [ ↵ ]

