‘N-D,’ Skip said. ‘So?’
‘The letters stand for nuclear disarmament. Bertrand Russell invented the symbol in the fifties.’ He drew it on the back of his notebook:☮ ‘He called it a peace sign.’
‘Cool,’ Skip said.-Stepen King “Hearts In Atlantis”
「N-D」スキップはいった。「で?」
「核軍縮(ニュークリア・ディスアーマメント)の頭文字を表す。バートランド・ラッセルが50年代に発明した」と、彼がノートの裏表紙に描いてみせたのは、☮。「ラッセルはこれをピース・サインと呼んだ」
「クール」とスキップ。-スティーヴン・キング「アトランティスのこころ」
☮ピースシンボル
ピースシンボル。
このしるしはそう呼ばれる。1960年代、アメリカのベトナム反戦運動でさかんに使われた。
今でも、十代の女の子の身につける呪物のようなアクセサリ群の片隅にまぎれていたりする。
…60年代のかけら。ぴーす。
手旗信号のNとD…それがこのマークの正体。
NとDは、Nuclear Disarmament=核兵器廃絶の頭文字。
デザインしたのは、ジェラルド・ホルトンさん。
1958年2月21日、CND(=Campaign for Nuclear Disarmament)という団体のために作った。
団体の長は、バートランド・ラッセル。86歳だった。
Peace symbols – Wikipedia, the free encyclopedia
この件はスティーヴン・キングの小説で知ったこと。
Hearts In Atlantis(邦題「アトランティスのこころ」)。
複数のたがいにつながりあう中短編を組み合わせた作品で、その二番目のノヴェラ、
「1966: Man, we just couldn’t stop laughing.」
の19節。
ニクソン以降のアメリカ…とりわけレーガノミクスの席巻からブッシュ親子のふたつの戦争にいたるアメリカを代表する小説家は、スティーヴン・キングだったのではないだろうか。
☮1969年、二十歳
あの1969年。
スティーヴン・キングは二十歳だった。
同様に、1969年、二十歳であった小説家は、村上春樹。
この小さな「偶然」を手がかりに、小説ということを考えてみる。
エルサレム賞の授与。スピーチは、
私は小説家として、この地ににやって来た。
I have come to Jerusalem today as a novelist.
と始まっていた。
小説 novel、というコンセプト。
それはいつも小さく奇妙で新しい。
中国では、天子の説く天下国家のこと=大説に対して、巷のあいだに繰り広げられる無限無数の噂・噺を「小説」と呼んだという。*1
壁(=大説、天下国家の言説)ではなく、卵(=小説、手で触れられるものを信じる)の守り人。
尊重される嘘のつき手。
しかし、あの日は真実を話すと言った。小説家はいかにして「大説」と関わってみせるか。
ちなみにエルサレム賞の初代受賞者は、バートランド・ラッセル。ぴーす。
☮村上春樹の文体はどこから来たか
今ではもう誰もが忘れてしまっているけれど、村上春樹はデビューの頃、けっして「ノーベル賞」と結びつけられたりする名前ではなかった。
後になって、きっと僕たちはこんな風に思うだろう。
1983年–あれは、ビヨン・ボルグがコートに別れを告げ、僕たちは三度目の夏をむかえた。
そして、村上春樹の初めての短篇集–「中国行きのスロウ・ボート」が出版され、おかげで、僕たちは愛しあうことも忘れ夢中で読みふけった年だった、て……
「中国行きのスロウ・ボート」、帯の宣伝文。
80年代。懐かしくも、こっ恥ずかしい文章。文庫本では、もう使われてませんかねw
コピーライターという言葉が、日本語の日常語に付け加わったのも、この頃だったよね。
村上春樹の文章は最初、片岡義男からポパイやホットドック・プレスといった雑誌、なんとなればわたせせいぞうまでもと、同じくくりにあった。
こうしたことは、同時代を生きた者には当たり前のことでも、むしろそうであるがゆえに、忘れられてしまいやすい事実なので、ここに書きつけておくのだけれど。
実際、最初の二つの作品「風の歌を訊け」「1973年のピンボール」は、まさにその軽やかな文体が斬新。逆に、古い文章の価値観からはあまりに軽薄に見えた。
村上春樹以前と以降では、文学の新人賞に応募してくる原稿の文章が、すっかり変わってしまった…と編集者がやや嘆くように語っていた時代。
文学史的事実として、村上春樹登場の前と後で、日本語は大きく変わってしまった。
ただ、この手の文体は、村上春樹が発明したわけではない。
この文体は、おそらく戦後の翻訳からやって来た。
すべての日本語の文体は、翻訳からやって来る。
村上春樹に代表される新しい日本語の書き言葉は、たぶん早川書房などの出版事業がもたらしたもの(という奇説を以下に)。
☮翻訳が作った日本語
日本語を作ってきたのは翻訳。
しかも生半可な外国語の知識と過剰な憧れによる、「想像力豊かな」翻訳によって、日本語は作り出されてきた(そしてその反動により「起源」は隠蔽される)。
弥生時代までさかのぼっても、じつはそうだったのではないかと疑う。
中途半端な外国語力による翻訳は、想像で補わねばならない部分が多く、脳が全領域にわたって駆使される。
それはほとんど、水晶の怪しい文様を見て占いを行うようなもの。ロールシャッハ・テストや辻占や空耳アワーのよう。
神の言葉を聞くことが、あらゆる文学の起源だとするなら、今でも翻訳(誤訳)において、それは不断に行われている。
英語の得意でない学生たちに英文解釈させると、きっと何人かは「文学」しているもの。
テストの採点としてはダメでも、読み物としては、じつにイケる。
彼らは意味の取り出しようのない文様から意味を取り出すことに呻吟し、魂の内奥からの託宣を、そこに見出す。
村上春樹以前の日本の戦後作家たち。
村上春樹以前の日本語がどのようなものであったか。
大岡昇平や埴谷雄高、椎名麟三、武田泰淳、野間宏といった戦後派文学者にはじまって、大江健三郎や中上健次くらいまで。
今、もっとも読まれてない作家たちであり、実際、今の若い人たちには、この手の作家の文章が読めない。
村上春樹以降に日本語を習い覚えた世代にとって、まるで外国語。
団塊の世代以降の人たちにとって、明治期以前のものが、そうであるように。*2
彼等の教えられた軍人精神が、今彼等が戦闘力を失い、周囲に柵があるという事実によって、ここでは使い途がなかったように、彼等の軍人的肉体もここでは不具の外観を呈するほかはなかった。彼等は相撲を好んだ。この肉体的力と戦闘意識の結合を生命とする遊戯は、なお残存する彼等の軍人の意識を快く擽るのだろう。 (大岡昇平「俘虜記」)
その巣の中での彼女の行動、Mに対する愛情の表現、ことに性生活がどのようなものであったかは、後になって光雄にも推察されたが、いずれにしてもMはその行為によって、光雄を批判しただけの自己を確実に証明したのであった。そして光雄はMに批判されたとおりの自己を、自然とあからさまにしたのであった。 (武田泰淳「「愛」のかたち」)
早く母は何か言わなければならない。父の口から吐かれた瓦斯体のものを母の口からの別の瓦斯体によって、中和させるか何かしなければ、此の廃墟のただ中に奇妙に取り残された或る地点を中心としてこの国全体が崩壊しそうであった。 (島尾敏雄「夢の中での日常」)
この、ゴツゴツした、説明口調の、翻訳風な文体。日本語であろうか。
欧文のシンタックスで単語が配置されているとしか思えない。関係詞が見える。
戦後派作家に共通するスタイル。
漢文調とも戯作風とも、また戦前の一時現れたモダニズムともちがう、新しい武骨な日本語を引っさげて、戦後の文壇に登場した彼ら。
☮ランボーな翻訳
戦後派文学者は、1910年(明治43年)前後の生まれ。
明治を知らない子供たちとして育った。
そして、青春期、円本などの出版ブーム。夢見る文学青年たち。
時代はたちまち暗転し、戦争に兵卒として参加することで、元服を強いられ、母国に帰ってきたときには、死者の霊を背負っていた。*3
戦後は社会の建設に関わっていく姿勢が強い。
彼らの声は、上のような文体であらわされた。
戦後の混乱をわしづかみにし、そこから断片化した「正義」を、継ぎはぎにデフラグしていくのに、彼らが用いた文体。
大正末から昭和初めの出版ブームから、この文体は来ている。
円本、全集、岩波文庫。19世紀ヨーロッパ文学(小説)の翻訳が中核。
それを読んで育った世代。十代終りに読んだ言語が、その人の書き言葉の文体を方向づける。
ずいぶん乱暴な翻訳だった。
大ブームであって、ものすごい勢いで翻訳が生産される。
学徒までも動員。小林秀雄の世代の外国語学科生たち。やっつけにやっつけた賃仕事で、学生にしてはずいぶん裕福な暮らし向きであったらしい。
語学も海外の知識もとうてい十分とは言えず、しかも時間はなく、手間暇かけない。
訳文は誤訳に満ちており、たとえば宮武外骨を憤慨させている。
◇宮武外骨「一円本流行の害毒と其裏面談」(青空文庫)
しかし、おそらくそのようなスピード感のうちに、わあっと出てきたからこそ、江戸からはっきりと断絶した、新しい日本語が生まれた。
外国への過剰な思い入れのもとに、玉石混交の翻訳を味わいわけることで、若い読者たちは自分の言葉を培っていったにちがいない。
それが「戦後派」と呼ばれた小説家たちのふるさと。ミシマも例外ではない。
誤訳の持つ文学的創造性、という逆説。
これは人類が言葉とともに広がり、バリエーションを生んでいく、基本的な原理だったのでは。
ロゼッタストーンが見つかるまで、ヨーロッパでは、エジプトの象形文字のことを、アダムの時代の言語だと考える人々がいた。人と神が直接に語り合う言葉が刻印されたものだと。童貞が思い描く女性像のように過剰すぎる神への思い入れ。
実際、その方向で彼らは「解読」に成功すらしていた。真理はそのように現れる。辻占。
☮早川書房の出版物
戦前の翻訳文学は、19世紀ヨーロッパ小説を中心にして、「近代」の言葉を伝えていた。
一方、戦後、アメリカの新しい文学が翻訳の広大なフロンティアとして現れる。
それまでの、いわゆる「文学」とは、出版の形態がまるでちがう。
推理小説やSFは、パルプ雑誌で大量生産され、ペーパーバックで出版される。
読者層も異なる。インテリジェンスよりエンターテイメント。
早川書房を代表格に、この市場が開拓されていく。
清水俊二訳のレイモンド・チャンドラーも、ここに現れた。
清水訳のチャンドラーがなければ、村上春樹は今とはまるでちがうものになっていただろう。*4
清水俊二は映画字幕の翻訳者であり、従来の「文学」の翻訳者が大学の外国文学研究者であったのとは、出自が大きく異なる。
清水訳に(というより当時の翻訳推理小説に)「誤訳」を見つけるのは、難しいことではないだろう。
そもそも、時間をかけた正確な訳が必要とされていたのではなくて、商品としての読み物が要求されていたのだから。
大江健三郎や中上健次は、早川書房が訳すようなペーパーバックの熱心な読者では、けっしてなかった。
しかし、村上春樹は、まさに早川が訳すような類のものを先取りして、原書でどんどん読んでいた。*5
個人が読書のとき「誤訳」しても、誰も批難しないし、できるわけもない。また、「読む」とは脳内誤読しまくることでもある。
若い村上春樹の脳内誤訳が、新しい日本語を着々と準備していた。
そのような日本人は彼ひとりではなく、雑誌のライターには商品や流行とタイアップしつつ、似たような作業をしている人がいたはず。もちろん、SFや推理の翻訳者たちも。そして、ロックを聞く人々も。*6)
☮村上春樹のスティーヴン・キング論
村上春樹には、本になっていない、幻の長編評論がある。
「同時代としてのアメリカ」
1981〜82年、今はもうない雑誌「海」に掲載された。
「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」は出していたが、短編集「中国行きのスロウボート」、「羊をめぐる冒険」は、まだ出版されていない。
ジャズ喫茶「ピーターキャット」の経営はやめていなかった。
ジム・モリソンや「地獄の黙示録」。アーヴィング、チャンドラー、フィッツジェラルド、「グレート・デスリフ」、オブライエン。
のちの村上春樹の翻訳メニューが、すでにこの評論で予告されている。
文体は熟しておらず、どちらかといえば大学の論文のように、熱く生真面目に、これらを語る。
この連作評論で、最初に取り上げられるのは、スティーヴン・キング。
「キャリー」「シャイニング」は映画化されており、アメリカでは大ベストセラー作家としてのし上がりつつあった時期。
日本ではまだよく認知されておらず、実際、評論の中で村上春樹は「スティフン・キング」と綴りのままに表記している。
誰よりも早く、「小説家スティーヴン・キング」を見出したのは、村上春樹だった。
スティフン・キングの小説は、(あるいは文章は)僕を強くひきつける。一種の同時代的感覚と言ってもいいかもしれない。いや同時代といよりは同世代と言った方が近いかもしれない。それでは同世代感覚とはいったい何か。ある状況に対する認識と、その状況の崩壊あるいは変質に伴う認識の修正、そのふたつの認識のあいだの落差の共時体験、それが同世代感覚ではないかと僕は思う。ジェット・コースターにたとえるなら、問題はそれが「どこへ行くか」ではなく、「どれだけ落ちたか」なのである。「緊迫の六〇年代と疲弊の七〇年代」という状況の落差に対し、スティフン・キングは恐怖小説という形で回答を出した。あるいは出さねばならなかった。
- 村上春樹「〈同時代としてのアメリカ 1〉 疲弊の中の恐怖 – スティフン・キング」(「海」1981.7月号)
ケネディからニクソンへ。「どこへ行くか」ではなく、「どれだけ落ちたか」。
映画化を足がかりに、ホラーを看板にして、ここ三十年間でもっとも売れた小説家である、スティーヴン・キング。
しかし、今となってみれば、ポスト・ケネディのアメリカの、ありとあらゆる層を、その手のひらで触れる水準において、寓意的に描き尽くしてきた小説家だった、といえる。
雑多な、けっして歴史に残ることのない、破片のような人生、瑣末な日常の断片を、もくもくと積み上げる作業…それを彼は小説と呼ぶ。一語一語を積み重ねる。それが唯一の小説の書き方だと。
☮村上春樹の社会性
村上春樹はデビューのころ、社会参加しない作家とみなされていた。他者や外部との接触や衝突を回避し、自分自身の内なる世界だけで言葉をつむぐと。
それはふつう批判のトーンでなされた。半分は正しい…ただ批判者は村上春樹が69年に二十歳であり、それが何を意味するかを忘れている。スティーヴン・キングを「モダンホラーの旗手」「ベストセラー作家」とみなしてきた人々のように。
しかし、キングも春樹も、あえてそうする道をえらぶしかなかった。ピースシンボルの旗印が心のうちではためくかぎり。
たぶん、この連作評論が本になって、もっと多く目に触れていたら、初期の村上春樹への批判は避けられただろう。
しかし、彼はこれらの評論をのちに残る形にしなかった。
ピープルが、革命の主体としての人民ではなく、消費の主体(いや「主体」ですらない)としての大衆として定義される時代に、村上春樹という小説家は登場する。
キングがホラーという形でしか描けなかったのと同じく、村上春樹は社会参加(大説)が不可能になった時代を象徴している。
彼は政治家ではなく、小説家である。
しかし、愛というものを中心に考えるなら、スティフン・キングの描く恐怖は「人を愛することのできぬ恐怖」である。具体的に言えば家庭の崩壊・夫婦の愛の崩壊という現代アメリカの「普通の人々(オーディナリ・ピープル)が抱える恐怖でもある。だからこそそこにリアリティが生まれる。
そのような不条理性の中でスティフン・キングが価値判断基準の根幹に据えるのはヒューマニティーである(モラリティー、と彼は表現する)。スティフン・キングにおけるヒューマニティー・モラリティーとは何か? 「いろんなことが上手くいかなくなった」状況をまともにする(セット・ストレイト)力である。あえてそれに近いことばを探すなら、六〇年代後半のヒッピー・ムーブメントのあの有名な標語「ピース・アンド・ラヴ」かもしれない。
☮All The People Living For Today
村上春樹のエルサレム賞授与でのスピーチ。
ずいぶん評判がよかったのだけれど、村上春樹の小説の話をする人は少なかった。もっと驚くべきことは、村上春樹の作品はほとんど読んだことがないけれど、このスピーチには心動く、というような意見が少なくなかったこと。その違和感がこの文章を書いた動機かもしれない。
いや「違和感」というような大げさなことじゃなくて、小説を読めばいいのに、と思ったのだ。
国家とか民衆とかじゃなくて、実在するのはまずひとりひとりの人間。
そんなことはわかりきったことだけれど、ひとりひとりの人間も膨大な数で存在するわけで、誰もその総体を「ひとりひとり」方式で捉えることはできず、便宜的に国家や民衆やお客様やその他さまざまなツールが利用される。
そしてツールは強力である。
卵と壁。
たとえば壁にぶつかってつぶれる卵はひとつのたとえであり、それはさまざまな思いを喚起する。
ジョン・レノンは、天国はない、と想像してご覧、と歌った。宗教も国家もないと想像してください。人々はただ今日を生きる。imagine all the people living for today..
キングは、登場人物の性格を、「こんな性格でした」と書くことはしない、と言う。それは心理学の叙述でり、小説ではないから。
例えば、キングなら、ズボンのジッパーの上げ方を描きわけることで、登場人物の人となりを示して見せるだろう。心理学は存在しないが、ズボンのジッパーは上げ下げできるから。
手で触れられる日常の、瑣末な瑣末な出来事の積み重ね。しかし、それ以外のどこに何がある? ぼくたちの人生と呼べるもののうちに。
手で触れられる日常を語りつづけることで、天下国家の言葉に対抗する。
They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
と村上春樹はスピーチで語る。信じるのは自分の目で見、自分の手で触れられるもの。ジニューイン。
それは「抵抗」というような大説ではなく、ただの日常の事実。
そしてぼくは泥棒カササギを聴きながら、スパゲティを昼間に料理する。ぴーす。
「あなたは貧乏な叔母さんについて書こうとしてる」と彼女は言った。「あなたはそれを引き受けようとしている。そして、私は思うんだけれど、それを引き受けるというのは、同時にそれを救うことでもあるのよ。」
- 村上春樹「貧乏な叔母さんの話」(短編集『中国行きのスロウ・ボート』所収)
¶ Footnotes:
- 大説は繰り返し書きとめるほど、単一の「真理」に還元されていくが、小説は書き留めれば書き留めるほど、無数の生きた細部へと入り込んでいく。ゆえに、小説>大説。 [ ↵ ]
- 国語/外国語の区別をどこに置くべきかは、国境と同じ。
実際には存在しないもので、理屈では決定できない。
きっと世代によって理解できない言葉どうしは、同じ系統であるけれど、別な言語。
スペイン語とポルトガル語、あるいは津軽弁と薩摩弁のように。 [ ↵ ] - 村上春樹の受賞スピーチで、もっとも印象深いのは、父についての部分。Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.まさに戦後派文学者と同世代である。 [ ↵ ]
- しかし、「ロング・グッドバイ」を訳出した村上春樹はもはや、この文体の可能性をはるか彼方にまで、推し進めたと言える。 [ ↵ ]
- 風間賢二「六十年代の子供たちの同世代感覚」は、スティーヴン・キングと村上春樹を論じたもの。
その中で、風間は、80年代のはじめ、村上春樹と会った際を述懐する。
ふたりはSFの話をした。風間がSFマガジンで企画した「私の好きなSF」というコラムで、村上春樹はロバート・シルヴァーバーグ「夜の翼」をあげた。会って話してみると、村上春樹はハーラン・エリスンの未訳の短篇集「死の鳥物語」に言及し、希代の読書家である風間も舌を巻くマニアぶり。
ラブクラフトの愛読者であるといい、アーヴィングやティム・オブライエンが翻訳されてない状況をなげき、二人は意気投合する。 [ ↵ ] - たぶん私のような奇怪な考え方をするものには、いわゆる「日本語論」が成り立たない(-_-; [ ↵ ]








