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19
Aug
2009

イスの太夫、室津の君

水底の都「イス」

Claude_Monet_015

ドビュッシーのピアノ曲、「沈める寺」。
とてつもない名曲で、それが音としてこの世の大気をふるわせていることが信じられないくらい。
いや。実際…この曲、この世には存在していないのかもしれません。

沈める寺 La Cathédrale engloutie は、ケルトの伝説から採られたもの。

ブルターニュの船乗りはときおり、海中から鐘の音が響くのを耳にするといいます。
勇気ある漁師が潜ってみると、巨大な教会の尖塔が見えた。
窓からのぞくと、司祭が賛美歌を歌い、信者に応唱をもとめている。
もしこのとき、漁師が呼びかけに答え、歌い返したなら、イスの都はふたたび浮上し、その姿を地上に顕しただろう、と。

ブルターニュの娘が海辺を歩いていると、ふいに大きな門があらわれ、くぐってみるとバザールで、店先には色とりどりの珍奇な物産がならんでいる。
「さあ、さあ、いらっしゃい! なんか買って行ってくださいな!」
商人たちの呼びかけに笑みで答えるものの、少女は今、一片のコインも持ち合わせていない。
露天商らは嘆息し、
「ああ、それは残念至極! ほんの一品でも買っていただけたなら、この都のすべての民が解放されたというのに!」
そして、たちまち幻の都は消え失せ、娘はひとり浜辺に立ち尽くしていた、と。

ブルターニュ 死の伝承
アナトール・ル=ブラース
¥ 9,240 / 藤原書店
( 2009-05-25 )
在庫あり。

イスの都の物語

名君の誉れ高き王は、あるとき溺愛した娘ダユーのために、イスの都を作る。
水門によって干拓し、海底を大地とした都市は、空と海のあわいの不可有境。
ダユーはイスを、人がその思うがままを形にできる、快楽と欲望の都とした。
一夜をともにした男を、ダユーは翌朝には殺しつづけ(あるいはこの世で可能な思いのすべてを果たしたが故、男たちは自死したとも)、その数は999。
ダユー(太夫?)の所業は神の怒りに触れ、神は、赤き王子をつかわす。
王子に恋したダユーは、水門の鍵を渡し、繁栄を誇った魔都イスは一夜にして水没する…。
さて数百年ののち、海底から鐘の音がするのを漁師が聞く。
漁師が潜ってみると、深海に沈んだ教会があり、司教がミサをおこなっている。
司教は合唱隊に答唱をもとめ、もしこれに答えるものが現れるなら、
魔の都はふたたび浮上し、この世に姿をあらわす、という。

あるいはパリ(Par-is)はイス(Is)に似せて造られた都市で、かの地が滅びるとき、海底の大都はふたたび浮上し、地上の楽土となるであろうと。

ドビュッシー:前奏曲集 第1巻、映像第1集、第2集
ミケランジェリ(アルトゥーロ・ベネデッティ)
¥ 1,800 / ユニバーサル ミュージック クラシック
( 2008-01-23 )
在庫あり。

乱菊物語

播磨にもイスがあります。
先週、自転車で行ってきました。

魔都…人の望みがすべて形になる場所…空と海のあわい。
古来、ダユーのような女族長が支配する町であり、おそらくは卑弥呼以来の伝統がまだひそかに息づいていた場所。
女の都…実際、西鶴や谷崎潤一郎をぞんぶんに魅了しつづけた海辺の町。

それが、室津。

室津

「室」とは、神の嫁となる女が物忌みする場所。
女たちは神を迎え入れ、この地上に神の子をもたらす。
父神は、見えない。
隠れ蓑をまとって(あるいは鬼や動物の姿で)来訪し、御姿なき不在の父を持つことこそ、その子が神の裔であるみしるし。

やがて、見えない神の来訪をかろんじて、地上の神のようにふるまう男たちが、室の遊女をわがものにしようと(つまり自身が神であることをあかしだてようと)、躍起になった。
遊女の零落はそのように始まるのですが、ここ室津ではなお、遊女はマリアのように絶対の処女。誰と夜をともにしようが、誰のものでもありえない。
かくして、遊女はこの小さな湊町を屈指の金満の地とし、代々、長者として君臨してきたのです。
権力者たちは「彼女」をものにしようと七転八倒、中国の富豪さえ希少な蚊帳の贈り物をし、気を惹こうとしたといいます。
谷崎潤一郎は、室津を舞台に、播磨の伝承を巧みにつづりあわせ、伝奇時代小説「乱菊物語」
を書きました。

書写山円教寺の開祖・性空上人と、室津の君・花漆にまつわる伝説を、大谷崎はこんなふうに記しています。

昔、播磨の国書写山の開祖性空上人は何とかして生身の菩薩の姿を拝みたいと願っていたが、或る夜「こゝより西南に室という津がある、その地の長者花漆と呼ぶ白拍子こそ普賢菩薩の化身である」という霊夢を授かって、彼女に逢いにきたところ、花漆は上人を請じて酒をすゝめ、
  周防のみたらしの沢辺に、風のおとづれて、さゝら波たつや
と唄いながら舞った。上人がじっと眼を閉じてそれに耳を傾けると、歌の文句が、
  法性無漏の大海には、普賢恒順の月、光ほがらかなり
という風に聞こえ、眼瞼の裏に白象に乗った普賢菩薩の像が浮かんだ。不思議に思って眼を開いて見ると、矢張、白拍子が舞っている。眼を閉じると再び普賢の像が浮かぶ。そこで上人は随喜の涙を催して花漆を礼拝したが、彼女は忽ち白象に駕して西方の空へ飛び去ってしまった。後世室君の館の所を尾野町と呼んでいるのは、正しくは「尾の町」の意であって、その時上人が名残りを惜んで白象の尾を捕えたものだから。尾だけが切れて落ちた跡だというのである。
この花漆の後にも、平家の落人として流転の女の群に投じ、建永年中法然上人の教化を受けて尼になったという友君、その外宮木、大柄杓、小柄杓などゝいう名高い遊女があるけれども、それらの事蹟を委しく調べるまでもあるまい。かくて足利将軍の治世に下って、恰もこの話の始まるころ、尾野町の遊君の館には又もや古えの花漆に劣らない一人の美女がいたのであった。
その女は名をかげろうといったが…

「乱菊物語」

乱菊物語 (中公文庫)
谷崎 潤一郎
¥ 920 / 中央公論社
( 1995-06 )
在庫あり。

「乱菊物語」は、谷崎がもっとも脂ののりきった時期に書いた作品で、極上のエンターテイメントとなっています。
惜しむらくは、この作品、中途で終わっていること。
題名の「乱菊」…つまり「お菊さん」が出てくるところまでは、到達していないのが、玉に瑕。
しかし、それでも谷崎は大谷崎。
野放図なまでの想像力で、次々と繰り出される怪異・面妖の連発。
ページをどんどんめくらせます。

女護が島、ポニョが島


より大きな地図で 播磨魔所図絵(西播) を表示

徳川時代、九州からの参勤交代は瀬戸内を海路で来て、この室津で上陸し、峠を越えて、山陽道に出たらしい。
そんなわけで、かなりお金が落ちて、豊かであったようです。
西鶴は、「好色一代男」で、室津を遊女のはじまりの地と説いています。
およそ世之介が最後にたどりつかんとする「女護が島」もまた、空と海のあわいにあるイスの都であって、空想の室津が想起されているのかもしれません。
「好色五人女」の最初の譚は、播州姫路、お夏清十郎の物語。
ところが、この色男・清十郎は、室津の造り酒屋の伜という設定で、酒がもともと女の噛んで造るものだった故事をふまえれば、清十郎という優男、イスの神(悪魔)の血が流れているのかもしれない…そんな想像をふくらませます。

新版 好色五人女 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
文庫
¥ 860 / 角川学芸出版
( 2008-06-25 )
在庫あり。

好色一代男 (中公文庫)

¥ 1,000 / 中央公論新社
( 2008-02 )
在庫あり。

遊女花漆と性空上人のエピソードが史実とは思えぬものの、小さな室津には五つも六つもお寺がある。
ユングが、「サロメとヨハネが冥界では仲良く手をつないで夫婦道祖神のようだ」という夢を見たと、自伝に書いています。
花漆と上人の挿話もそんな感じ。
色恋沙汰を描いた紫式部は地獄に堕ちたのですが、冥府では小野篁(閻魔大王)と恋人であるかのように、思いなした人々が京都にはいたようです。
花漆の転生のような遊女「友君」は実在したようで、性空上人ではなく、法然によって、彼女は仏門へ入ります。
どこまでが本当にあったことで、どこまでが伝説なのか…そうしたことは、生活のただなかで信心の道を見出す女たちにとっては、どちらでもよかったのかもしれません。
というより、女たちがその物語の中を生きていた。

室津賀茂神社

「乱菊物語」を読んでいると、室津は京都のような大きな都のようにさえ思えるのですが、実際に訪れてみると、おどろくほど小さい湊町。
三十分も歩けば、街中をすっかりたどることができそうです。
京都の賀茂神社の社領だったため、室津にも賀茂神社がまつられ、大きなお社が栄華をしのばせます。

韓荷島見ゆ

海にならぶ三つの島影は、山部赤人も詠んだ韓荷島。
からにしま、とも読みますが、「からか」という音がたのしい。
風土記には、難破した韓国の船の荷が流れ着いたため、この名があるといいますが、海賊らが暗躍した時期もあったにちがいない。
潮が引くと、韓荷の沖島と中島は陸続きになるそうです。
海の底にあるその道をたどれば、あるいはやがて空と海のあいだ、竜宮城、女護が島、イスの都にたどりつく…そんなことを思ってみながら、町をめぐったのでした。
水没するポニョの町も、神話的には同じ「イス」系ですね。

崖の上のポニョ [DVD]
監督:宮崎駿
出演:
¥ 4,935 / ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント
( 2009-07-03 )
在庫あり。

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コメント

  1. 四季 Says:

    overQさん、こんばんは。
    なんてこと! ミケランジェリのまさにこのCD、先日来聴いてたところです。
    ああ、この音がイスの鐘の音なんだわ、なんて思いつつ。
    そういえばモネは、とても頻繁に水辺を描いている画家ですね。
    この絵も本当は国会議事堂とテムズ川のはずなのに
    イスの都だと言われれば、素直に納得してしまいそうです。
    (水・水・水に囚われてる私・笑)

    先日色んな本を教えていただいたので
    まずは折口信夫の「死者の書・身毒丸」を買ってきましたよ。
    近々読みますね。楽しみ~。

  2. ne_san Says:

    こんばんは。
    こちらのサイトが携帯に対応していただいて、大変喜んでおりますの。

    さて、谷崎の小説のなかで一番好きなのは『葦刈』。
    これにも遊女が絡みますが、なによりも川の中洲って場所がイイと思います。
    完結してるしw

    また、ポニョは未見なのですが、宗助って名前と崖の上ってタイトルから、私は
    夏目漱石『門』を想起してました。
    違うのかな?見てないからわかんないけど…。
    『門』は地味ですが、あの小説の中の夏の夜の描写には痺れます。
    正月の描写も好きです。

    ポニョは未見なのですが、宗助って名前と崖の上ってタイトルから、私は夏目漱
    石『門』を想起してました。
    違うのかな?見てないからわかんないけど…。
    『門』は地味ですが、あの小説の中の夏の夜の描写には痺れます。
    正月の描写も好きです。

    ポニョの町は、秋には渡り蟹を船からジカ買いできるというただ一点においてさ
    え、なかなか侮れない場所です。
    overQさんがチャリでジリジリと西に向かって来てくれること、私は大変期待し
    ておりますので!

    ↑という文章を深夜に携帯から打ち込んだら、はじかれました・・・
    めちゃショックだけど、めげずにオフィスから投稿。
    なんとかなりまへんやろか?

  3. overQ Says:

    ★四季さん。

    ミケランジェリのCD、私は自作したオリジナルのカバーを作ってて、その表紙がモネのこの絵。
    (ミケランジェリの顔が嫌だったので自作したんですw…演奏は素晴らしいのですが)
    「印象派」つながりでモネを選んだだけで、深い意味はなかったんです。
    そもそも「沈める寺」がイスの伝説に基づくのを知ったのも、ごく最近(笑)
    でも、この絵はイメージがぴったりすぎるくらい。

    「死者の書」は身毒丸とカップリングされてるんですね。
    折口は身毒丸や弱法師、小栗判官といった、謡曲や説教節にあるカタリ物に強く心囚われた時期があるようです。
    中世に街道で、おそらく体の不自由な人々が語り伝えたもので、おおもとは渡来系の人々の伝承と思われ、古墳の信仰と関わりがあるものかもしれません。
    仏教的に翻案されながら、語り部のわが身のことと照らし合わされつつ、神秘主義が錬成されていく感じ。
    崇高さとおぞましさが共存する坩堝から、「日本」が生じてくる…それが折口の主題だったと言えそうです。
    「路上でみすぼらしい姿をした神」というのは、能の翁の原型であり、ブードゥーでいう十字路の神ロア。
    もしかするとあらゆる歌舞音曲の神なのかもしれないのですが、いったいこれが何なのか…ずうっと不思議に思っていることです。

  4. overQ Says:

    ★ne_sanさん。

    携帯からコメントできない不具合、直しました(たぶん)。
    パソコンから見る際にも、速くなるように新しいプラグインを導入しました(これがまた、携帯のプラグインと一緒に使うと不具合があって、なかなか苦労しましたがw)

    ポニョの町は、広島なんですってね…鞆の浦。
    室津も、ポニョ町と非常に似た雰囲気でした。
    津波とか来たら、たしかに町全体が水没してしまうにちがいないです。
    ただ、峠の高台(崖)は別で、谷崎が取材で泊った旅館とか、ランドセルの工場とかあります。
    崖といえば「門」ですが、ポニョの宗助は「門」の主人公から採ったと言われています。
    ハヤオ氏の幼少の頃のようにも見える姿で描かれています。
    ポニョのほうは、ワルキューレの長女・ブリュンヒルデの名で呼ばれていました。
    いろいろ考えて作って(るふりもして)あって、大人のおたくの人も刺激するつくりです。

    水の女の持つ、聖なるものと魔性がシームレスに脈動してる感じが、かならずしもうまく描けてなくて、ポニョはちょっと惜しい作品。
    宮崎駿の描く「少女」は男を食らう魔女。
    初期の「カリオストロの城」で、カリオストロ伯爵がヒロインの少女を「暗殺者一族の俺と同じ血筋」と喝破するのは完全に正しいはずで、漫画版のナウシカは世界を救うのか滅ぼすのかわからない存在になっていました。
    ポニョもそうなんですが、なんかパワーが足りん。

    逆に、谷崎は、魔のほうに偏りすぎの傾向があって、聖なる光が涼やかに差し込むすき間が、ちょびっとあると、谷崎作品は傑作になり、それ以外はちょっと暑苦しいです(´ー`)

    山陽道、面白いですよ。
    たぶん歩くとすごく「先人」の足跡や息づかいが感じられるにちがいなく、休憩したいなと思ったところに遺跡あり、のどが渇いたと思ったところで弘法の井戸があったりします。
    アトラクションみたいに、歩いて行くと、次々に見世物が手を変え品を変え待ち受けてて、僧や姥や乞食者があれやこれやで路銀をせびっていたにちがいないです。
    まっすぐじゃなくて、けっこうくねくねしてて、「次に何が出てくるか」の愉しみがあります。
    でも、現在では、大きい道の交錯して、しょっちゅう旧道がわからなくなるので、あっちこっちさまよううち、迷子になるのが難点です。
    (京都とちがって、播磨はこのクネクネが難しいですw)

  5. ne_san Says:

    迅速な対応、感謝いたします。
    テストがてら携帯からコメントしてみますね★

    くねくね具合は問題ないのですが、旧道を断ち切る路線などが多く、リカバリーが難しい、とわが自転車部のメカニックにして美味しいパン・ハンターが申しておりました。

    ※ リアル・ポニョの画像を持っていますが、かなりがっかりなのでアップをためらい続けて数ヶ月(笑)
      CU

  6. overQ Says:

    ★ne_sanさん。

    携帯からの投稿、うまくいったみたいで、よかったです (Y)

    さて、鞆の浦に重大な関心を寄せつつある私です(笑)
    鞆の浦、祇園社の元という沼名前神社があるところじゃありませぬか。
    新市の疫隈社から沼隈を経て瀬戸内に出る…というコースが、牛頭天王が南海の女神との逢瀬に向かうのとうまく一致する感じ。

    室津と鞆の浦はなんだかすごく似ていて(江戸時代の参勤交代のせいと思うんですが)、万葉の旅人の歌、

    我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

    で、鞆の浦と「むろ」の関連があって心惹かれます。

    宮崎駿がこの地を舞台に、水の女神の母子物語を描いたのは、神話的にすごく正しい方向に思える。
    ポニョ第二部では、鞆の浦が、人間の欲望をすべて肯定する遊廓の町に変貌しているにちがいないです。
    宗助は、肉欲を否定して町を飛び出すのですが、結局、お夏と出会って、抑圧したものの回帰に直面するのです (W)

  7. 美頬 Says:

    こんばんは。崖の下のポニョと坂の上の雲が混交してしまうこのごろの暑さです・・?

    性空上人といえば和泉式部が和歌をおくったことでも知られていますが・・そういえば和泉のイズミも「イス」の系譜だったからなんだろうか、と思ってしまいました。和泉式部はそのスキャンダルから当時「うかれ女」といわれたらしいというのも、イスの女だったからなんでしょうね。地獄少女な紫式部と違い極楽浄土直行というのもありえます、きっと。

    「カリオストロの城」では最後、湖の底から古代遺跡が出現するところが大大大好きです。ルパンが忍び込んできたあと、クラリスにむかって伯爵が(もう男を引き入れたか。さすが血は争えんな)、というようなすごいセリフを言う場面がありますが、そこもハヤオ氏流の子供むけ映画らしからぬ不穏な姿勢がむしろ潔いかと笑

  8. overQ Says:

    ★美頬さん。

    和泉式部。
    実在した女性とは別に、彼女を神格化して広めていった人々が、中世なかばから近世はじめにいて、
    おそらく京都の誓願寺がその震源地。
    旅をすみかとする女たちで、西国街道など、主要な道の地蔵や井戸の端などに陣取っては、舞いや歌、人形を使って、イスの「水の女」物語をかたりながら、酒や薬、まじないを売る姥たちがいた。

    今の姫路城ができる前、姫山の南の宿(シュク)の町に隣接して遊女街がありました。
    ここの「姥」もその手の女たちであって、のちにお堀になる淵は、「姥が淵・稚児が淵」と呼ばれていたようです。
    今に伝わる「姥が石」や「お菊井戸」の伝説は、彼女たちの伝えていた物語の断片が残ったものと考えていいはずです。

    姥たちの物語は、まさに水の女の物語で、菊井の水の効用は、不老不死、再生でした。
    和泉式部の「泉」も当然、神話的に解釈されていて、おそらく「あめのうずめ」と同一視されていたはず(いずみ=うずめ)。
    それは、天神(あまてらす)を再生させる、歌舞音曲の女神でもありました (K)

    性空上人と和泉式部は、姥たちの伝説の中で強く結びついています…ユングが夢で見たという、サロメとヨハネのように。
    この世の喜びをすべてスルーして現世ではありえぬものを探求する聖者の道と、この世にあることの喜びを我が身をもって体現するものの交わり。
    闇と光の結婚。

    この神話的主題は、宮崎駿がカリオストロで掘り当てていたもので、ルパンに「救われた」クラリスは、本来の「魔女」になる道を閉ざされて、この世では聖女にでもなるしかないかもしれない。
    水に沈んでいたイスの都が浮上したとき、そこに住むべきなのは誰なんでしょう。
    ルパンは自分のポケットには大きすぎるといって逃げていった。
    しかし、銭形の話では、クラリスの心(カリオストロの魂)を盗んだのは、ルパンだという。
    とすれば、ルパン(=宮崎駿)は、もう一度、この水没した都の女王と直面しなければならないのかもしれません。
    「ポニョ」ではそれが少しだけ、描かれたように思われます。

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