太陽と月の起源
岩波文庫「シベリア民話集」所収の、「太陽と月」という話。
題名のとおり、太陽と月の起源について、かたるもの。
若者のからだを、妻と幽鬼ムイラクが取り合う。
引っ張りあった挙句、彼はまっぷたつに引き裂かれてしまう。
幽鬼は左半分をもって逃走、妻のもとには心臓のない右半分がのこされた。若者は夜になると一人前の男になったが、朝がくると、また半分に戻ってしまう。
心臓なしで生きていられるのは、夜だけなのだ。
かくして妻は、昼のあいだは自分が大地を照らし(これは天界の出来事だから)、
妻が眠る夜のあいだは、夫である若者が照らすことになった。
太陽と月は、こういうわけでできたのだ。
まっぷたつにされた若者。その半分のからだ。
この体には、目がひとつ、足が一本しかない。
どうやらその姿で、夜の天界そのものを象徴する。
ひとつだけある目は、月。
もしかすると本来は、心臓のある左半身が、太陽をひとつ目とする、昼の天神だったのかもしれない。
世界中に分布する片目片足の巨人の伝承。
…じつは天そのものを神と見立てたもの、という奇々怪々な説に、私はこだわっています。
ひとつしかない目玉は、太陽であり、大地を蹴る巨大な一本足(あるいは男根)は、雷であると。
ホルスも、キュクロプスも、ヴォータンも、ダイダラボッチも、片目片足の天神さんのヴァリエーション。
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太陽の黄金の林檎
「太陽と月」の類話を探すと、同じく岩波文庫「イタリア民話集」に、「まっぷたつの男の子」というのがあります。
この「イタリア民話集」の編者(=作者)は、イタロ・カルヴィーノ。
(カルヴィーノといえば、「まっぷたつの子爵」という怪作があり、「半分」の製作工程はまるでちがうけれど、この民話、まだまだ「成長期」にあるようです。)
さて、「まっぷたつの男の子」という民話。
ある女が身ごもるところから、話は始まる。
(父は出てこない、というのがポイント。キリストと同じ。)女は妊娠のせいか、猛烈にパセリ(薬草)が食いたくなって、魔女のパセリ園を食い散らす。
怒った魔女は、「生まれた子供の半分は、わしのものじゃからな」と予言。
やがて男の子が生まれ、七つになった年、魔女が現れて、「半分」を持っていく。
こうして、「半分」になってしまった男の子。男の子は成人して猟師になるが、ある時、浦島太郎が亀を逃すように、網にかかった大ウナギを逃してやる。
すると、ウナギはどんな願いでもかなえてあげましょうと言う。
さてある時、お姫様が窓から、まっぷたつ君の姿を見て、片目で片足で何もかも半分なのがおかしくて、大笑い。
笑われて怒った、まっぷたつ君は、ウナギに願をかけて、姫においらの子が出来ますように、と祈る。(ここからは、日本の炭焼五郎や賀茂社の縁起、ペンタメロンのペルウォントと同じ。こちらのほうが、カルヴィーノがうまく継ぎ接ぎして、「完全版」になっています。)
姫が、父親のわからない子を生んだので、王宮は、さあたいへん。
王様は魔女に助言をもとめ、父探しのための大宴会を開く。
本物の父が現れれば、子供は金のリンゴをその者に手渡すだろう、と。
まず国じゅうの貴族を招いてみるが、子供は見向きもしない。
つぎに国じゅうの貧者を集めると、子供はまっぷたつの男にリンゴを手渡した。
(賀茂社の伝承と、瓜二つ。)王様は結婚式を開くふりをして、花嫁と花婿を樽に閉じ込め、海に流す。(うつほ舟であり、妹兄島譚。イザナギ・イザナミもこうして日本にたどり着いた。)
姫は、まっぷたつの男に、ウナギの願かけをさせて、樽を浜につけ、食事を用意し、宮殿を作り、金と銀のリンゴのなる木を実らせ、まっぷたつの男を完全な男に変える。
宴会を開き、諸国の王を招く。
姫の父の王も現れ、ちょっとした罠をしかけて、仲直りさせ、めでたしめでたし…というお話。
それにしても、何度見ても、ほんとうに不思議な、日本とヨーロッパの民話・神話の一致。どうやって伝播したんだか。
日本に伝わる神話や、伝説・民話を継ぎ接ぎしても、これと同じ物語を作ることができるのです。
賀茂神社の縁起では、宴会で子供が父を見つけて手渡すのは、さかずきだけど、こちらは金のリンゴ。
賀茂縁起は、このあと、子供はさかずきと共に屋根を突き破って、天に帰還する。それで、この子の父は、天神雷神だとわかる。
「まっぷたつ」のほうでは、金のリンゴ。これは、よく知られた太陽の象徴。
やっぱり、半分になった「片目片足」の男は、天神の気配をただよわせています。
イザナギ命が黄泉から戻り、禊をしたとき、左目を洗って天照大神が、右目を洗って月読命が成り出ることも、思い合わせておこうっと。
エジプトでは、ホルスの傷ついた目から、夜(月)が生まれます。ホルスの両親、オシリスとイシスは、兄と妹。イザナギ・イザナミのように。
似たような要素から成り立つ、「天神」の神話。
並びがごちゃごちゃに変換されていますが、同じプロトタイプから派生するヴァリエーション…にみえる。
エジプトに、きわめて長期間、だいたい同じ信仰をもつ文明が栄え続け、これが震源地になり、ユーラシア大陸の東へ西へ端々に、似た話が残ったのかなあ。(柳田の方言周囲論を、世界大に応用。実証不能。)
片翼の天使
最後にもうひとつ、並べておきたいのは、「比翼」。
比翼というのは、中国の伝説上の鳥。オスとメスは、それぞれ「半分のからだ」しかないので、雌雄がひとつになって、はじめて一羽の鳥になって空を舞うことができる。*1
「連理の枝」とともに、夫婦の仲睦まじいことを表わします。一心同体というわけです。まっぷたつのアシュラ男爵。
楊貴妃と玄宗皇帝を歌った、白楽天「長恨歌」に出てくるもの。
在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝
天に在っては願わくば比翼の鳥となり、
地に在っては願わくば連理の枝とならん。
お盆で姫路に帰省したとき、「お夏清十郎比翼塚」をお参りしました。
「お夏清十郎」は、西鶴(五人女の第1話)や近松(おなつ清十郎五十年忌歌念仏)が描いた悲恋物語。
造り酒屋のボンボンで美少年の清十郎は、わけあって米問屋但馬屋に奉公に出る。
そこの娘・お夏と恋仲になるものの、許されぬ恋。
駆け落ちして、捕えられ、盗みの濡れ衣を着せられて、清十郎は処刑される。
悲しみのあまり発狂したお夏は、清十郎の姿をもとめて、町をさまよい歩き、子供らにまぎれて、狂乱の音頭を舞う。「向ひ通るは清十郎ではないか、笠がよく似た菅笠が、やはんはは、のけらのけら笑ひ、うるわしき姿…」
狂女もの。
班女や道成寺など、能や歌舞伎の伝統的な主題で、もともとは神話にちがいない。
ウブメや橋姫、たぶんお岩さんなども同じ流れ。道の途上に狂乱の姿で出没するのが、クライマックス。
旅する神さま、十字路の歌舞音曲の神のなれの果て。
柳田国男が青年のころ出会った、山中でお産の助けを乞う山の神と同じもの。
虚実がない混ぜになる仕方であらわれるのが特徴。神さまはいつも、そんな決定不能の形でしか、姿をあらわさ(=かくさ)ない。
「お夏清十郎」も、どこまでが作り話で、どこまでが「実録」なのか。
塚までできて、人々はお参りするわけです。
雌雄(昼夜)がそろって一羽となり、はじめて天に羽ばたくことのできる、両性具有の不思議の鳥。
カバラでは、「原初のアダム」はイブ(ソフィア)と一体の両性具有。この宇宙(=天)と同じ大きさをしていた、とされる。
徒然草の中にも、鬼となった狂女が京の町を歩くという、ただその噂だけを記した段がある(五十段)。
まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)と云ふ人もなし。
それは「あるともいえず、ないともいえない」という形で、出現(=非出現)する、「視霊者の夢」。
兼好法師は書きつけずにおれなかったと同時に、存在と非存在のあわいより向こうについては、語らずにおいた。
…しかし、お夏清十郎に原初のアダムを視るのは、宇宙ヒロシといえど、私だけじゃろうて。
¶ Footnotes:
- 「比翼」は、ヒヨドリやヒヨコと、音が結ぶ。ニワトリは太陽を呼ぶ朝告鳥。その子は、太陽の黄金色のヒヨコ。卵は、太陽そのもの。妄想だな。東アジアで、太陽といちばん縁が深い鳥は、カラスです。 [ ↵ ]




