
親しまれる元三大師キャラ
元三大師。
比叡山中興の祖、慈恵大師・良源。
元旦三日になくなったことから、親しみをこめて「元三大師」と呼ばれます。
私はなぜか大師が好きで、ファンといっていいかもしれません。
おみくじの始祖とか、たくわんや酢むつかりといったレシピの発案者とされ、庶民的な伝承がたくさんある、お大師さん。
鬼大師・豆大師の異様でカワユスな護符は、厄除として関東でもよく知られています。
美少年だったという伝説もあって、京の町に赴く際には、女性の心をまどわさぬよう、鬼の面をかぶっていたとか(そのほうがよっぽど目立つよ)。
仏教というより、民間伝承の「形代(キャラ、と読みます)」になって伝わる良源。
一方、実在した僧、比叡山延暦寺第十八代の座主としての彼は、論争の名手でした。
「すべてのものに仏性はあるか」
良源が頭角をあらわすのは、仏教の論争大会でのこと。
10世紀、良源の時代、比叡山よりも、南都(奈良仏教)のほうが優勢。
藤原氏の氏寺・興福寺が勢いづいていました。
南都からは清廉な碩学の老僧・仲算、比叡山からは若き無名の良源がエントリー。
その日のお題目は、「すべてのものに仏性はあるか」。
悪人にも仏性はあるのでしょうか。それとも悪人には仏性はなく、救いがたいものなのでしょうか。
また、動物や、木や草、石ころにも仏性はあるのだろうか。糞かきべらにも仏性はあるのか。
太平記に、この論争の様子が描かれています。*1
南都の法相宗・華厳宗だと、五性といって、菩薩性・縁覚性・声聞性・不定性・無種性という五つの本性を区別。
成仏できるのは、はじめの二つだけ。太平記の表現だと、「五性各別の理」。
これに対して、良源は、
「有性も無性も斉しく成仏」(円覚経)といって、草木成仏の義をとなえます。*2
- 新編日本古典文学全集 (56) 太平記 (3)
- 翻訳: 長谷川 端
- 出版: 小学館
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民衆の中へ
一切のものに仏性がある。
これが比叡山のマニフェストとなる。
この単純な理想を、人生と社会のあらゆる文脈で死守することで、日本独特の仏教が展開していくといってもいいはず。
一方では、天台が最頂となって、象牙の塔が可能となるけれど、また一方では、凡人や悪人にも仏性はある…とすれば、ヴ・ナロード(人民の中へ)、仏教は貴族だけのものじゃなくなる。
救われて当然な善人だけのものではない、救いの教えとしての、仏教。
「山法師」どもが、徐々に現れてくる時期。
京の町では、空也や革聖がもう活躍していた。
「堂衆、法師ばら」などと呼ばれる、弁慶みたいな、白頭巾の異形の出で立ちをした、非正規の僧たち。
最澄の定めた「山家学生式」では、比叡山の僧侶には「上方・中方・下方」の別があるのですが、「一切のものに仏性」マニフェストは、ここでも生きてくる。
中下方あるいはそれ以下の僧たちは徐々に増え、組織され、比叡から琵琶湖周辺、中部地方、関東までネットワークを広げ、力を蓄えていく。
一切仏性と基本的人権
元三大師の伝説が仏教というより、古代の民間信仰の気配をただよわせているのは、南都を打ち負かした良源が誰にとってのヒーローだったかを物語っています。
「一切仏性」という考え方は、彼らの「民主主義」のスローガンであって、実際、「基本的人権」というコンセプトとそっくり。
すべてにひとしく基本的人権があるのか。悪人にもあるのか。動物や草や木、地球環境にもあるのか。
殺人事件のニュースを見た後で、その犯人の固有名詞と人権を結ぶのが難しいと感じるのは、たまさかあること。
しかし、われわれの法律はたしかに、そこにも基本的人権が存在すると、円覚経のように記している。
この辛抱強い記述を捨てることなく保持することと、生きることの意味との関係。*3
元三大師が座主となって、延暦寺は「経営基盤」が固まり、いろんなルールも明文化されていきます。
牛頭天王を祀る祇園の感神院(八坂神社)が、天台の別院となるのも、元三大師の時。
コネクションをたどって比叡山にくれば、何とか最低限は食べていけるような状態が数百年にわたって、浮き沈みしつつも続いていく。
この下部構造があって、「一切に仏性」という上部構造が、深く実践的な意味を持つことに。
横川の元三大師のお気に入りの弟子は、「往生要集」の恵心僧都・源信。*4
そして、「一切が仏」のスローガンの当然の帰結として、やがて法然・親鸞が現実の社会の中に登場してきます。
善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや。
仏はつねにいませども
元三大師の宗論。
そのハイライトは、
地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道
という円覚経の言葉の解釈をめぐるもの。
良源が、この条こそ、仏典に示される一切仏性の証拠としたのに対して、仲算はこれを仮定法で訓読。
「もし地獄も天国もみな浄土だったなら、有情も無情もひとしく仏道になせるものを」と主張します。
絶対の定理として読む良源と、空想悲願の理想郷と読む仲算。
われわれはやがて比叡山から降りてくるさまざまな僧の苦闘を知っているので、このふたつの対立は、苦く深淵に響きます。
言葉の戦いでしかなかったものが、肉体をもって現実の中に生きていくことになる。
元三大師、光を放つ
この条りのあと、われらが元三大師・良源が、「即身成仏」するさまが描かれます。
仏性がどんなものにもあるというなら、お前自身の中にもあるはずだ、と難題を突きつけられた良源。
黙りこくったまま、その姿から光が放たれ始める。
赫々たる大光明、十方に遍照す。
されば、南庭の冬木、にわかに花開いて、
あたかも春二三月の東風に繽紛に異ならず。
この論争におもむく際、比叡山から降りてきた元三大師は、鴨川の氾濫に道をさえぎられます。
すると、水中から牛が現れて、大師の車を引いた、と伝えられる。
これが太平記の元三大師のエピソードの発端。*5
そして、エピローグでは、論争を終えた大師が、門外に出てみると、牛が涎をたらしている。
よく見ると、たれた雫は文字になっていて、こんな歌が詠まれていた。
草も木も仏になると聞く時は 情けある身のたのもしき哉
水中から姿をあらわす牛の伝説は、京のあちこちで伝わる怪異。
今でもまだ見る人があるようで、これは京を守護する牛頭の神と思われます。
一斎成仏
元三大師が誰のヒーローだったか。
「基本的人権」は近代のすべての基礎で、誰もが斉しく生存のための富の分配を受けることができる仕組みの上に成り立つ。
浄土教の考え(というより行動)と、基本的人権とが、とてもよく似ていることに、深く惹きつけられます(吉本隆明のような人が親鸞に思いを寄せるのも、よくわかる気がする)。
「斉しく成仏」の考えは無謀な理想論…ちょうど、「誰もが斉しく生存のための富の分配を受ける」経済がそう簡単には実現できないのと同等に。*6
この考えは、「仲間」のうちから出てくると邪悪にも機能しますが、「仲間外れ」にされるものから現れたとき、思わぬ光を放つことがある。
元三大師がおみくじの始祖とされたり、
護符が貨幣の起源であり、鬼大師・豆大師のふたつのフェーズを持つこと、
疫病神を倒すはずなのにそれと同じ姿をしていること
…これらは不思議で神秘的なシンボライズとなっています。
- 街道をゆく 16 叡山の諸道 (朝日文庫)
- 著者: 司馬 遼太郎
- 出版: 朝日新聞出版
- 価格: ¥ 609(古: ¥ 264)
- 発売日: 2008-11-07
- ASIN: 4022644621
【文献】
実在した良源については、司馬遼太郎の「街道をゆく16 叡山の道」が読みやすいです。坂本の蕎麦屋の話が面白いです。
「大日本史料第一編22」が元三大師づくしで、いろんな古文書から良源の記述が集められています。
漢文は「慈慧大師伝」続群書類聚213巻。読もうとして途中で眠りに落ちて、四季講堂の夢を見ました。
¶ Footnotes:
- 「太平記」巻二十四。
この条は、太平記の語る「現在」から、およそ四百年前の出来事を回想した部分。
少しややこしい構成ですが、当時、夢想国師の禅宗が新興勢力として台頭し、比叡山から批難を浴びていました。強訴を仕掛ける比叡山の僧たち。
この処分をどうするか検討する部分で、禅と天台で論争をさせればよいという案が登場。
かつて四百年ほど前の村上天皇の御世の見事な論争として、仲算と良源の宗論が思い起こされています。 [ ↵ ] - 法華経・涅槃経にもとづく比叡山の教え。 [ ↵ ]
- このふたつに何らかの関係があることは、あるいはすでに論理的に証明されているのかもしれません。しかし、むしろ、われわれは、この関係を体感させられている。「あんな糞みたいなやつ、死んでしまっていい」と仲間内で決定することと、「なんか人生つまんない」と感じることは、たぶんつながっている。どうしようもない悪人に、仏性がないことは明らかなのに、それを明らかだと言ってしまった瞬間から、われわれは悪人と同じ側に導かれていく。 [ ↵ ]
- 「源信」の名は、良源を信奉するって意味かもしれませんね。 [ ↵ ]
- じつは仲算のほうも同様に、木津川にさえぎられ、モーゼのように川が真っ二つに割れるシーンが登場します。
この論争は引き分けとされ、その理由は、仲算が千手、良源が如意輪の化身であって、じつは同体異名の仏の垂現だから…とされます。 [ ↵ ] - 「誰もが斉しく富の分配」が困難になるにつれ、「斉しく仏性」を見出す辛抱強い努力も不可能になっていく、「生きる意味」も…というのが、今私たちが経験していること。 [ ↵ ]


