その神をみやこに
園神韓神(そのかみ、からかみ)。
桓武帝が平安遷都のとき。
園神韓神という神さまがすでに祀られていて、
建都のため、これを取り除けようとしたところ、神託があり、
「長くこの地にあり、帝都を護らん」と。
こうして、韓神園神は、
大内裏に当初から祀られた、唯一の社となった。
延喜式によれば、
「宮内省坐神三坐 園神一坐 韓神社二坐。
春二月冬十一月丑日 祭之参議一人就祭所行事」
園神が一座で、韓神が二座。
合計、三座が宮内省にまつられた。
園神=婆梨釆女
韓神=牛頭天王と王子
なんだと思うのです。
この名前で呼ばれていたかどうかは、わからないけれど、
同じ型の信仰が、ここにあった、と。*1
ちかきだに 聞かぬみそぎを なにかその
から神までは 遠く祈らむー少将内侍(「後拾遺和歌集」)
少将内侍は、少将(=牛頭天王とその王子)につかえる巫女。「うねめ」としての生き神、ハリ采女。
同じく、後拾遺和歌集の歌人である「少将井の尼」も、そう。
渡来人の神さま
平安京以前の神さま。
養老年間(717-24)に藤原氏の創建とする文献があるものの(「古事談」)、
むしろ山城国(京都)を開発した渡来人たち、秦グループの神であったはず。
韓神という名は、渡来系の神をあらわすのだから。
藤原氏はそれを祀る勢力を牛耳るように見える。
大内裏は、もとは秦川勝の邸があった場所だとも言われており(「拾芥抄」)、
あとで述べる、鵺神社との関係からも、
川勝(を代表とする渡来系の人々)が山城の地の中心部に、
お祀りしていた神さま。
京ができて、大内裏にまします神は天皇。
それでもこの古い韓神園神には、残される。
山城国の先住者にとってはあまりに重要な神で、
平安京の建設にあたっても、無視できない力だった。
天皇を天王・天神・天使として、受け入れるけれど、
この古い社だけは残しておいてほしい。
その要求は呑まねばならないくらいの、
平安遷都における帝と民衆の力関係を憶測する。*2
その神は、蘇の神
園神は、延喜式では「園ノ神」と送り仮名。
これは、「ソノの神」ではなくて、
「ソの神」と読むんじゃないでしょうか。
つまり、「蘇の神」。蘇民将来の神さま。
韓神は、「韓神ノ社」と表記。
この韓神は古事記にも登場します。
大年神を父、イヌヒメを母として、生まれる子供。
その大年(おおとし)神、神活須毘(かむいくすび)神の女、伊怒比賣(いぬひめ)を娶(めと)して生める子は、
大國御魂(おおくにみたま)神、次に韓神。次に曾富理(そほり)神。次に白日(しらひ)神。次に聖(ひじり)神。−「古事記」
大國御魂神に続いて、二番手に登場する韓神。
その次に、「曾富理(ソホリ)神」の名があり、
本居宣長は、これが園神だという説。
ソホリというと、日本書紀でスサノヲ尊が高天原から追放され、
新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に天下る。
このソシモリとソホリが関係すると言われます。
釈日本紀で、
「ソシモリとは、今の蘇之保留(ソシホル)か」
という解釈が出てくる。
ソシホルとは、現在でいえばソウル、
つまり王都、金のやどる村落、市街。
新羅も、おそらく同語源(岩波文庫「日本書紀」の注釈)。
川村湊さんは、さらに面白いことを見つけてて、
「蘇の村」というのは、いわゆるアジールで、
その領域に入れば、罪人もとらわれることなく、
日常権力の埒外の聖域となる場所だと。
新井白石が「蘇塗(ソト)」とソシモリの関連を指摘、
そして「蘇塗(ソト)」はアジールであり、
「魏志韓人伝」にもその意味で出てくる。
諸国各別邑有り。之を名づけ蘇塗と為す。大木を立て、鈴鼓を懸け、鬼神に事(つか)ふ。
諸の亡逃其の中に至るをば、皆之を還さず。其の立つるの蘇塗之義、浮屠に似たること有り。−「魏志」韓人伝
追放され、旅の神となった素盞嗚尊(=牛頭天王)は、
その地に宿りを得る。
蘇民将来、蘇民将来。
韓神社の二座は、オオナムチ・スクナヒコナの、
国土開発、巨人・小人チームなんだと文献にはある。
これは、すでに、
「天王=オオナムチ、王子=スクナヒコナ」
だとわかりやすいのになと考えていたので、
たいへん都合がいい。
園神は、オオモノヌシとされています。これは難しい(・∀・)
鵺、うつほで流されるもの
韓神園神が祀られていたのは、
現在のNHK京都放送局のビルのあたり。
明治時代は監獄だったとか。
そして、その南隣に、鵺神社の小さな祠がある。
鵺とは、平安後期のいずれの帝の御時、夜な夜な宮中に現れた怪鳥。
源頼政が、頼光伝授の弓で射ち落とす。
その血を洗った池と、鵺神社が、NHKビルの南に整備されています。
鵺は、その後、うつほ舟で淀川に流される。
流れ着いた場所で、荒神となって祟ったとされる。
この「うつほ舟で流され、流れ着いた先で荒神になる」というのが、
秦川勝の伝承と同じ。
川勝もうつほ舟で流され、流れ着いた赤穂の坂越で、荒神となった。
そして、祀られて、能の祖神となります。
そもそも早良親王が、淡路に流される途上で餓死し、
怨霊と化して、平安遷都の原因となったのですが。
早良親王を支持していた勢力のことを思うのです。
「鵺=川勝」を演出し、平安京の底に、
秦の切り開いた地があり、その神の祟りのあることを
隠然とほのめかし、しかも「鬼=鬼退治」な位置につこうとする力。
能の岸辺に、それは流れ着いていく。*3
「鵺」は、世阿弥の作中でも出色の能。
物語は、旅の僧が一夜の宿を乞うところから、始まる。
(ここにも蘇民将来型が!)
蘆屋の里の地元の者に頼むと、
掟があってそれはできないと断られる。
「その代わり、あそこにあるお堂に泊まるがよいでしょう。
ただ夜な夜な妖怪が出没するかもしれません」
その妖怪が、討ち取られた鵺の亡霊。
鵺はここに至るまでの物語を語り、
僧の読経で、和泉式部を本歌取りしつつ、海に没する。
頼政は名を上げて、われは名を流す空舟に、
押し入れられて淀川の、よどみつ流れつ行末の、
鵜殿も同じ蘆の屋の、浦曲の浮洲に流れ留って、
朽ちながら空舟の、月日も見えず暗きより、
暗き道にぞ入りける、遥かに照らせ山の端の、
遥かに照らせ山の端の月とともに、海月の入りにけり
海月とともに入りけりー謡曲「鵺」(世阿弥・作)
鵺の池には、井形が組まれ、水がこんこんと沸いていました。
石は古いものと見え、いつから置かれたものか。
鵺神社の祭神は、鵺大明神,玉姫大明神, 朝日大明神。
天王、はり采女、王子の聖家族。
それからの園神韓神
園神韓神は、文徳帝の齋衡二年(856)、
「名神」というもっとも霊験の
強力な神社の列に入れられたのに(「文徳實録」)、
現在は行方不明といってもいい状態。
のちに、韓神園神の三座は、
醒ヶ井高辻下ルに、ひそやかに移されたらしい。
観音寺に三宝荒神として祀られるものの、
韓神園神であったことは、ほとんど誰も知らないようです。
誰がいつ移したのかも、はっきりしない。
観音寺の人も、ここが園韓神社であったことは
知らないそうです。
このあたりには、道元禅師示寂の地があり、
また三善清行が退散させたお化け屋敷のあった場所。
今昔物語集・巻27「三善清行宰相、家渡語」。
あれはホラーでもほら話でもなく、何か事実をほのめかしたい。
今は植柳小学校になっています。
植柳小のよい子のみなさん、そこはお化け屋敷跡です。
清行が追い払ったお化け軍団は、
神泉苑の南のあたりに新たな住居をゆるされる。
醒ヶ井→神泉苑。
この動きが、韓神園神とちょうど逆であることが、
大いに気になるところ。
どのような勢力が、それを行っているのか。
「お化け」とは何者なのか。
三善氏は百済からの渡来系。
三善清行(善相公)こそ、京の表と裏をつなぐ、後ろ戸。
清行の息子は、修験の超能力者・浄蔵貴所で、
一条戻り橋で父を蘇らせる人。
そういうあたりでつながりあっている。
道元の勢力もそうなんだと思う。建仁寺は五条清水。
韓神園神を祀っていた人々の末裔は、
やがて祇園さんや天神さんの担い手となって、
この神さまたちを別な形で復活させたように思えます。
次回は、平安京以前の神泉苑界隈を妄想してみます。
たぶん「粟々(あわわ)」と呼ばれていた地。
岩神が祀られ、それはハリ采女をあらわすもの。
…さらに憶測度アップか(* ^ー゚)ノ
¶ Footnotes:
- 牛頭とは呼ばれてなかったかもしれない。
この名前の文献登場は、わりと新しいから。
牛には関係していただろう。
天王とか、天神・天使とは、
呼ばれていた可能性がある。
すると、天皇とダブってしまうので、具合が悪い。
そこで、韓神というよそよそしい一般名で呼ばれていると。 [ ↵ ] - 7世紀には聖徳太子のバックボーンであり、
8世紀においてもまだまだ強い。
播磨や近江とも結んだ広域ネットワークでもある。 [ ↵ ] - 祇園祭や道真天神信仰も、この隠然たる力の、
別な形の発動であるかもしれない。
怨霊というものが、この系譜そのものであり、
御霊神社に祀られるのも八柱、
韓神ソホリ神を含む、年神たちの系譜も、
八の倍数で子孫を増していく。 [ ↵ ]
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- 岩神、大井子、あははの辻。 | AZ::Blog - 2008/09/05 Friday 18:56:47




