AZ::Blog

AZ::blog Home >> たら本45 「ご老体本。」
17
Sep
2008

たら本45 「ご老体本。」

たら本45バナー私にはどうも、「老大家」の作品を
ありがたがる性癖があるようなのです。
(と、悩み相談風に始めてみる。)

今はそれほどでもないけれど、
十代二十代のころは、特にそうだった。
「最後の作品」とか、「未完に終わった遺稿」とか、
「作家が最後に到達した境地」とか。
そういうあざとい惹句が帯に踊ってたりすると、
ついつい手を出してみたくなる。

「老賢者」というファンタジーによく出てくるイメージ。
あれをどこかで信じてるんだと思う。
老いた人にだけ可能な「知恵」が存在していると。

自分が年をとるにつれ、
また自分の知ってた人が年寄りになっていくのを見るうち、
そうした「幻想」はだんだん幻滅に変わっていくわけですが(;・∀・)

…てなわけで、たら本45です。

今回は、「-scope」の時鳥さんが主催者さま。
お題は、

「ご老体本。」

本に出てくる魅力的なご老体、また、ご老体の書いた本、ご老体のための本、これからご老体になる人のための本、などなど、老人や老犬、老猫、老木、ほか、年老いたものに関する本をご紹介ください。

老いは肉体だけでなく、脳にも、心にもおよぶ。
老いという現象を静かに見つめている自分がいるだけでなく、
その「自分」自体が変調していく。
生にとって他者であるはずのもの…死が、
自己として、「生きられ」始める。

そう、難しげな言い回しをしなくても、
ボケは老いに花咲く季語。
生を成り立たせていたさまざまな堤防が、
ゆるやかに破れ始める。

愛情69

女たちへのエレジー (講談社文芸文庫)


金子 光晴
¥ 1,103 / 講談社
( 1998-08 )
通常24時間以内に発送

ボケといえば、ニンゲン、まず色惚けでしょう。。
谷崎潤一郎「老人瘋癲日記」や
川端康成「眠れる美女」は、
不在の女性をめぐる老人の劣情爆発ですが、
金子光晴の詩集「愛情69」となると、
女は実在してて、すこし感じがちがいます。

 人が恋しあふといふことは、
あひての人のむさいのを、
むさいとおもはなくなることだ。

… …

 じぶんのむささがわからぬ程に
あひてのむささがわからねばこそ、
69(ソアサンヌフ)は、素馨(ジャスミン)の甘さがにほふ。

と、詩人の七十にして勃つ思いをうたう。
まあ、金子光晴は若いときから色呆けで、
何も変わってないといえば、そうかもしれないですがw

でも、この人はやっぱり、
谷崎・川端のような戦前にスターになれた作家とちがう。
処女作の書評が載るはずだった雑誌の出版社が、
関東大震災でポシャってしまい、
華々しいデビューのはずが、どんどん暗転、
放浪していった詩人の人生は、
老いを迎える頃、ようやく再評価される。

この詩は、性が露骨かつ素朴に歌われているため、
逆に精神分析とは逆さまに読めるのも興味。
つまり、性が、別な何かの比喩のように響くまたたき。

「むさいもの」は、じつは、
病や死や苦や狂や魔であるのかも。
それを退けることが生であったはずなのに、
気づかずいただけで、
生もまた同じ「むさい」を立てていたのではなかったか。
自分であろうとすることでなく、
自分でないものであろうとすること。あい、あわい。恋。

暗い流れ

暗い流れ (講談社文芸文庫)


和田 芳恵
¥ 1,365 / 講談社
( 2000-04 )

老人と性というと、ふと、
和田芳恵という作家がいたことを思い出します。
この本、絶版のようだけど、取り上げてみたいんです。

けっして大作家というわけではない。
しあわせにも全集があり、全五巻。
樋口一葉の佳い研究家でもありました。

1977年に、71歳で没。
芳恵じいさんは、死の前年、
「暗い流れ」という、自伝的な作品を著す。
「ヰタセクスアリス風の」という、
編集者の要請を受けたものだったそうです。

最晩年の和田芳恵は、
ハレー彗星と大逆事件の年、数えで五歳の思い出から始め、
最初の子供が生まれるまでの、
性にまつわる記憶を淡々とつづっていきます。

 私の眼をのぞきこんでから、母の眼はハレー彗星にそそがれた。私は母の眼に連れられてハレー彗星を見たが、これは、いやなら、見なくともいいときのいつもの母の癖であった。
「あら、あら、大へん」
 と言いながら、母は両脚をひらき、少し前屈みになって、きもののうしろをつまみあげた。母の脚を伝わって、橋板に修平(弟)の小便はしみひろがった。
 私も身におぼえがあった。眼がさめて、途中で気づくのだが、わざと眠ったふりをして、母の背中へ小便をした。じっくりと丸裸の私も濡れてきて、母の背中から両足を伝わって小便が逃げてゆくらしかった。
 母の背中に触れたままの私の筒先から尿がほとばしるのは、いい気持ちであった。

自分を覗き込んだ母のまなざし。
ハレー彗星。
いやなら見なくていいもの。
…今はもう存在しない、しかしその瞬間にはたしかに存在した、時ともの。あの人。
弟が母の背でおもらしをする。
そして、自分がさらに幼かった頃、
それと同じ行為に及んだことを思い出す。
五歳の時、思い出したことを、老人の今また、思い出している。
股間のぬくもり、ぬめりとともに。

複雑な展開と味わいをもつ数行。
これが最初の性の思い出なのです。
きっと、書きながら、この言葉つきで、
「その瞬間」は蘇っている。
こういう曲折に富んだ文章、
ネットでブラウジングする今、書いても、
なかなか味わってもらえそうにないですが。
やっぱり、絶版になるなあ。
…埋もれた名作です。

孤独な散歩者の夢想

孤独な散歩者の夢想 (新潮文庫)


ルソー
¥ 420 / 新潮社
( 2000 )
通常24時間以内に発送

ルソー「孤独な散歩者の夢想」は、
この大論争家が最晩年に書いた、
不思議な魅力を持つ文章。

かつての友人たちから、迫害を受けている、
という重度の被害妄想と、
その厚い雲に時おり切れ間ができて、
何か淡い光のようなものが差し込む瞬間
…素朴に仏教の真髄に触れるもの…
が交互にあらわれる。

前代未聞の「告白」の補遺のようなもの。
近代社会の思想的ないしずえでもあるルソーですが、
その基本的なトーンは、「くるい」。
じつにいびつな親石の上に近代は立っている。
自分の尻尾に戦いを挑み、
噛みついて苦しんでいるウロボロスのような人。

「告白」では自己の過去の性犯罪までも、
露悪的なほど(それ自体が性犯罪であるような形で)
告白した。
そのあと、なおつぶやいた言葉が、
「孤独な散歩者」。

すでに自己を語りつくしたのち。
その「つづき」が何か自分ではないものと
陸続きになっているかもしれない
…というルソー晩年の、
メビウス環のような奇妙な感触。
湖に浮かぶ孤島で、植物だけを観察していたい。
ルソーがそこで感じているのは。

明るい部屋

明るい部屋―写真についての覚書


ロラン バルト
¥ 2,940 / みすず書房
( 1997-06 )
通常24時間以内に発送

老人と子供の親和性。
子供は生のほとり、老人は死のほとり。
生まれてきた時の記憶がないように、
死もまた我々が「知っている」ようには知られないもの。
近傍は、それ自体とは違う。哲学の難問。

以前、ホーキングの本で、
宇宙の始まりは、まだ時間もできておらず、
始まりという「点」はない。
はっきりした先端をもたないで、ぼんやりとたるんでいる
というようなことを読みました。

生きてるけれど、死の感触を、
何となくやどしてくる…ということは、
老人にはあるのかもしれない。
自分なのに自分でないものであったり、
生き物でないものの生き方を感じた(=感じなかった)り。

ロラン・バルトの遺作「明るい部屋」。
若い頃、大きな理論的達成をした人の、老い。

写真論…ということに、いちおうなっています。
この薄い本を写真論として読みはじめ、
ゆるやかに立ち上がる議論に付き合う。
わかったような、わからぬような、
あーでもない、こーでもないがいくつか繰り返し、
半分まで来たところで、愕然とします。
「前言取り消し」。
今までいろいろ考えてきたことは、
みんなまちがいでした
…と宣言されてしまう。
第一部・完。

なんだったんだ、ここまでの文章は。
そんな無駄な文章、なぜ読ませるんだ(笑)
しかし、最晩年の小林秀雄が、
「論理の進行を追うより、文章の曲折を味わうこと」(本居宣長補記)
に言い及んでいたことを思い出す。

そして、第二部の開始。
それは、お母さんの死後、
彼女が写った写真の発見した体験から。
くどいくらいに、第二部は、
この写真の引力圏にとどまりつづける。
いちおう、結論めいたところに行き着くものの、
それは写真一般の論ではなくて、
「この一枚の写真」の話。

誤謬と偏見を排し、普遍的な正しい思考へと導く
…というような方法とは、正反対。
でも、最後まで読むと、
この千鳥足の所作のひとつひとつ、
言いよどみ、行きつ戻りつする言葉つきが、
母へと、すべて結んでいることに気づく。

水没している船のような、
奇妙に矛盾した書物。
たぶん、老いの知恵というのは、
知であるよりも、「知でない」ものに近いようです。

「明るい部屋」という題名は、
最初の写真機カメラ・オブスクラが、
「暗い部屋」という意味なのを、反転させたもの。
死(不在の一点)から眺めれば、世界は裏返しにしたカメラなのかもしれない。

ある日、私の講義が終わると、軽蔑をこめて私にこう言った者がいた。《「死」について平板な話をなさっていますね》、と。まるで「死」の恐ろしさはまさしくその平板さにあるのではない、と言わんばかりに! 「死」の恐ろしさはつぎの点にあるのだ。すなわち、もっとも愛する人の死について、何も言えないということ、その人の写真について何も言えないということ、写真を見ても決してそれを掘り下げたり、変換したりすることができないということ。

この本を読んで、ひとつ知ったこと。
仏教で現実を指す言葉、「如実」(tathata)。
あるがまま、かくのごとし。
「tat」は、「それ」を意味し、英語のthatとつながってる。
幼児が何かを指さして、
「ター、ダー、ター」と片言を言う、
その身振りに通じる、と。
赤ん坊は老人の姿で生まれてくる。

関連する記事

トラックバック

  1. Ciel Bleu - 2008/09/18 Thursday 06:57:15
  2. GREENFIELDS - 2008/09/18 Thursday 12:21:24
  3. 新くるくる日記 - 2008/09/18 Thursday 13:54:54
  4. -scope - 2008/09/19 Friday 12:25:00

コメント

  1. kyokyom Says:

    overQさん、こんにちは^^

    挙げてらっしゃるどの本も読みたいと思っていたののばかりです。金子光晴の詩は凄いですね。ここまで露骨な欲情をこんな見事な詩にできるのかと思うと、詩人の才能と詩の世界の奥深さに驚嘆させられます。

    >論理の進行を追うより、文章の曲折を味わうこと
    小林秀雄のこの言葉と関係があるようにも思えるのですが、最近、僕は文体について少し注意を払うようになりました。しかしこれは一体なんなのかがうまく言葉になりません。それ自体が言葉として表されているのに
    なぜだろう。多少ネットで調べてみたのですが、どうも周辺をぐるぐるまわっている解説があるだけで、文体とは何か、を明確に語ったものが見つけられませんでした。
    曰く文体はそれ自体が作品である、曰くそれは書き手の生理である・・・とか、そういう言い方に大変感心させられるのですが、でもどうも論理的な説明は見当たらない。
    文体というのは個々の作品について語っていけるのみで、「文体」という抽象的な概念は成り立たないのかと思いました。
    まずは小林秀雄の言うように味わうことなのでしょうね。小林秀雄の言うことは少しは理解できるようになったような気のせいのような・・でも少し感じ取れるものが増えたような気がしました^^

  2. 四季 Says:

    幻想がだんだん幻滅になるって、ほんとそうですね!
    小学校2年の時に6年生の教室に行った時に感じたものは
    自分が6年生になった時には既に消えうせていたし…
    中学1年の時に高校3年生の先輩に感じていたものも
    自分がその年になった時には「あれ、こんなはずでは」状態。
    そのくせ、その先輩のことを思い出す時は
    その高校3年生の時の姿のままなんだから可笑しいですが。
    今の自分からすれば、高校3年生なんてまだまだオコサマなのに
    その時は、この上なく大人に見えたんですよねー。(笑)

    この中で一番印象的なのは「暗い流れ」です。
    引用されている場面、すごく浮かんできますね。
    男の子にとってのお母さんという存在が分かる気がします。
    きっと女の子にとってのお父さんとは、また全然違うんでしょうね。

    自分が老人になっても、お母さんのことを思い出す時は
    その時のお母さんなんですね。
    あ、なんだか高校3年生の先輩を思い出す時みたい…
    というのとはちょっと違うか。(笑)

  3. overQ Says:

    ★kyokyomさん。

    文体というのは、じつはそんなにややこしい話ではないのです。

    歩いたり、ご飯を食べたり、飛んできた物をよけたり
    …そうした動作は無意識のもの。
    意識でこうしよう、ああしようと思ってるのではなくて、
    カラダが自然にやってしまうこと。
    そして、人それぞれに癖がある。
    自分でそうしようと思ってなった癖じゃないのに、
    人それぞれのカタチがある。

    言葉も、母国語の場合はそうで、
    次々に言葉が自然と出てきて、しゃべることができる。
    これはもう、幼稚園児でもそうで、
    自分のしかた、自分の言葉でしゃべっている。
    物を書くことにある程度なれている人は、
    まちがいなく自分の文体を持っている。持ってしまっている。

    難しいのは、むしろ、これをコントロールすること。

    野球の選手は、自分のフォームの改造に、
    非常に苦しむものですが、
    それは自然にカラダが仕出かすことは、
    意識では制御できないため。
    そこで、カラダと対話するようにして、
    だましだまし、訓練していく。
    何をどうやっているかわからないけれど、
    とにかく結果が出るというような、
    ほとんど呪術的な方法論に
    達しているスポーツ選手は多いのですw

    ロボットのアシモを歩かせるのに、
    優秀なエンジニアたちはたいへんな苦労をしていますが、
    メカニズムを解き明かして、そののち歩く、
    …という科学の方法論は、
    「カラダが仕出かすこと」になかなか太刀打ちできない。

      +

    文体で難しいのは、定義ではなくて、
    その実践にあるんだと思います。

    次の記事で、村上春樹の言葉をいくつかご紹介してますが、
    春樹さんもスタイル(=文体)を重視する。
    確固として確立した文体は、
    翻訳を通じても、失われない、と言っています。

    言葉が話せるという現象は、
    かなり異様なもの。
    心に曖昧模糊とした思いがあって、
    そこに、壁のシミに「顔」を見出すように、
    言葉のカタチがあらわれる。
    占いと同じ原理。

    自分の言葉と思ってるものは、
    じつはそうではなくって、
    神の言葉なのかもしれない。

    スポーツ選手は、このことを
    よく理解してると思うんです。
    いつも、自分のやりたいようには、
    カラダは動いてくれず、
    (自分のカラダだというのに)
    まれに神がついたように、
    まったく思いもしなかった、
    練習でもやらなかったことが、
    できてしまう。

    作家もまた、言葉がそのように、
    さきはう瞬間を待っているんですよ、きっと☆

  4. overQ Says:

    ★四季さん。

    「先輩」
    それは何か、神話的な元型であるのかもしれません。
    実在しないのに、何か心に触れるキャラクター。
    演じることはできるかもしれないけれど、
    それ自体になることは、けっしてできないような。

    父とか母とか、
    あるいは男とか女もそうで、
    ほんとうは「ニンゲン」しかいないのかも。

    最近、格差社会ということで、
    勝ち組とかいうけれど、
    自分が勝ち組だと思えてる人はいなくて、
    ただ他人からそう思われてる人がいるだけ
    …みたいに見えます。
    演じ続けるには、つらい役そう。

    「暗い流れ」は独特の作品で、
    人間を支えているもうひとつの力
    …言葉にするのは難しいけれど、
    誰もが日々実感はしているような、
    生命の暗い力のようなものが、
    うまくとらえられています☆

コメントする