AZ::Blog

AZ::blog Home >> 村上春樹がタイム誌で読者の質問に答える
19
Sep
2008

村上春樹がタイム誌で読者の質問に答える

雑誌TIMEを読んでたら、村上春樹さんが読者からの十の質問に答える、という記事がありました。
1ページぽっきりの、ちっちゃな記事。10 Questions というシリーズです。

10 Questions for Haruki Murakami - TIME

「一番好きな小説は?」 −グレート・ギャツビー。
「マラソンの魅力は?」 −長編を書くのには、集中と忍耐がいるけれど、
マラソンは忍耐力をあたえてくれる。

…といった具合。

「小説はスタイルが重要。
文章が自然なリズムを持っているなら、
翻訳されてもそれはそこなわれない。」

「太古の洞窟で、狼の吠える夜闇に対抗して、
人々が火を囲み、物語のよき話し手に耳を傾ける。
自分もそんなふうに語るべき物語がある。」

…などなど。
興味深い発言も多いのですが、特に面白かったのは、

A good musician doesn’t know what’s going to happen next.
(すぐれたミュージシャンは、次の瞬間、何が起きるか、知らない。)

ジャズの即興の話をしているのですが、
自分の小説の書き方もそうなのだ、と春樹氏。

次回作は、もう二年近く、専念していて、
これまでで一番長い(つまりねじまき鳥クロニクルより長い?!)、
「very long, weird love story(すごく長くて、フシギな愛の物語)」になるそうです。
たいへん、楽しみです☆

関連する記事

トラックバック

コメント

  1. kyokyom Says:

    春樹さんの長編とても楽しみです^^

    ところで、文体について色々ご教示下さりありがとうございました。
    とても面白くまたためになりました。実はお友達のある方と以前から何度か文体って何かなあ?ということでやり取りをしていたのですが、overQさんの書いて下さったことに色々と教わることが多かったです。
    野球との関連が面白く、実践という意味が重要だとの指摘に深く頷きました。

    実はまだ疑問はあって、お友達が以前から指摘しているのは、ある人の文体のオリジナリティはどこからはじまるのか?ということです。
    ある人が作家を目指すときに、その人なりの文体というのはある程度あったかもしれない。たとえば、村上春樹もデヴュー当時からそうだったかもしれない。
    それは今ではより強固に確立されたわけですが・・・たとえばある人は最初に自分のそれなりの文体があったけど、あるときに先人の作品を読んでそれにとりつかれてしまうこともある。
    これはお友達から教えて頂いたのですが


    浅田次郎氏がこのように言っています。
    「川端康成に嵌った人は多いはずである。ただしこの作家固有の空気、一行を読んでそうと知れる文体は憑物のごとく祟るので、小説家たらんとするならいっさい触れぬか、触れてしまったらとことん読んで脱却をはかるしか手はない。現代作家でもいまだ祟られている人は多い。」(浅田次郎編『見上げれば 星は天に満ちて-心に残る物語 日本文学秀作選』文春文庫)


    ということを教えて頂きました。

    僕自身は、文体というのは面白いものだなあと思うことは、たとえばある人の写真を見ると、つい「あ、この写真には文体がある(と感じる)」などと比喩的にそのように考えてしまうことがあります。あと他にも映画とかかなあ。
    何か創作の秘密と関係あるのかな。

    でも文体だけを見つめると今度は物語を生む能力とかを軽視しそうになりそうで怖いです。
    たとえば、僕はラノベ(更にはケータイ小説)には基本的に文体がないと思っているのですが、それでじゃあつまらないかというと・・・そうでもないかなあ。
    文体と物語の関係性とか色々考えてみたいなと思っていますが、これからも注意を払って色々調べていきたいです。
    と、色々教えて下さったことに対するお礼に参ったのですが、つい自分の疑問も書いてしまいましたので返事はどうかお気になさらないで下さい。
    というか、overQさんが実践が大事と仰っていて、僕もそれに賛同しているのに、まだ考えてしまいます^^
    長文失礼しました。

  2. overQ Says:

    いつも同じたとえ話ばかりするのですが、ロールシャッハテスト。
    インクのシミから「何か」を連想する。
    それは、しようと思ってするのではなくて、
    当人の意志とか訓練とは離れて、自然にあらわれる連想。
    そもそも、インクのシミは、インクのシミ。それ以外の何物でもないのだから。

    ここがきっと、すべてのアート(技術、芸)の始まりと思うんです。
    歩いたり食べたりする動作でも、同じ原理が働いていて、
    我知らず、それはできてしまう。
    そして、その人なりの個性、癖がすぐできてくる。
    むしろ意識的に、一定の型に矯正するほうが、ずっと骨が折れる。

    言葉でも、自分で制御しているのではなく、
    勝手に言葉がついて出てくる。
    読書という体験でも、本という「インクのシミ」を見て、
    無数の、我知らずの連想が働いて、
    「意味」を形成している。
    同じ本を読んでも、人によってちがった感想を持つのは、
    「文体」が個性化するのと同じ原理。

    村上春樹が、「次の瞬間、何が起こるか分からない」
    ということを、アートの基本的な技法とみなしているのは、
    その点で、とても正統だと言えそう。
    結局、物語は、「言葉つき=文体」によって、導かれる。

    「ものまね」の問題は、技術・芸能で、
    いちばん面白いもの。
    個性的な技があるからといって、
    その「個性」は、自分の個性ではない。
    とり憑いている神の個性
    …と古代の人は考えた。

    時代の文体というのもあって、
    村上春樹は登場のころ、
    片岡義男とか、わたせせいぞうとか(笑)、
    ホットドックプレスのような雑誌の文体に、
    近いものとみなされていました。
    また、若い作家志望の人たちは、
    一斉に、村上春樹風の文章を書くようになったそうです。

    ライトノベルも、まさに「ラノベ文体」で書かれている。
    個性が、人単位ではなくて、神単位であるから。
    時代にとり憑く神々がいる。

    明治以降、日本語の文体を作っているのは、
    じつは翻訳であり、しかも「誤訳」が
    日本語の革新を果たしてきたんじゃないでしょうか。
    このことはいずれ詳しく書きますが、
    外国語力があまりない状態で翻訳すると、
    まさにロールシャッハテスト状態になりますからw
    意味不明の暗号を、妄想で読み補う!

    占い師が、亀の甲のヒビや、水晶玉の文様から、
    未来を読み取るような世界です。
    新しい日本語、新しい物語、新しい時代の気分は、
    そのようなトンデモな誤訳から発生した可能性が高い。
    若いときに、「誤訳」を読んで、
    その「神」にとり憑かれた人が、
    その文体の保菌者になって、
    新しい日本語を作り出してきた。
    村上春樹だって、じつはそうなんです。
    彼の文体の源は、おそらく早川書房の出版物にありますから。

コメントする