新ブログの大きな目標のひとつは、
過去ログをアクセスしやすいように分類すること。
ブログは時系列に記事を並べる、日記風がふつうのスタイル。
なので、どうしても一番新しい記事にアクセスが集中する。
過去ログはもっぱら、Googleの検索で来られる
イチゲンさんばかりが、まずはたどりつきがち。
それはそれでいいんだけど、うまくリンクを張りめぐらせれば、
もうちょっといろんな記事へと好奇心を誘導できるのではないか。
記事どうしが協調し相互に干渉しあうことで、
新しい興味が生まれることもあるのではないか。
カテゴリーとタグ。
ブログにはデフォルトでふたつの分類の仕組みがある。
旧AZ::Blogは、MT2時代から始めたので、
最初の頃はまだ「タグ」というものはありませんでした。
カテゴリも子カテゴリ・孫カテゴリを作るような仕組みはなかった。
タグとカテゴリはどう違うのか。
どう使い分ければ、うまく整理できるんだろう。
…これが長い間、よくわかりませんでした。
前のブログでは、カテゴリにもタグにも
同じ項目を使ってしまったり。
あるいは、もっと悲惨ななのは、タグに
「京都」、「京」、「KYOTO」、「Kyoto」
が混在するという羽目に陥っておりましたから(なぜか自慢げ
分類すればするほど、余計わかりにくくなってたよ( ´△`)
ところで、五月のある晴れた日の午後、
ウグイスの鳴き声と古紙回収の呼び声がこだまする叡山の裾野で、
私は初心者向けのプログラミングの本を眺めていたのでした。
だいたいこの手の本は、オブジェクト指向について
説明するふりから始まります。
「オブジェクト指向の本格的な理解は、
ぽまいらみたいな初心者にはわかるはずもない、
説明しようもないものであって、
今後も一生わからないままかもしれぬが、
ちょっとさわりだけでもサルでもわかるように
話しておいてあげるわ、おほほほ」
だいたい、そういう内容の前置きがあって、
次にたとえ話を用いての説明が始まる。
「馬とクルマ。
クルマは、《無生物>機械》という親クラス子クラスに属していて、
馬は、《生物>動物》という親子クラス。
一方で、クルマも馬も、『走る』というプロパティ(属性)を持つ。」
にゃるほど。
これを「カテゴリとタグ」に使えばいいわけだъ( ゚ー^)
カテゴリはクラスで、タグは属性。
わかった。
わかった気になった。
そうだ、そうだったのだ。
おらの記事は、じつはオブジェクト指向だったのだ!
(サルレベル)
…という方針で分けていくことにしますわ。
とにかくシンプルな大方針をひとつ作っておく。
とりあえずの今可能な得策。(と信じておく)
とはいえ。
理論と実践はちがう。
もうすでに、この記事にしてからが、
どんなカテゴリで、どんなタグを持つべきか、
まるで見当がつかぬわ。ふっふっふ(不可解な笑
かくして、まだ二つ目の記事だというのに、
すでに分類のことで悩んでいる私に、
六月の生暖かい雨は網戸のどす黒い汚れを含有しつつ、
窓の隙間からぱしゃぱしゃと容赦なく降りかかるのであった。(つづく)
ブラウザのウィンドウの四隅にカーソルをもっていくと、
ナビゲーション(他ページへのリンク)が表示される
…という仕掛けを設置してみました。
新ブログの目玉機能。
名づけて、CSSコーナーナビ。
まだ記事が少ないんで、リンク先があまりないんだけどw
なお、IE6では表示されませんヽ(´ー`)ノ
Firefox、Safari、Opera、IE7では、ちゃんと使えるのにな。
IE6だけが、だけが、だけが。。
opacityというCSSのプロパティを使ってます。
透明度を指定するやつ。(IE7では、filter:alpha)
通常は透明度100%で見えなくなってて、マウスを持ってくると、hoverで透明度が0になる仕組み。
「position:fixed」にして、画面の四隅に配置し、透明度の設定をするだけ。かんたん。
長い記事で下の方にスクロールしてても、ちゃんと四隅にナビが現れます。
IE6でもやろうとするなら、透明度を使うのではなく(hoverの時にうまくいかないみたい)、
配置のleftやらrightやらtopやらbottomやらの数値を、
hoverの時に変化させるようにすればいいじゃないですかね。
バックグラウンド画像もちょっと余白のあるのにして。余白はgifかpng8の透明を使うのもあり。
そうすれば、opacityというやや怪しげな機能を使わず、Validateもパスできるし。
(まだ他にもやり口はありそう。)
…と、わかってるなら、やれよw
でも、たしか「position:fixed」にも、IE6だけ罠があるんです。もー。面倒くさいっす。
結局、CSSハックするのが、手っ取り早いのかなあ。。
(と、この記事は、IE6ユーザを、他のブラウザへ誘導する意図をひそかに隠し持っていますw
ブログのデザインで、IE6だけが、いつもいつもヘンになって、泣きそうでした。ちょっと怒ってますから。
そして、こんなにいっぱいブラウザの選択肢があるというのに、IE6ユーザの数がいまだいちばん多いという事実。
政治とか市場とかでも、この原理によって、「最悪」が多数によって選択…されてなければいいのだけれど)
たら本44回が、カミング・スーン。
44回はGREENFIELDSの美結さんが主催者さまです。
今回のバナー、上の絵に決まる前にプランAがありました。今回のお題のヒント。
何か分からんのでボツになったのですが( ;∀;)、元ネタはこれです。
プランBが上図ですが(じつは製作時間が5分だったりする…プランAは90分くらいかかってるというのにw)、
彩度が低すぎて、線香の箱の絵みたいになったので(;・∀・)、実際のバナーはもうちょっとカラフルにしてみました。
うつぼ舟で流される恋人たち。それは世界的に広がる神話。マリア・イエスの聖母子が古事記で見つかり、アダム・イブの恋する兄妹が、宇治拾遺物語から夢野久作にまで流れ着く、という驚くばかりの根強き伝承。...![]()
ノアの箱舟は「うつほ舟」?
柳田は、周防の大内氏や備前の宇喜田氏など、瀬戸内の古い氏族のうちに、百済の王子がウツホ舟に乗ってタタラ浜にたどり着き、一族の祖となった、という伝承をもつものがある、と指摘しています。
それらの伝承、話の後半は長者譚になっていき、その繁栄を受け継ぐものとして、今の一族があると。*1
前篇で取り上げたペンタメローネの話も、長者譚や一族の祖のカタリの気配を残していた。
まさに娘がどこかの馬の骨(=神の子)と作った「分家」ですから。分家が王様の本家を食うという結末。
きっとインドとかペルシャとかエジプトとか「世界の中心」から、端へ端へと、「新天地」を求めて、歩いていった人々がいて、その東と西の端がわれらがご先祖。
ユーラシアの東と西の端で、似たような物語があること。
うつほ舟に乗って、一族の先祖がこの地にやってきた…それはまるでノアの箱舟。
そう、人類、いやすべての種が、方舟というウツホ舟に乗って、流れ着いた祖から繁栄していった、という伝説。
これらの類似は偶然ではなく、同じ源から派生したバリエーションなのではないか。大きすぎて論証できないけれど、だんだんそう思えてきました。
「前篇」では、神功皇后+応神天皇の母子が、マリア+キリストに似ていることを書いた。
以下ではさらに、イザナギ・イザナミと、アダム・イブがとてもよく似ていることも見ていきます。
どれも、「うつほ舟」がキーになっている不思議。
日本の錬金術
柳田は、民話や伝説にある
「炭焼小五郎」
「金売吉次」
「芋堀り藤五郎」
といった長者譚を、ウツホ舟に隣接するものと見ています。
こららの話は、どれもペンタメローネの話によく似てるんです。
姫や長者の娘が、風来坊の男と結ばれる。風来坊は金属を錬成して、新しい長者となる。
そして、この話は、日本中いたるところにあります。
九州の八幡のあたりにもあるし、金沢の地名の由来でもあるし、黄金で有名な奥州藤原氏の伝承でもある。
奥州藤原氏といえば、先日の地震の宮城県栗原市。
あそこは金売吉次伝説の本場のひとつ。「金成」というズバリな地名が残っています。
地震で山が割れたけど、もし金脈が出てきたら。禍転じて…となるのになあ。ふと、そんなことを思いました。
八幡と関わるもの。金属を扱う人々。
山師や鍛冶師、鋳物師(イモジ…ここから「芋堀り」になる)が、鍬や斧、釜や鍋を打ち出して、開墾は始まる。
この人たちは、独特の神秘主義を持っていた。ユーラシアの西の端では、錬金術になっていくもの。
母胎−子供
ウツホ−神の子
鉱山−鉱石
炉−金属(黄金)
穂−米(麦)
試験管−ホムンクルス
竹・桃−姫・太郎
山(海、あるいは夜)−太陽
「包むもの」と「孕まれるもの」のアナロジーが、この信仰の要にある。
黄金や実り、神の子が、母胎に孕まれたのち、この世に新生する、という考え。
ヨーロッパの錬金術の思考でもある。
錬金術はたんなる金属加工ではなく、これらの柔軟なアナロジーによって、心の深層構造を旅するものであるのは、ユング翁の論考でつとに有名。
妹兄島の伝説
さて、前篇で取り上げた八幡さま、つまり神功皇后と応神天皇の聖母子では、母がクローズアップされているのですが、子供の方にもっぱら着目した場合。
赫夜姫や瓜子姫、一寸法師や桃太郎(たぶん山の子である「金」太郎や、海の太郎の浦島…玉手箱はウツホ)なんかがそうです。
今回は触れませんが、義経=牛若丸=御曹司の伝説も、じつはウツボロジーのバリエーション。蘇民将来もそうだと思い始めていますが。*2
子供の方に着目して、なお「一族の祖」というストーリーを保持したい場合。
そんな時は、子供はふたり、「男と女」となる。
アダムとイブ、イザナギ・イザナミ。そこから、孫・曾孫…連綿と一族が生まれてくる。
ペンタメローネの、樽詰の「ヘタレ少年とツン姫」との婚姻譚も、このタイプ。
ウツホの生み出す(子)宝によって、めでたしめでたしに終わる話。
しかし、もっと奇妙な場所にも、「類話」が見つかる。
夢野久作「瓶詰地獄」。
浜に流れ着いた瓶の中の手紙。そこには、孤島に流された兄と妹の物語がしたためられていた。
「瓶」は手紙が入っていたウツホであり、また二人が閉じ込められた孤島のアナロジーにもなっています。
じつは宇治拾遺物語の「妹兄島(いもせじま)」の話もこれで、妹と兄が、苗代と鋤・鍬・釜・鍋など稲作の道具一式とともに、舟で流されて孤島にたどり着き、島民の祖となる、というもの。
この「妹兄島」伝承は、南方の島々に広く分布しています。島の起源をカタる、アダムとイブとして。
夢野久作は、妹兄島伝承からこの作品を着想しているんだと思います。
神話学者の吉田敦彦さんは、アジアの神話との比較から、イザナギ・イザナミもほんとは「兄と妹」だったはず、と指摘。( 日本神話の源流 (講談社学術文庫))
つまり、日本という島の起源も、「妹兄島」伝説になっている。
列島自体を生む、兄妹婚。最初に生まれたヒルコは、「葦舟」に入れて流すことも言い添えて(書紀では「天磐樟船」で、よりウツホ舟っぽいと柳田)。
きっと、アダムとイブもほんとは兄と妹で、人類発生の類話なんだろうなあ。*3
夢野久作がまだ作家「夢野久作」になる前に書いた「白髪小僧」。
これも、風来坊の少年と、お姫様の婚礼譚として、ペンタメロンの話などと、そこはかとなく似ています。
夢野はこの系統の話をどこから仕入れていたのかが、じつに不思議ですねえ。
久作の故郷は北九州で宇佐八幡の地元。おまけに謡の師範。芸能を通じて口伝の古伝承の端々に触れる機会はあったかもしれない。
また、右翼の大物、地域の大立者の息子として、旅芸人との交渉などもあったこと、「犬神博士」を読むと想像させる。
「白髪小僧」「瓶詰地獄」「犬神博士」と読むと、太古の伝承がまだ脈々と生きていることを思わせます。
そして、このマグマに降れているせいで、夢野久作は近代文学史のカヤの外にあるのかしれない。
書き物による表の歴史ではなく、口承文芸の流れのうちにあるから、と言いかえてもいいですが。
おまけ・秦河勝のうつほ舟
謡や能といえば、うつほ舟は、秦河勝の最後(=転生)にも現れる。
難波から赤穂の坂越(さこし、しゃくし)にどんぶらこ、うつほ舟(空舟)で流れ着き、その地で荒神となった川勝は、能の元祖とされ、大避神社に祭られています。(金春禅竹「明宿集」)
うつほ舟と能の奇妙な結びつき。
赤穂から赤穂浪士という江戸の荒神が出現、歌舞伎でヒットするのは、たぶん偶然ではなく、この地の伝統がいわば転生しているのかもしれない。
また、大阪湾から播磨方面の瀬戸内は、安倍晴明・芦屋道満といった、陰陽師と遠からず近からず、微妙に重なり離れている地域。渡辺綱とかもこのへんだし、秀吉が管理したがった荒事のできる連中の出自もこのあたり。西宮−淡路は、傀儡・式神といったものののテリトリーでもある。嘉吉の乱も思い出す。そして、広峰から京の八坂に牛頭天王が運ばれたことも。
歌舞伎の連中は、こうした伝統に通じているんだと思う。
ついでに、平家物語の「鵺」のことも、強引に書いてみると。
ヌエさん。謡曲にも採られていますが、このヌエもウツホ舟(空舟)で流される。
端的にいってしまえば、「ヌエ=川勝」説というトンデモ。
京都のヌエ神社のある場所。二条城の北、NHKのビルの南です。
ここは、元の大内裏で、韓神社・園神社が祭られていた場所だと思いますが、どうなんでしょう。
内裏で祭られていたのは、このふたつだけだったそうです。
この二社(韓は二柱なのでほんとは三社)は平安京以前からそこにあった。そして、この地は平安京以前、秦川勝の邸のあった場所と伝えられる。
河勝のまつっていた社である可能性。
かくして、ヌエ=韓園=川勝と結ぶことができるんです。*4
おまけ2・UFOにされたウツホ舟
子供のころ、江戸時代のUFOだとか言って雑誌なんかによく出てきた、「虚舟の蛮女」。
八犬伝の馬琴たち、江戸の好事家たちが、持ち寄った奇談をまとめた「兎園小説」の一篇。
常陸国の「はらやどり」(!)という浜に、「蛮国の王女」が流れ着いた、という実録。ペンタメロンの話のちょうど続きみたい。
◇『兎園小説』第十一集より、「うつろ舟の蛮女(兎園小説版)」(奇談)
もう詳しく説明する必要もなく、これは新羅なり百済なり外国から流れ着いた、うつほ舟の伝承の残滓。遠き島より流れつくもの。
母子だったはずですが、ここでは母だけに(あるいは姫=妹だけに)。
妖怪・泥田坊がダイダラボッチであるように、弥生時代には存在していた伝承が、徳川時代にはビミョーな形に姿を変えています。
馬琴はこの「実録」が、古い古い伝承から流れ着いたものであることを、ほんとは知ってたんじゃないかなあ。
なぜって、八犬伝の、姫が孕む犬の子の八剣士、それは「八王子」の伝承を踏まえている。
日本中から奇談・伝説の類を集めたおしていた、江戸の民俗学者・馬琴。
八王子の伝承(あるいは蘇民将来のバリエーション)、そこに隣接可能な話としてウツホ舟があること、そして、究極的にはこの系列のうちに列島のすべての神話が包摂できる可能性…そんなことに気づいていたのではないか。
そして、その強引な実現が八犬伝であると。柳田先生が馬琴には嫉妬するわけだ。
¶ Footnotes:
- 長者は「真野」「万之長者」などと呼ばれる。
このマノ・マンノは、たぶん空海の作ったリザーバの満濃池とも底で通じている。
性能のよい鉄器で土地を切り開き、黄金の稲穂がたわわに揺れる新しい新天地を夢み、列島に分け入った人々と関わる名称。
「分家」を枝分かれさせながら、奥地へ奥地へと開発を進める。古墳時代には確立されていた生き方。文献にある「歴史」とは別に、じつはこっそり近世初めくらいまで、実践されていたのではないかと思ったりもします。日本中に同じような地形と地名が分布する謎。 [ ↵ ] - 海の魚のウツボも、海底の「うつほ」にこもる竜神というイメージで、こう呼ばれるんでしょう。太陽の子としての龍。ウツボは、金色してますし。
弓矢を入れる「靫」も、ウツボと読みますが、これは猿の子の皮で作る。猿の子は、日吉山(比叡山)の守り神で、もともとは、太陽の子。猿田彦=天狗がそうで、赤い顔が輝き、最後は海にしずんで、貝に食われます。貝は「うつほ」で、夜の間にそこで再生して、朝になるとまた山なり海なりから、新生してくるのです。 [ ↵ ] - たぶんアダム・イブの二人は「ふたり」ではなく、一人。両性具有。
イブがアダムの肋骨であったりするのも、この男女がもともとはひとつであったことを示すもの。カバラでは宇宙と同じ大きさをした「原初のアダム」は両性具有で、ゾフィ(叡智)と呼ばれる女性性と一体化している。 [ ↵ ] - 河勝については、実在した秦河勝よりも、この人物を神としてかかげてまつり、伝承を運び派生させている人々、何世代にもわたり見えない存在である人々を考えることがポイント。
それは聖徳太子や空海や和泉式部や元三大師や義経や天神道真や小野小町や小野篁なんかもそうで、歴史上の人物よりもヤマトタケルやスサノヲのようなものに近いものとしてカタられることも多い。 [ ↵ ]
さて、たら本です。
44回は、GREENFIELDSの美結さん主催、お題は、「種子を蒔くもの、花と緑の物語」。
地球規模での環境変化が言われて久しいのですが、事態はどんどん進行しているようです。ごく身近なレベルまで、さまざまな形で影響が現れているこの頃。
環境問題は、「地球規模」であると同時に、路傍の草花のような小さな命のいとなみの話でもある。
巨視的な問題と微視的な問題がおたがいにかかわっていること。これがエコロジーの基本だそうです。
たとえば「雀の毛槍」などは、私らが描いてもてあそんだのは、もっと茎が長々として花の総が大きく、絵にある行列のお供の槍とよく似ていた。母子草もこちらのは、餅に入れるほどにもふっくりと伸びず、小さなうちにももう花が咲いてしまうのは風土のためであろう。すみればかりは関東の野のほうが種類も多く、色もずっとあざやかなように思われるが、蒲公英もまだ紫雲英も、花がやや少なくかつ色が寂しい。ただその埋め合わせに野木瓜とか山吹とか、故郷で覚えていないさまざまの花が、この野の春色を豊かにしているのである。昭和三年のはじめての春は楽しかった。もしも幸いにこの家に十年、何事もなくて住みつづけることができたら、草の話を小さな一巻に集めて、子供や古い老人に読んでもらおう…。
柳田國男「野草雑記・野鳥雑記」
昭和三年、民俗学という新しい学問の確立と発展を目指して、ばりばり仕事をしていた柳田。仕事場として、新居を喜多見(今の世田谷区成城)に得た。
ところが激務の一方で、上のように、庭や近所の路傍の雑草に目をやっては、事細かに思いをはせる。
少年の頃、故郷の播磨に見た草木の印象を呼び起こしながら、目前の小さな命の微細な表情を嬉々として描写しています。
いつも柳田國男で不思議なのは、こうした、誰も目を向けない小さな端っこへと心をさまよわせながら、一方でメインストリームの巨大な業績を打ち立てるという、二重性。いや、それとこれがつながっていること。
民俗学に専念する前、官僚として高い役職にあったそろそろ四十郎の柳田は、休日にはダイダラボッチの足跡をもとめて、東京郊外をさみしくさまよい歩いたりしています。
それはどういう心の動きなんだろう。
文字に書かれたり、遺物や伝承などの大きな痕跡を残したものよりも、跡形もなく消えてしまった名もなき小さき末梢的なもののほうが、ずっと多い、という真実。証拠が残ってないから、証明はできない。
ここが柳田の出発点。
ほとんどの人間は、たしかにこの世に生きていたにもかかわらず、ほとんど何の痕跡も残すことなく、歴史の向こうへ消えていく。
柳田がいつも思っていたのは、そうしたあり方であり、それが少年・柳田の、「日本一小さい家」での生だったのでしょう。
さて、今回のお題でとりあげたいのは、ダーウィンの「ミミズと土」。
ダーウィン最晩年の研究で、ミミズの話です。
花と緑を支えるのは土。そして、その腐葉土はミミズの糞便が正体。
偉大なダーウィンには、もちろん植物の素晴らしい研究もあるのですが、入手しやすくて読みやすいこと、すべての命はつながっていることから、このミミズ本を取り上げてみます。
ミミズは、最初にほとんどの人々が考えるよりも、世界の歴史において、より重要な役割を果たしている。
チャールズ・ダーウィン
ミミズの微細な生命活動が、地球環境に絶大な影響を与えていることを論じたもの。
ダーウィンの多くの論文同様、現在の生物学の水準でも、十分に先端といえる、きわめて綿密で独創的な研究。
微細なものが、時間をかけて積み重なり、巨大なものを動かす。
これがダーウィンの考え方の基本。まさにエコロジーの元祖。
ダーウィンの初期の研究は、珊瑚礁がどうやって出来るかというものでした。
ラグーンとかバリアリーフとか、南の海の、珊瑚礁が輪っかになって島を取り囲んでいる地形。
サンゴ虫という非常に微細な生命が、長い年月をかけて、巨大地形を生み出す。
島の沈降と、珊瑚の形成によって、あのリングの地形が生じることを、ダーウィンが論じ、これが実際に起きている現象であると証明されたのは、はるかのち。皮肉にもビキニの核実験跡を掘削調査した時のこと。
天才ダーウィン。
そして、ダーウィンといえば、進化論。
これも、微細な個体の変化が、長い長い時間をかけて、種の隔たりを生み出す、というもの。
「種の起源」は細かいところまですごく丁寧に、しかも大胆に考え抜かれていて、まさに「ミミズ的」天才の偉業。微細な知性の躍動が巨大な成果を生む。
ひとつひとつのことがらは難しいわけではないけど、あまりに事細かすぎて、学者でない読者には煩雑でもあり、まあ全部を全部読む必要もないんですが(笑)、この周到さ、考え抜かれていることは、驚き。
もともとダーウィンは、生物の分類方法に、新発想をもたらそうとしていたそうです。
世界をかけめぐるようになった近代ヨーロッパ。地球上のありとあらゆる珍奇な生物の情報が蓄積される。
これを分類しようとするわけですが、まあふつうはまず、特徴的な形や機能で類似するものを「仲間」とみなす。
だけど、これだと、例えばシャチとサメは、同じ仲間になってしまう。コウモリと鳥なんかもそう。
ちがう方法がある。
クジラの骨をよく調べると、まるで「特徴的」でもなく、「機能」もしていないけれど、後ろ足がある。
これはかつて「足」があった証拠で、泳ぐのには役に立たないので、だんだん目立たなくなってしまったものだ、と。
ヘビにも「足の痕跡」があるし、ヒトには尻尾の痕跡がある。
コウモリの翼は、よく見ると指になっている。
このように、またしても、誰もが目を向けない、微細で脇役の「痕跡」に目をむける。
むしろそれが重要なんだという逆転の発想で、さまざまな生物の形をトポロジカルにつないでいく。*1
隅っこにあって、誰の注目も浴びず、何の役にも立ってない、ほとんど存在していないほどの小さな営み。
ところが、それらが、長い長い時間をかけて積み重なり、地球全体や宇宙といった、いちばん大きな動きに決定的影響を与えている。
このアイデアが結局、正論だった。
真ん中にあって、みんなの目を引き、価値そのものであって、決定的な役割を果たしているように見えるものが、じつはそれほどでもない、という考え。ゲーテなんかとは対極にある。
人間の作った大神殿の遺跡が、ミミズの作用によって、だんだん地中深く埋もれて、見えなくなってしまう。
…奇妙に寓意的にひびく、ダーウィンの最後の研究、「ミミズと土」。
「種の起源」は読むのが煩瑣ですが、この本は小さくて、いっけんどうでもよいようなことが発見的に、うれしそうに描写されていてます。ちょっと小説みたいな印象を残す。この人は明らかにミミズが好き。
いろいろなものを食べる動物は、味覚を持っていると推測していいだろうし、このことは、ミミズについても確実にあてはまる。ミミズはキャベツの葉を非常に好んで食べる。ミミズはまたキャベツの品種も識別できるようである。しかしながら、このことは多分、キャベツの膚ざわりのちがいによるものだろう。
ダーウィン「ミミズと土」(p35)
「キャベツの膚ざわり」って…ミミズの食生活に感情移入しとる。。
个个个个个个个个个个 more trees 个个个个个个个个个个
ダーウィンの著作は、今、新しい日本語訳が進行しています。( ダーウィン著作集〈別巻1〉現代によみがえるダーウィン)
翻訳に当たってる研究者は、ダーウィンの新しさ、その研究の多くが、今でも現役で通用することに驚いている。何度も「乗り越えられ」「ダーウィンは死んだ」はずなのにw
「ミミズと土」では、「ミミズの知性」ということをしきりと解くダーウィン。
なぜ性が存在するのか、道徳や利他性はどのように獲得されてきたのか、感情の表現は生物にとって何を意味しているのか…といった、生物学から出発しながらも、はるかな地平をもつ、いくつもの先駆的研究が、ダーウィンにはあるそうです。どれも、現在の研究者にとっても、非常に刺激的らしい。
大きいことの原因を、小さなみすぼらしいものに見出していく方法が、そこでも採られているはず。
環境問題は「正義」という価値と結びつきやすく、権力やマネーとからんで今後多くの「大きな」問題をはらむことになるでしょうが、そんなとき、いつもダーウィンの発想に戻って、ミミズの様子を観察してみることが、突破口になるにちがいありません。
¶ Footnotes:
- 当時の主流の学者は、この世界を神が作ったという前提を何らかの形で承認していたせいもあり、暗黙のうちに、「世界の意味」を求めている。
何の役にも立ってない部分は、恐竜の骨とともに、大いなる謎だったそうです。
「進化」「変化」という発想をとるにしても、それらの痕跡はもとは「完璧な状態」にあり、理想の原生物していたか、未来に存在するのだと考えたがる。
ナチスで悪名高い「優生学」は、いつもダーウィンと結びつけられるのですが、実際にはダーウィンの進化論が示す「適者」は、「理想」や「優れている」という考えと関係がない。
むしろ、あまりにも「人間中心」的でなさすぎるので、ついていくのがたいへんなくらい。
アメリカでは、キリスト教的な観点から、進化論を学校で教えないという運動が、つよい政治力をもっていて、「科学的」なわれわれはそれを笑いがちですが、ダーウィンの発想を徹底するのは、けっこうパワーがいるのかもしれません。 [ ↵ ]
このごろ、ネットで長い文章を読むのが、苦でなくなりました。好きになったといってもいいくらい。
なんでかなと考えるうち、フォントのせいだと気づいた。
去年(07年)の終わりくらいから、UbuntuをメインのOSに使ってますが、Ubuのフォントはかなり綺麗。
マックのがきれいなのは昔から有名だけど、Ubuのデフォルトのフォントもなかなか。
ことにアルファベットは多種多様に美しい。
日本語フォントも、種類は少ないものの、悪くないんです。
でも、「きれい」ということより、可読性というのか、読みやすさがグンと上がった。
多読速読、バリバリ文章を読み倒すのに向いています。
文字の縁のギザギザの処理の仕方が、ちょっとちがう書体。
じつは、Windowsでも、同じようなもの、使えます。
クリアタイプと呼ばれてるもの。Vistaではデフォルトですが、XPでも使用可能。
前にも少し書いたけど、またまたフォントのすすめ。
XPの場合、「メイリオ」と「IPAフォント」(あるいは「IPAモナー」)をインストール、
あとは、クリアタイプの設定をちょこっとすればよいです。
(ちなみに、Windows2000にメイリオを入れると、かなり無残な結果になるらしいですw)
もちろん、Ubuntuを使うという手もある。(ほんとはそれが一番おすすめ☆)
どんだけ綺麗になるか、以下にスクリーンショットのリンクを。
「IPA P ゴシック」「IPA P 明朝」「メイリオ」。
サンプルにつかったのは、青空文庫 「国枝史郎 神秘昆虫館」。
明朝が美麗です。
英語も見ときますと。
(サンプルページは、ニューヨーク・タイムズ。Op-Ed Columnist - Paul Krugman - Fuels on the Hill - Op-Ed - NYTimes.com)
フォントは、「Georgia」かな。どのOSにもデフォルトで入ってますが、IE6ではキレイに表示されんはず。
美しい。
長文を読みたくなります。
興味深いのは、昔からパソコンを使っている理系の人たちには、クリアタイプ系のフォント、かならずしも評判が良くないらしいこと。
「ぼやんとぼやけすぎ」って印象なんだそうです。
ここで、ひとつの憶測。
プログラミングをやってきた人は、このフォントを好まない傾向があるのかもしれない。
慣れということもあるのですが、もっと大きいのは、プログラミングの場合、一字一字の見誤りが致命的であること。
だから、少々ギザついていようが、くっきりはっきり形を認識できる書体がいい。
一方、大量に文章を読む場合。
一字一字の単位では見てなくて、少なくとも一単語…実際には、数文節を一度に視野に入れて、読んでいる。
視界に捉える文章が大きいほど、速読の度合いが増していきます。
くっきりはっきりじゃなくて、何となくぼやんと掴み取る。
プログラマとは、全然、書体に対する無意識の要求がちがうわけです。
いわば、木を見て森を見ないのと、森を見て木を見ないのと、二通りのタイプがあるってこと。
高速で標識を読み落としやすい人と、そうじゃない人ってのも、このへんと関係することかもしれません。
標識を読み落とす人は、逆に、「サービスエリアのマークを絵に描いて再現する」といったことでは、読み落とさない人より長けているのでは、と予想。どうなんだろう。












